女房の力だけじゃ城は建たん

掛川城

かけがわじょう Kakegawa-Jo

別名:雲霧城

静岡県掛川市掛川

城の種別

平山城(丘城)

築城時期

応仁元(1467)年頃

築城者

朝比奈泰煕

主要城主

朝比奈氏、石川氏、山内氏、北条氏、太田氏他

遺構

曲輪、石垣、土塁、水堀、太鼓櫓、二ノ丸御殿、堀切 他

総木造で復興された天守<<2001年07月07日>>

歴史

応仁元(1467)年頃、駿河守護の今川義忠が重臣の朝比奈備中守泰煕に命じて、天王山に築城させたのが始まりと言われる。その後、永正十(1513)年に、遠江の斯波氏と同盟した信濃の小笠原氏の侵攻に対抗するため、南西500mほどの竜頭山に新城を築いた。

永禄十一(1568)年十二月、武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河に電撃侵攻、今川氏は薩捶峠で対陣したが、今川軍は戦い半ばで総崩れとなり駿河今川館に退陣、追う信玄は駿府に乱入し今川館を焼き払った。氏真らは着の身着のまま、朝比奈泰朝の守る掛川城に入り籠城した。この氏真を、信玄との密約で遠江に侵攻した徳川家康が攻めた。永禄十一(1568)年十二月二十七・八日には掛川城北方で朝比奈泰朝と石川数正が、翌年正月十六日から二十三日にかけては天王山の家康本陣および青田山・二藤山・金丸山の徳川方砦の寄せ手が総攻撃を加えたが双方に多大な死傷者を出すのみで陥とせず、再度三月四日から七日にかけて、本多忠勝、松平家忠らの旗本勢が先陣となり、多くの死傷者を出した。しかしこの間、密約に反して武田の将・秋山信友が遠江侵攻の気配を示したため、家康は長陣を避けて氏真と和議を結び、氏真は正室の実家である小田原城の北条氏を頼って海路落ちのび、今川氏は事実上滅亡した。

掛川城を手に入れた家康は石川家成に在番を命じ、武田勝頼が天正三(1575)年、長篠・設楽ヶ原合戦で大敗し甲斐に退去すると、この機に徳川家康は掛川城の城兵をもって武田氏の諏訪原城を攻略、田中城をはじめ西駿河の武田氏の支城網を分断した。

家康は天正十八(1590)年の小田原の役で関東へ移封となり、掛川城には近江長浜城から山内一豊が封じられた。この移封で秀吉は、家康旧領の掛川・浜松・岡崎・駿府などの東海道沿いの諸城に豊臣家の直臣を配置し、家康を牽制した。慶長五(1600)年の関ヶ原の役では、一豊は家康率いる東軍に味方し、家康に掛川城を宿所として明け渡した。この功で一豊は土佐一国二十四万石の太守となり移封、その後は徳川譜代の松平氏、安藤氏らや玉縄北条氏の系統である北条氏重などが城主となった。延享三(1746)年、上野館林城より太田資俊が入封し、七代続いて明治の廃藩置県を迎えた。

山内一豊ですか。一豊って言えば、すぐ引き合いに出てくるのが良妻・千代ちゃんですな。例の「へそくりで馬」のエピソードをはじめ、よく出来た奥さんだとは思うけど、司馬遼太郎の小説みたいな奥さんだったら、頭良すぎて疲れそう。まあ大体からして、いくら奥さんの頭が良くてもそれだけじゃ「生き馬の目を抜く」戦国時代を生き残って、掛川五万石、土佐二十四万石の大名にはなれませんね。やっぱり、当たり前ですが本人の努力とか、人柄とか、大名として相応しい人間であることが最低条件ですからね。一豊のダンナは律義者として評価されていたようで、そういう人格が秀吉やのちの家康の目にも留まったんでしょうね。最終的に一豊は土佐二十四万石の太守に出世します。なんだか千代ちゃんのお陰だけで城が建ったように思われちゃうのは、一豊ダンナにとっても心外でしょうから、余計なお世話ですが一応フォローしておきます。

