若き晴信、初陣を飾る

海ノ口城

うみのくちじょう(うんのくちじょう) Uminokuchi-Jo

別名:鳥井城

長野県南佐久郡南牧村海ノ口

城の種別

山城

築城時期

不明 

築城者

平賀源心入道(?)

主要城主

平賀氏(?)

遺構

曲輪、堀切

海ノ口城主郭と屏風岩<<2002年11月04日>>

歴史

築城に関する時期等は明らかではない。「甲陽軍鑑」によれば、天文五(1536)年の暮れ、甲斐守護の武田信虎は八千の兵を率いて佐久方面に出陣し、佐久平賀城主、平賀源心入道成頼ら二千の立て籠もる海ノ口城を攻めた。しかし三十六日間の包囲にもかかわらず海ノ口城は陥ちず、冬の到来とともに信虎は兵を引き揚げた。この際、信虎の嫡男、晴信(のちの信玄)が殿軍を申し出て許され、兵三百を率いて海ノ口城に向かった。一方の平賀源心は城兵の大半をその領地に返し、七、八十人の兵とともに海ノ口城で戦勝の酒宴を開いていたが、そこに晴信が奇襲を掛け、海ノ口城は落城し、平賀源心は首級を挙げられた、と言われる。この海ノ口城の奇襲戦が晴信の初陣にして初の戦功であると言われるが、平賀源心の実在やこの合戦が史実かどうかには疑問もある。

後に晴信が天文十二(1543)年に佐久大井氏を攻めた際や、天文十五(1546)年の内山城攻め、上田原合戦敗北後の天文十七(1548)年の佐久衆叛乱鎮圧、天文十九(1550)年の戸石崩れ後の村上義清の佐久再侵攻への対応などの際に、度々海ノ口を陣所にしていることから、海ノ口周辺が佐久甲州街道の中継地、兵站基地として機能していたことが伺われる。海ノ口城そのものが使われたかどうか、廃城の時期等は不明。

自分にとって記念すべき信濃のお城第一号はこの海ノ口城となりました。ここは若き武田太郎晴信、あの信玄が初陣で大手柄を挙げた、といわれる地です。それにあやかって、というわけでもないですが、一番初めにこの海ノ口城に行こうと決めていました。

天文五年、武田信虎は佐久に出兵、平賀源心入道の立て籠る海ノ口城を攻め立てますが城は陥ちず、冬の到来とともに信虎は撤退します。ここで殿軍を申し出たのが信虎が一子、若き太郎晴信でした。信虎は晴信を疎んじ、事あらば次男の信繁に家督を相続し晴信の廃嫡を企んでいた、とも言われます。そうだとすれば、危険な殿軍を晴信自らが申し出たことは「勿怪の幸い」と思ったかもしれません。しかし晴信は手勢300を引連れ、平賀源心らが戦勝に浮かれ油断しているところを急襲、見事に敵将の平賀源心の首級を挙げた、これが晴信の初陣にして初の大手柄である、と言われます。これらは「甲陽軍鑑」に記されているところですが、この戦いが史実であったかどうか、平賀源心入道なる人物が実在したかどうか、そもそも天文五年に武田信虎による佐久侵攻戦が行われたのかどうか、など、疑問点も多いそうです。でもそう考えるとロマンが無い。「甲陽軍鑑」に記されている年代そのものが間違いであるにしても、ここで何らかの合戦が行われたらしいことは出土品からも推定され、また佐久甲州街道の重要な中継地であることから、相手が平賀源心かどうかはともかくとして、武田軍と佐久衆の間で合戦があったとしてもおかしくない、ここはやっぱり「晴信初陣の地」と思うことにしましょう!ちなみに首級を挙げて甲府に帰陣した晴信は、父・信虎に称賛されると思いきや、「首級を届けるだけなら使者を使わせれば充分であろう、城を陥としながらみすみす城を捨てて帰ってくるとはよくよく臆病者よ」と罵られた、とも言われます。

