自分にとって記念すべき信濃のお城第一号はこの海ノ口城となりました。ここは若き武田太郎晴信、あの信玄が初陣で大手柄を挙げた、といわれる地です。それにあやかって、というわけでもないですが、一番初めにこの海ノ口城に行こうと決めていました。
天文五年、武田信虎は佐久に出兵、平賀源心入道の立て籠る海ノ口城を攻め立てますが城は陥ちず、冬の到来とともに信虎は撤退します。ここで殿軍を申し出たのが信虎が一子、若き太郎晴信でした。信虎は晴信を疎んじ、事あらば次男の信繁に家督を相続し晴信の廃嫡を企んでいた、とも言われます。そうだとすれば、危険な殿軍を晴信自らが申し出たことは「勿怪の幸い」と思ったかもしれません。しかし晴信は手勢300を引連れ、平賀源心らが戦勝に浮かれ油断しているところを急襲、見事に敵将の平賀源心の首級を挙げた、これが晴信の初陣にして初の大手柄である、と言われます。これらは「甲陽軍鑑」に記されているところですが、この戦いが史実であったかどうか、平賀源心入道なる人物が実在したかどうか、そもそも天文五年に武田信虎による佐久侵攻戦が行われたのかどうか、など、疑問点も多いそうです。でもそう考えるとロマンが無い。「甲陽軍鑑」に記されている年代そのものが間違いであるにしても、ここで何らかの合戦が行われたらしいことは出土品からも推定され、また佐久甲州街道の重要な中継地であることから、相手が平賀源心かどうかはともかくとして、武田軍と佐久衆の間で合戦があったとしてもおかしくない、ここはやっぱり「晴信初陣の地」と思うことにしましょう!ちなみに首級を挙げて甲府に帰陣した晴信は、父・信虎に称賛されると思いきや、「首級を届けるだけなら使者を使わせれば充分であろう、城を陥としながらみすみす城を捨てて帰ってくるとはよくよく臆病者よ」と罵られた、とも言われます。
海ノ口城は千曲川の上流部、奥深い山間部にあり、甲武信ヶ岳、甲斐の国境はもううすぐそこです。ここは佐久甲州街道や大芝峠にも面した交通の要所でもあり、ここを抜かずには甲斐から佐久への道はありません。信玄晴信の佐久・小県侵攻でも何度も海ノ口を中継点としています。ここに聳える標高1357m、比高250mの奥まった城山に海ノ口城があったといわれますが、山の上の遺構は規模がとても小さく、「屏風岩」といわれる大岩壁周囲に若干の削平地、堀切などがあり、一応そこが城であったことを確認できる程度の遺構はありますが、少々ロマンを犠牲にして言えば、たしかに平賀勢2、3000といわれる兵員を収容できる広さの城ではありません。標高も比高も、必要以上に高いような気もします。平賀源心なる人物が本当にいたとしても、ここは居城ではなくあくまでも前進基地のひとつ、と考えた方が良さそうです。ただ、この城山を中央に左右にはU字型の尾根を控え、その間の谷津(現在の林道沿い)に「内小屋」にあたる居館があり、三方の尾根筋に城砦が構えられていた、と推定することも出来るかも知れません(信濃の城にはこの構造が多い)。このU字の尾根の南側のものは、遠目に削平地や堀切?と思わせる地形も無くは無いため、もしかしたら今確認されている範囲以外に広い城域を持っていた可能性もあるとは思います。信玄が佐久攻めにあたって陣所にしたのはきっと城山の要害ではなく、この谷津部や千曲川沿いの平坦な土地を中継点として用いたのでしょう。
しかし、この高地の主郭に立った時、念願の信濃の城攻めに来れたこと、「伝説」の晴信初陣の地に立てたことで結構感動しました。主郭付近は冷たい風が木々の枝を揺らし、時折青空から白い小雪が舞っていましたが、舞い上がる枯葉や触れ合う枝の音、冷たい風が気持ちよかったです。多少登りはしんどいものの、登山口にある「50分」はやや大袈裟で、男性であれば30分前後で登りきれるでしょう。ただやはり標高が高いので冬はそれなりに寒いことや、距離もそれなりに長いことは覚悟して来たほうがいいでしょう。大体そんな簡単に来れるような場所では「伝説」が成り立たないでしょうしね。