牛久沼に面した、一大中世城郭

牛久城

うしくじょう Ushiku-Jo

別名:

茨城県牛久市城中町

 

城の種別

中世平山城

築城時期

天正年間?

築城者

岡見頼勝

主要城主

岡見氏、由良氏、山口氏ほか

遺構

曲輪、土塁、空堀、土橋、虎口、推定舟入り

一郭周囲の堀<<2003年04月13日>>

歴史

南北朝時代に常陸南部を支配した筑波小田城の小田氏の末裔が河内郡岡見村(現牛久市岡見の岡見城)に土着し岡見氏を名乗った。牛久城はその岡見氏の築城と言われる。小田氏が佐竹氏に滅ぼされると、独立領主としての道を歩き始め、佐竹・多賀谷などの勢力と対峙する。やがて北条氏と手を結ぶが、牛久城は北条の直轄とされ、常陸進出への基地として大改修が施された。

 天正十四(1586)年、下妻城主多賀谷重経は岡見氏の支城、谷田部城を陥とし、足高城をも攻め落とした。足高城主岡見宗治は牛久城に逃れたが、牛久城も落城、岡見氏は滅んだ。 岡見氏滅亡後は、牛久城には北条氏方の由良国繁が太田金山城から入城した。

天正十八(1590)年の小田原の陣では北条氏は滅亡したが、国繁の母の功績で牛久五千石を安堵された。国繁の子、貞重の時、嗣子がなく元和七(1624)年に貞重が病死したため改易除封となった。その後は徳川譜代の山口氏による陣屋支配となった。 

初めての見学は下調べナシで訪問して散々迷った挙句、やっとのことで見つけた遺構も猛烈なブッシュとスズメバチで敢え無く見学断念(おまけに猛暑)。二回目は準備も万端、それに冬だしブッシュも大丈夫だろう、ということで期待に胸を膨らませて行きました。

一言で言うならこれぞ中世城郭!という言葉に尽きます。牛久沼に面した複雑な地形の台地の上に張り巡らされた深くて幅のある空堀、細い土橋、高い土塁、まさに中世城郭の典型的な姿です。雰囲気的には、本佐倉城とかと似ています。北条系の築城技術も見られ、技法的にも注目すべき点の多いお城です。

しかも、道に迷ってふと見た先に空堀を発見、地元のお婆さんに道を聞いたときにその空堀が城主の登城路であったことが判明。前回訪問した際も、「大手門跡」の碑の近くに明らかに空堀と思われる箇所を見つけたのですが、これでほぼ間違いなく、牛久城に惣構えがあったことを確信。本城部の遺構も壮大なのですが、実はとてつもなく大きな城であったことを実感しました。

それにしても場所はわかりにくい。「河童の碑」はあちこちに道しるべがあるのに牛久城に関するものは前述の「大手門跡」の碑以外何もナシ。どこに城があってもおかしくない地形なので推測で走り回ってもまず見つからないでしょう。ここは地元の人(なるべく年配の人が・・・)に聞くのが一番でしょう。

遺構の残存状態は抜群に良いのですが、整備は全くされていなくて、ブッシュと、足の踏み場も無いほどの竹薮、倒木に覆われています。これほどの規模と保存状態の城が、なぜ史跡指定も受けず荒れるに任せられているのか、理解に苦しみます。整備もされていないから、当然道標もナシ。河童の碑もいいけれど、この牛久城だって負けないくらいの価値があると思うんだけどねえ。少なくても、竹薮の伐採はやってほしいですね。このままじゃ、土塁も堀も、竹に侵食されて崩れていくばかりですよ・・・・。

【外郭探索:2003年04月13日】

この日、準地元のエキスパートである五郎さん、「北総の秘めたる遺跡」の岡田さんと外郭部を歩きました。外郭に断片的な遺構があることは前回まででよくわかりましたが、五郎さんがその外郭遺構を地形図の上に落とした資料を下さいました。それに沿って城中の台地ほぼ全体を歩き、素晴らしい遺構の数々を目にすることができました。五郎さん、ありがとうございました。

牛久城めぐり   牛久城外郭

 

交通アクセス

常磐自動車道「つくば牛久」IC車20分。

JR常磐線「牛久」駅徒歩30分。場所はわかりにくいので近所の人に聞いてください。

周辺地情報

岡見城がもともとの本城。その他、東林寺城足高城などの支城網がある。

関連サイト

余湖くんのホームページに素晴らしい鳥瞰図があります。

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

参考サイト

常陸国の城と歴史美浦村お散歩団UshiQネット

 

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