海ノ口城は千曲川の上流部、奥深い山間部にあり、甲武信ヶ岳、甲斐の国境はもううすぐそこです。ここは佐久甲州街道や大芝峠にも面した交通の要所でもあり、ここを抜かずには甲斐から佐久への道はありません。信玄晴信の佐久・小県侵攻でも何度も海ノ口を中継点としています。ここに聳える標高1357m、比高250mの奥まった城山に海ノ口城があったといわれますが、山の上の遺構は規模がとても小さく、「屏風岩」といわれる大岩壁周囲に若干の削平地、堀切などがあり、一応そこが城であったことを確認できる程度の遺構はありますが、少々ロマンを犠牲にして言えば、たしかに平賀勢2、3000といわれる兵員を収容できる広さの城ではありません。標高も比高も、必要以上に高いような気もします。平賀源心なる人物が本当にいたとしても、ここは居城ではなくあくまでも前進基地のひとつ、と考えた方が良さそうです。ただ、この城山を中央に左右にはU字型の尾根を控え、その間の谷津(現在の林道沿い)に「内小屋」にあたる居館があり、三方の尾根筋に城砦が構えられていた、と推定することも出来るかも知れません(信濃の城にはこの構造が多い)。このU字の尾根の南側のものは、遠目に削平地や堀切?と思わせる地形も無くは無いため、もしかしたら今確認されている範囲以外に広い城域を持っていた可能性もあるとは思います。信玄が佐久攻めにあたって陣所にしたのはきっと城山の要害ではなく、この谷津部や千曲川沿いの平坦な土地を中継点として用いたのでしょう。

しかし、この高地の主郭に立った時、念願の信濃の城攻めに来れたこと、「伝説」の晴信初陣の地に立てたことで結構感動しました。主郭付近は冷たい風が木々の枝を揺らし、時折青空から白い小雪が舞っていましたが、舞い上がる枯葉や触れ合う枝の音、冷たい風が気持ちよかったです。多少登りはしんどいものの、登山口にある「50分」はやや大袈裟で、男性であれば30分前後で登りきれるでしょう。ただやはり標高が高いので冬はそれなりに寒いことや、距離もそれなりに長いことは覚悟して来たほうがいいでしょう。大体そんな簡単に来れるような場所では「伝説」が成り立たないでしょうしね。

千曲川対岸に海ノ口城を見る。奥まった山の左手のピークが海ノ口城です。千曲川は源流にも近く、ここから北に約250kmも流れて新潟市、日本海に至ります。 三方を尾根に囲まれた谷津の中の林道。ここからは道が荒れているので車では無理、歩きましょう。「50分」とありますが、せいぜい3-40分くらいです。
この三方を尾根に囲まれた谷津の奥部が居館だったのでは?そう思い始めると、こういう地形が根古屋に見えてきてしまう。 その尾根の南側を見上げてみると、なんとなく堀切に見えなくも無い。周囲の地形も削平地に見えなくも無い。城バカ男の目の錯覚かもしれないけれど。
林道を10分ほど歩いて、いよいよ尾根筋へ取り付く。この屈曲した坂道、左上の大きな岩は大手門跡に見えないことも無い(こればっか)。 いよいよ本城、城山の尾根に取り付きました!ここからはほんの一息!いざ平賀源心入道の首級を申し受けん!
海ノ口城の主郭と屏風岩。正直なところ、「えっ、これって城なの?」と思ってしまうような場所ですが、いいんです!きっと信玄の初手柄の地、なのです!でも随分狭いなあ。。。 屏風岩の上に立つあづまや。この下は大きな堀切になっています。残念ながら木々に遮られて眺望はイマイチです。周囲には若干の腰曲輪や、もしかして虎口?の坂などもあります。
屏風岩の下の大堀切。こういうのを見ると、やっとここが城だということを実感できますね(^^;) その堀切付近から屏風岩を見上げる。
ここから南に、主郭とほぼ同標高のピークまで尾根道を歩いてみました。二箇所ほど、気のせいのような堀切跡がありました。でも気のせいじゃないですよ。 主郭の南のピーク。さらに南へ下ると大芝峠。若干削平されているように見えます。物見、狼煙台と推定。
降りるときに、主郭の北側にも二箇所ほどの堀切跡があることに気づきました。まあ遺構は目ぼしいものはあんまり無いですが、「記念の地」ということで満足。青空から小雪が舞ってくる山頂は寒かったけど、気持ちよかったですよ。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「佐久」ICより車40分、中央自動車道「長坂」ICより車40分。

JR小海線「海ノ口」駅より山頂まで徒歩50分。  

周辺地情報

見ていないけれど海尻城、実は意外と近い山梨県側の獅子吼城など。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 
参考文献 「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)、「風林火山・信玄の戦いと武田二十四将」(学研「戦国群像シリーズ」)、「歴史読本 1987年5月号」(新人物往来社)、別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)、「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

歴史を旅する

 

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