山川氏の戦国城郭

山川綾戸城

やまかわあやとじょう Yamakawa-Ayato-Jo

別名:山川城、綾戸城、新宿城

茨城県結城市山川新宿

城の種別

平城

築城時期

永禄八(1565)年  

築城者

山川氏重

主要城主

山川氏

遺構

土塁、堀跡

山川綾戸城の土塁の残欠<<2002年09月29日>>

歴史

結城城の結城朝光の子・重光が下総結城郡山川荘の地頭職に任ぜられ、山川氏(山河氏)を称したのが始まりといわれる。このころの山川氏の居館は北東2kmの山川氏館だったと思われる。山川氏は「結城四天王」のひとつとして、結城氏の同盟者に近い存在であった。永享十二(1440)年に勃発した結城合戦では、山川大膳太夫広朝も結城城に籠城している。永正年間の古河公方の内紛では、山川朝政・政貞らが結城氏に従い高基派として転戦した。

天文三(1534)年、下妻城の多賀谷家重は常陸小田城の小田政治と通牒し結城家からの独立を画策したため、結城政勝は山川城主・山川尾張守らに多賀谷家重討伐を命じた。山川尾張守は配下の手塚某を大将に多賀谷領に侵攻したが、多賀谷勢も豊田・岡田二群の兵を率いて抗戦、山川勢は撤退した。天文六(1537)年一月、多賀谷・小田連合軍は結城城攻撃のため山川領に侵攻、結城政勝は古河城の足利晴氏(古河公方)、弟で下野祇園城主の小山高朝らの援軍を得て反撃、小田政治の本陣を夜襲して多賀谷・小田勢の首級三百を挙げて下妻城に押し寄せたが、水谷治持の取り成しで多賀谷家重の甥の安芸守朝重を人質に差し出すことで和睦した。

弘治元(1555)年、結城政勝は伊勢参内の後、小田原城に立ち寄って北条氏康に誼を通じたが、留守を狙って常陸小田城の小田氏治が結城領内に侵攻する意図を見せた。翌弘治二(1556)年四月、政勝は結城城山川城主・山川讃岐守氏重、下館城主・水谷正村、岩上但馬守、多賀谷安芸守政広らの重臣を参集、小山高朝は榎本大隈守高満、古河公方足利晴氏も配下の関宿城主・梁田晴助らを派兵、北条氏康も太田康資、遠山丹波守、富永三郎左衛門らの江戸城在番衆に岩槻城主の太田資正を軍監に加えて結城城に結集、三千騎で小田領海老ヶ島城を包囲、城将の平塚長春らを討ち取った。小田氏治は急遽出陣し、山王堂で激戦となったが、結城連合軍は小田勢の首級四百八十五を挙げ、小田氏治は本拠の小田城も陥とされて家臣の菅谷氏居城の土浦城に撤退した(第一次山王堂合戦)。

永禄三(1560)年、上杉謙信が関東に侵攻すると、山川氏重は一時北条方につく結城氏を離れ、上杉謙信の陣に参陣している。

その後の山川氏は結城晴朝とともに小田原北条氏と越後上杉氏の間を渡り歩き、永禄八(1565)年には2kmほど南西の地に山川綾戸城を築いて移ったと言われる。天正二(1574)年、北条氏政は結城晴朝に兄・小山秀綱の籠る祇園城を攻撃させ、降伏させた。しかし晴朝は密かに上杉勢に誼を通じ、宇都宮・佐竹勢に同盟を求め、宇都宮広綱の次男を養子として向い入れた。北条氏政は下野祇園城を拠点に天正五(1577)年に結城・山川領に侵攻したが、山川讃岐守晴重は結城晴朝とともに宇都宮・佐竹・那須氏らの援軍を得て切り抜けている。

慶長六(1601)年、結城秀康が越前に移り、山川讃岐守朝重も同道、山川綾戸城は廃城となった。

平将門がここに砦を構えたという伝承もあるようですが、これは伝説のひとつでしょう。

結城四天王の一角で、歴代結城氏当主がもっとも信頼していたであろう山川氏の戦国期城郭です。この山川綾戸城の東南2kmには、古い方形武士居館の形態そのままの山川氏館(東持寺境内)がありますが、永禄八(1565)年にこの山川綾戸城を築いて移ってきます。しかし、山川氏館の項でも書いたのですが、山川氏館はとても戦国期後半の緊張状態下の城郭とは思えず、もっと早くこの山川綾戸城が築かれていたような気がします。

