小山氏は現在の小山市周辺にたくさんのお城を持っており、どの時代にどのお城を本拠にしていたのかは今ひとつ謎です。最も初期の本拠は、現在「曲輪」と呼ばれている居館であったらしいですが、この鷲城や祗園城、中久喜城などがいつ築城され、それが小山氏の支配体制の中でどういった位置付けであったかは判然としません。一般に「小山城」というと祗園城を指すケースが多いのですが、鷲城、祗園城、その間を繋ぐ長福城などの思川沿いの城砦群を総称して小山城、と見る向きもあります。
この鷲城はそんな中でも、戦国時代が到来するはるか以前に、計三回に及ぶ小山義政の乱で攻防の舞台となったバリバリの実戦のお城です。特に第二次小山義政の乱においては、埋め草を放り込んで堀を埋めようとする鎌倉公方連合軍と鷲城に立て籠もる小山義政軍の間で堀際の激しい戦闘がありました。この頃、祗園城もすでに存在していたようですが、より実戦的な籠城戦の場所としてこの鷲城が取り立てられていたようです。
小山義政の乱のきっかけは康暦二(1380)年五月の宇都宮基綱との戦い、裳原合戦が発端となります。その背景には両者の境界争い、とくに農業水利権をめぐる争いがあり、小山氏側の領民が殺害されたことが発端であったようです。しかし、私戦を厳しく取り締まっていた鎌倉公方・足利氏満が介入することで、両者の争いは大規模な戦争に発展してしまいます。まして、現任の守護大名が討ち死にとあっては、関東を統治すべき鎌倉公方としては、黙っているわけにもいかなかったでしょう。余談ですがこの氏満という男、実は室町幕府将軍職に野心満々、時の将軍義満にもしっかり警戒されている人物でした。京都の管領職をめぐる争いに介入して、あわよくば将軍の座をも狙っていましたが、関東管領上杉憲春の諌死によってビビってしまい、あたかも野心などないように振舞うなど、なかなかのヤマ師でした。そんなこんなで、この小山氏と宇都宮氏のローカル抗争にも積極的に介入して、少しでも幕府の覚えを良くして置こうという「得点稼ぎ」の意味合いもあったでしょう。氏満は関東諸将だけでなく奥州まで軍令状を発布しており、並々ならぬ意欲が感じられます。
これに対し小山義政はまず康暦二(1380)年六月に挙兵、祗園城、鷲城、小山義政屋敷などで抗戦します。結局、三ヶ月の抗戦の後、義政は降伏し、関東に平和が訪れるかに見えましたが、この平和は長続きせず、翌年に再び義政は挙兵します。氏満は将軍直属の「白旗一揆」まで動員し、総力戦で義政討伐に向かい、前述のとおり鷲城をめぐる激しい攻防が展開されました。結局はこのときも半年以上に及ぶ抗戦の末、義政は降伏し、今度こそ平和が訪れると思いきや、またしても義政は挙兵、今度は自ら祗園城に火を放ち、嫡子若犬丸とともに思川上流の粕尾城に立て籠もります。もはや前国主のプライドも、代々の所領も、勝算さえもかなぐり捨てた、意地の挙兵でした。さすがに頭にきたか氏満、総力戦で義政討伐に向かい、義政はこの山間の小城で切腹し果てたとも、近くの川原で討たれた、ともいい、娘の芳姫についての悲話も語られるところです。なぜ義政がここまで執拗に抵抗したのかは推し量ることもできませんが、二回目の降伏の際に氏満が行った処分が非常に重く、それに耐えられなかった、と言われます。このときに上杉朝宗らは氏満に総大将に任じられながらも何度も固辞しているそうで、第三者の目から見てもなにか腑に落ちないような、過酷な処分があったのではないか、とされています。一説に南朝に鞍替えした云々というのもありますが、当時関東においては南朝勢力はほとんど駆逐され、組織立った抵抗が出来るだけの自力はありませんでしたので、これはコジツケに過ぎないようです。
しかしこの乱、まだまだ終わらない。奥州に逃れた若犬丸(隆政と名乗ったという)はどこでどう力をつけたか、四年後に祗園城回復の兵を起こします。この「小山若犬丸の乱」も収束に十一年もかかっており、結局小山氏を巡る戦争は二十七年も続いたのでした。若犬丸の七歳と五歳の子らは捕らえられ、江戸湾の六浦の海に沈められて処刑されるという悲話もあり、この話をもとに左阿弥なる能作家は「安犬」という謡曲を書いた、という後日譚もあります。
その後の鷲城がどうなったのかはわかりませんが、規模は非常に大きなお城ながら、戦国期に見られる複雑な遺構が無いことから、祗園城の支城として堀の規模などが改修されただけの状態で一定期間利用されたのではないかと思います。いずれにしても祗園城の直線的で複雑な縄張と対比すれば一目瞭然、戦国期には大きなウェイトを持っていなかったことは明らかです。その縄張はふたつの巨大な曲輪を土塁と空堀が囲むもので、古いながらもかなり壮大な規模のものが見られます。特に主要部である「内城」と外郭である「外城」を断ち切る堀は驚くほど規模が大きく、残存度も良好です。反面、外城は宅地化され、最外郭部は土塁や堀の痕跡が点在するだけとなりました。内城だけでも結構広く、遺構の見所も多いので、祗園城とともにぜひ立ち寄って頂きたいお城です。