佐久の在地土豪の旧館

伴野氏館

とものしやかた Tomonoshi-Yakata

別名:伴野城、野沢城

長野県佐久市野沢

城の種別

平城、方形武士館

築城時期

鎌倉時代

築城者

伴野時長

主要城主

伴野氏

遺構

曲輪、土塁、堀跡

伴野氏館の土塁<<2002年11月04日>>

歴史

鎌倉時代初期、甲斐源氏の加賀美遠光とその子小笠原長清は信濃守に任ぜられ、伴野・大井両荘を支配した。長清は六男の時長に伴野荘を与え、その時長が館を構えたのが始まりと見られる。弘安八(1285)年、北条時宗の死後十四歳でその後を継いだ執権貞時を擁して、北条氏の内管領・平頼綱が御家人最有力者の安達泰盛・宗景父子と争い、安達氏に連なる有力者五百名以上が斬殺された(霜月騒動)。伴野氏三代で小笠原惣領家・伴野出羽守長泰は安達泰盛の母の実家にあたるため一族はことごとく連座して滅ぼされ、所領の大半は執権北条氏領となった。伴野氏の嫡流は断絶したが、支族にあたる者が三河国や伴野荘周辺で再興の機を伺った。

戦国期には伴野氏館は拡張され野沢城と称し、一族の野沢康政らが在城したが、文明年間頃、伴野光利は前山城を築いて移った。この頃伴野氏は大井氏と対立し、同じく大井氏と対立する甲斐の武田信昌らの援軍を得ており、この頃から武田氏との友好関係が始まった。文明十一(1479)年七月に伴野氏は岩村田大井氏と戦って破り、大井政朝は伴野に捕虜となった。大永七(1527)年にも前山城主・伴野光信は武田信虎に支援を要請している。

伴野氏は武田晴信(信玄)の佐久侵攻に対しても、佐久の土豪としては唯一協力的だった。天文十二(1543)年、信玄は長窪城の大井貞隆を攻めるため九月十日に甲府躑躅ヶ崎館を進発し、十六日には伴野氏の前山城に入っている。

天文十五(1546)年、武田信玄は佐久に侵攻し五月三日に海ノ口に着陣、六日に前山城に布陣して内山城の大井貞清・貞重父子を攻め、二十日に大井貞清は内山城を開城し、野沢城に蟄居した。降伏した大井貞清父子は翌天文十六(1547)年に躑躅ヶ崎館への出仕を促され、駒井高白斎を仲介として生命の安全を条件に五月四日に躑躅ヶ崎館に出仕、武田氏に臣従した。

天文十七(1548)年二月の上田原合戦で武田軍が村上義清らに敗れると、村上義清は佐久に侵攻、内山城下に放火し、諏訪周辺にまで勢力を伸ばしたため、前山城の伴野貞祥も村上氏に降伏している。しかしその年の七月、塩尻峠合戦で武田軍が大勝し、佐久に再侵攻、九月十一日には佐久衆に占拠された前山城を奪還、天文十八(1549)年末までには、野沢城主・伴野信是も武田に降伏・出仕している。

天正十(1582)年の武田氏滅亡後は一時、厩橋城に在城する滝川一益(織田信長属将)の領土となるが、六月二日の本能寺の変で信長が横死すると、北条氏領となった。しかし、徳川家康配下となった依田信蕃の一族、依田肥前守が七月、野沢城を攻略、十一月には前山城も攻略した。その後野沢城は廃城となったが、天正年間に小諸城に入城した仙石秀久は野沢城跡地に米蔵を建てて年貢米の貯蔵庫とした。その後も江戸期には岩村田藩の役所や郷倉などに利用された。

朝から海ノ口城内山城平賀城志賀城と山城四連発を歩き、陽も傾きかけたこの日の締めくくりは平城、というか鎌倉期の武士居館のたたずまいを色濃く残すこの伴野氏館でした。

戦国期にはこれもよくある話ですが、方形居館から複数の曲輪を持つ平城に進化し、「野沢城」とも呼ばれていました。伴野氏館はこの地方の豪族、伴野氏の本拠でしたが、伴野氏の本流は鎌倉幕府後期の争い「霜月騒動」に巻き込まれて断絶、残った一族の支流は前山城を本拠としていました。このころ大井氏らの国人衆と争っていた伴野氏は佐久周辺の土豪の中では唯一、武田氏に対して好意的でした。武田氏も前山城を陣所にしたりしています。内山城で武田氏に叛旗を翻した大井貞清は、降伏開城後、この野沢城で蟄居しています。

この伝統ある伴野氏館で残っている部分は、方形の主郭の北半分の土塁と、わずかに堀跡が面影を偲ばせる程度です。ここは近年まで、佐久市の野沢出張所他の施設があったらしいのですが、僕が言ってみると建物は取り壊され、一部発掘作業をやっていました。なんでももともと公園だったところに市の施設を建て、今また史跡公園化に向けて建物撤去と発掘をやっているんだとか。ちょっと「やれやれ」という気はします。残っている範囲は少ないですが、重厚で高い土塁はそれなりに見応えがあります。「日本城郭大系」には明瞭な堀の写真が掲載されていましたが、これらは道路や道端の側溝に姿を変えてしまいました。史跡公園化、ということは、無くなってしまった土塁半分も復元するんでしょうか?それはそれで結構だと思いますが、子供の遊具やら動物やらを置いて、「普通の公園」になっちゃわなきゃいいな、と思っています。間違って模擬天守なんか建てません・・・よね!?

住宅や商店が密集する中に突然現れる「伴野城跡」の標柱と解説板。背後では建物の撤去と発掘が同時に行われていた。 その発掘のおかげでこんなものを目にすることが出来ました。井戸と水路でしょうか?後日のことになりますが、高梨氏館でもこういう遺構がありました。
半分だけ残った土塁。この石積みも遺構だという話もありますが、どう見てもあとから取ってつけたようにしか見えない。 土塁にもピットを入れていました。石積みの塀のようなものがあります。築地塀ですかね?高梨氏の城館でも、築地塀の上に土を盛って土塁にした、とあるので同じようなものなのでしょうか?
残っている部分の土塁はお見事!です。幅も高さも立派なものです。惜しむらくは、全周していて欲しかったです。 その土塁と水堀跡。この側溝みたいな水路がかつての堀跡なんでしょう。
ここも見た感じ、堀に見えます。 土塁が全周していないので、虎口がどれだか判断できない。この場所は虎口?それとも改変?
「史蹟伴野氏館跡」の石碑。どうせならせめて主郭だけは土塁が全部残っていて欲しかった。しつこいって? 館の一角にある大伴神社。この高台は櫓台の跡でしょうか?正面の池も水堀の名残でしょう。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「佐久」ICより車10分。

JR小海線「中込」駅より徒歩10分。  

周辺地情報

伴野氏関連城館である前山城が近い。そのほか内山城平賀城志賀城などがおすすめ。

関連サイト

伴野氏の出自については「家紋World」に情報をご提供いただきました。

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 

参考文献

別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

佐久市観光協会提供資料

参考サイト

家紋World

 

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