ともあれ掛川城ですが、現存遺構の見どころは二ノ丸御殿。堂々と聳え立つ天守は復元ですが、本物志向の現在、すべて木造で、一豊築城当時の技巧で建てられているらしいです。まあ綺麗なお城ですし、再建にあたっては地元の熱い思いや努力が実って今の姿があるということですが、ちょっとあっさりしすぎて、中世城郭ファンには物足りないかも知れません。そんな人は近くの天王山にも寄ってみましょう。よくわからんが何故か家光廟などもあるのですが、ここは一豊入封前、今川家臣の朝比奈氏時代の古掛川城の遺構だそうで、見事な空堀が残っています。家康が落ち目の「馬鹿殿様」今川氏真をイジメにやってきたときの本陣でもあります。結局今川氏は北条を頼って落ち延び、名門今川氏の歴史に幕を閉じてしまいました。そういう意味じゃ、今川氏の最後の場所でもあるわけですね。

城下から見上げる掛川城。なんやかんや言っても、結構絵になってます。逆川を外堀とした典型的な近世城郭です。 掛川駅前に復興された大手門と番所。すごく立派です。お土産店もあって、ちょっとした観光地。

やっぱ一豊っていうとコレなんですかね?「ねぇ〜馬買っちゃったら?」「うちそんな余裕ないだろ」「ジャ〜ン♪ヘソクリ!」。ほのぼの山内家。 二ノ丸御殿車寄せ。御殿は全国的にも貴重な遺構です。

御殿内の書院。立派な「虎」の掛軸は太田氏家老の太田資逢の筆。廃藩置県まで続いた城主の太田氏はもちろん道灌の直系子孫。たくましく近世を生き残ってたのねん。 二ノ丸御殿から見上げる天守。どうも病的な中世城郭マニアになると、つい復興天守をけなしてみたりするのですが、これは総木造、極力山内一豊当時の外観と建築技術を用いたという本格派。小ぶりですがスマートでなかなかカッコイイです。

二ノ丸御殿の横には誰も見向きもしないであろう土塁が。僕はこっちの方が好きですけどね。 二ノ丸台所の大井戸。

本丸前の三日月堀。武田氏のように馬出しを伴うものではなく、たまたま地形の関係でこうなっちゃっただけでしょう。 こちらは十露盤堀と太鼓櫓、復原本丸御門。太鼓櫓は現存です。十露盤堀はこの堀底の形状がソロバンに似ていることからそう呼ばれたとか。

本丸天守曲輪の霧吹き井戸。掛川城の別名、雲霧城の由来となった井戸。今川氏真籠城時に井戸から噴出した霧で徳川の寄せ手から城を守ったという伝承。まあ、よくある話と言ってしまえばそれまでですが。 天守から見た掛川の街。東海道の要衝として、中世〜近世、現代まで栄えています。

掛川城から程近い「天王山」にある龍華院霊屋。嗣子のない北条氏重が三代将軍・家光の霊を祀り家の存続を願ったというもの。氏重はあの小田原北条氏の一族で唯一の生き残り、氏勝の子孫。江戸中期に火災で焼け、太田資始により再建された。 この龍華院のある天王山は、朝比奈備中守泰煕が今川義忠の命で築いた古・掛川城であるといわれ、また家康が風前の灯の今川氏真を激しく攻め立てた時の本陣でもあります。このように見事な堀切が残ります。

なんだかんだ言って見所の多い掛川城でした。ちょっとあっさりしすぎて満腹感が足りない人は龍華院のある天王山に行きましょう。荒々しい堀切が待っています。

 

交通アクセス

東名高速道路「掛川」ICより車10分

JR東海道線「掛川」駅より徒歩5分

周辺地情報

ちょっと方向を変えて高天神城はぜひ見たいところ。横須賀城も立ち寄ってみてください。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本の城ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、別冊歴史読本「武田信玄の生涯」 (新人物往来社)、別冊歴史読本「徳川家康その重くて遠き道」(新人物往来社)、小説「巧妙が辻」(司馬遼太郎)、現地解説板、現地パンフレット

参考サイト

 

 

埋もれた古城 表紙 上へ