永禄八年と言えば北条氏康・氏政父子が南関東をほぼ制圧して、北関東へ本格的に侵攻してきた時期でもあり、また越後からは「関東管領」上杉謙信が毎年のように関東に出陣を繰り返していた時期でもあります。結城氏当主は家名存続のためなら「無節操」といわれようが「世渡り上手」といわれようがお構いなしの晴朝、「今日は上杉、明日は北条」と両陣営を行ったり来たりしていた時期でもあります。そんな中で万単位の軍隊を動かす両勢力の狭間の城郭としては、山川氏館では心もとないのは一目瞭然です。

で、この山川綾戸城、まったくの平城といってもいい地形で、いまではすっかり農地になってしまい、戦国期の城郭を感じさせてくれるものは全くといっていいほどありません。それでも地形をよく観察すると、周囲の土地より若干高いことに気づきます。かつては東西南を舟でなければ渡れない「山川沼」に囲まれた要害地形であったようです。わすかに残る遺構は土塁の残欠で、結城市が設置したごく簡単な立て看板があります。しかしこの土塁の周囲もよく見ると農地の中に一段低い部分があり、堀であった痕跡をわずかに残しています。歩いてみると城域はとても広く、かつては沼地に浮かぶ一大城郭であったのだろうということが想像されます。

まあ遺構はほとんど無いですが、「埋もれきってしまった古城」で遺構探しをしてみたい方は一度訪れてみたらいかがでしょうか。

松原集落から西へ細い道を入ると、一面の農地。これが山川綾戸城の現状。果たして遺構は?? と思ったら真っ先に目に入った一段低い畑。中世城郭を見慣れた人であれば、これが堀跡であることはすぐ気づくでしょう。
これが唯一はっきりした遺構、半島台地の根元を断つ三重土塁の一部。小さな看板がありますが場所はわかりにくい。土塁の規模は大きいですが藪化し、分断されています。 土塁の横の農地もいかにも堀、という感じです。この城は三方を沼で囲まれ、唯一台地続きの北側にこういった土塁や堀が設けられていたようです。
右上写真の農地わきには水が。かつての低湿な堀を忍ばせます。 この農業用水も堀跡なんでしょうね、多分。
ここは字古城跡西。低地に突き出した半島状台地で、出城・物見などのほか、舟付き場にもなっていたかもしれませんね。 古城西付近の三叉路。右(主郭方面)に延びる道にはかつて土塁が平行していました。この三叉路は城戸口だったかもしれませんね。

畑の中のあぜ道、ポツンと建つ祠の付近が字古城の本丸跡。主郭に建つ八幡社とはこれか。。。もはや面影は全くなし。。。

とは言うものの、結城寺方面から見ると主郭方面をはじめ、城域は明らかに周囲より一段高いのがわかります。目の前の田畑はかつては沼だったんですね。

主郭付近から見る結城寺。ここも周囲より明らかに一段高く、城域の一部と見たほうが自然でしょう。

結城寺は結城合戦の折、密かに護摩を焚いて結城城兵の必勝を祈願していたが、上杉清方の兵数百により焼き払われました。

この山川綾戸城の存在を知り、結城市に問い合わせたところ、教育委員会生涯学習課の方から丁寧な解説の入った資料と地図を送付して頂きました。おかげさまでこうして見学ができました。この場を借りて御礼申し上げます。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「佐野藤岡」IC車40分。

JR水戸線「結城」駅からバスまたは徒歩80分。

周辺地情報

結城合戦の舞台となった結城城、山川氏の初期の居館である山川氏館。隣接する小山市には祇園城鷲城などの小山氏関連城郭が沢山あります。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、「結城一族の興亡」(府馬清/暁印書館)、「結城氏十八代」(石島吉次/筑波書林)、結城市教育委員会提供資料、現地解説板

参考サイト

常陸国の城と歴史

 

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