結城城の結城朝光の子・重光が下総結城郡山川荘の地頭職に任ぜられ、山川氏(山河氏)を称したのが始まりといわれる。このころの山川氏の居館は北東2kmの山川氏館だったと思われる。山川氏は「結城四天王」のひとつとして、結城氏の同盟者に近い存在であった。永享十二(1440)年に勃発した結城合戦では、山川大膳太夫広朝も結城城に籠城している。永正年間の古河公方の内紛では、山川朝政・政貞らが結城氏に従い高基派として転戦した。
天文三(1534)年、下妻城の多賀谷家重は常陸小田城の小田政治と通牒し結城家からの独立を画策したため、結城政勝は山川城主・山川尾張守らに多賀谷家重討伐を命じた。山川尾張守は配下の手塚某を大将に多賀谷領に侵攻したが、多賀谷勢も豊田・岡田二群の兵を率いて抗戦、山川勢は撤退した。天文六(1537)年一月、多賀谷・小田連合軍は結城城攻撃のため山川領に侵攻、結城政勝は古河城の足利晴氏(古河公方)、弟で下野祇園城主の小山高朝らの援軍を得て反撃、小田政治の本陣を夜襲して多賀谷・小田勢の首級三百を挙げて下妻城に押し寄せたが、水谷治持の取り成しで多賀谷家重の甥の安芸守朝重を人質に差し出すことで和睦した。
弘治元(1555)年、結城政勝は伊勢参内の後、小田原城に立ち寄って北条氏康に誼を通じたが、留守を狙って常陸小田城の小田氏治が結城領内に侵攻する意図を見せた。翌弘治二(1556)年四月、政勝は結城城に山川城主・山川讃岐守氏重、下館城主・水谷正村、岩上但馬守、多賀谷安芸守政広らの重臣を参集、小山高朝は榎本大隈守高満、古河公方足利晴氏も配下の関宿城主・梁田晴助らを派兵、北条氏康も太田康資、遠山丹波守、富永三郎左衛門らの江戸城在番衆に岩槻城主の太田資正を軍監に加えて結城城に結集、三千騎で小田領海老ヶ島城を包囲、城将の平塚長春らを討ち取った。小田氏治は急遽出陣し、山王堂で激戦となったが、結城連合軍は小田勢の首級四百八十五を挙げ、小田氏治は本拠の小田城も陥とされて家臣の菅谷氏居城の土浦城に撤退した(第一次山王堂合戦)。
永禄三(1560)年、上杉謙信が関東に侵攻すると、山川氏重は一時北条方につく結城氏を離れ、上杉謙信の陣に参陣している。
その後の山川氏は結城晴朝とともに小田原北条氏と越後上杉氏の間を渡り歩き、永禄八(1565)年には2kmほど南西の地に山川綾戸城を築いて移ったと言われる。天正二(1574)年、北条氏政は結城晴朝に兄・小山秀綱の籠る祇園城を攻撃させ、降伏させた。しかし晴朝は密かに上杉勢に誼を通じ、宇都宮・佐竹勢に同盟を求め、宇都宮広綱の次男を養子として向い入れた。北条氏政は下野祇園城を拠点に天正五(1577)年に結城・山川領に侵攻したが、山川讃岐守晴重は結城晴朝とともに宇都宮・佐竹・那須氏らの援軍を得て切り抜けている。
慶長六(1601)年、結城秀康が越前に移り、山川讃岐守朝重も同道、山川綾戸城は廃城となった。