行け、スーパースター栗林義長!

足高城

あだかじょう Adaka-Jo

別名:

茨城県筑波郡伊奈町城中

(城中公民館・八幡社付近)

城の種別

平山城

築城時期

不明

築城者

岡見氏(?)

主要城主

岡見氏、多賀谷氏

遺構

土塁、空堀、舟溜り

主郭物見の土塁痕<<2003年04月13日>>

歴史

築城時期などの詳細は不明。元亀・天正年間には岡見中務少輔宗治の持城であったという。

元亀元(1570)年、下妻城主多賀谷政経は、尾上(岡見)主殿介の谷田部城を攻略し、主殿介は一族の岡見治部少輔の牛久城に逃れた。政経は谷田部城に弟の多賀谷淡路守政伯(経伯とも)に守らせて、小田氏への押さえとした。

天正八(1580)年三月、小田原城主北条氏政は弟の北条氏照、氏邦を大将として牛久城の岡見治部少輔、足高城の岡見中務少輔、岩崎城の只越尾張守、板橋城の月岡玄蕃允らの兵三千余騎で谷田部城奪還に向かい、多賀谷淡路守は討ち死にし谷田部城は落城、奪還された。しかしそこに多賀谷政経の後詰が到着、淡路守の死を知った政経らは谷田部城を急襲し、再び谷田部城は多賀谷氏の手に渡った。

天正十四(1586)年秋、多賀谷重経は足高城下に侵攻し、まず小張城を陥とし、続いて足高城三ノ丸に攻め寄せた。岡見宗治は牛久城・守谷城・布川城・小金城などに危急を知らせ援軍を要請したが、多賀谷勢は岡見軍の後詰が来る前に撤退した。

翌天正十五(1587)年三月、重経は足高城牛久城の中間に泊崎城を築いて両城を分断、続いて足高城、板橋城、岩崎城を攻撃した。板橋城は開城し城主の月岡玄蕃は人質として多賀谷領に送られ、岩崎城主の只越尾張守は城兵の助命を条件に切腹した。六月、支城網を陥とした重経は足高城を総攻撃、鬼怒川(小貝川)の堰を切って足高城周辺を水浸しにして援軍を遮断しようとしたが、高井城、守谷城などの援軍が多賀谷軍の背後に回り、多賀谷軍は多賀谷信濃守為宗・窪谷能登守ら二十数名が討ち取られ、谷田部城に敗走した。八月、岡見宗治の義父・伝喜は多賀谷に謀られ和睦を主張、宗治は諌めたが伝喜は聞き入れず、城内は混乱した。この混乱に付け入って多賀谷勢が城内に乱入、岡見宗治は牛久城に逃れ、足高城は落城した。

足高城の歴史は実はよく知りません。有名な「関八州古戦録」には「常州谷田部合戦」「多賀谷重経、小張・足高両城攻略」などの記事があり、足高城は岡見中務少輔宗治の居城とされています。また、常総の戦国時代を生き生きと(!?)描いた「東国戦記」「東国闘戦見聞私記」(どちらも元は同じモノ)では、この岡見氏の配下に「幻のスーパースター」、栗林義長がいて、岡見勢の苦戦をたびたび救った、ということです。この「東国〜」によれば、栗林義長は下総千葉氏領などに侵攻して八面六臂の活躍をした名将、ということですが、当時岡見氏も千葉氏も北条氏の影響下にあったわけで、いったいどういう経緯で岡見と千葉が戦うことになったのか、ホントにそんなことがあったのか、そもそも栗林義長ってホントにいたの!?という根本的な問題にブチ当たってしまうわけです。そもそも、義長って「女狐の孫」なんだと。もうそこら辺から怪しい雰囲気が漂っていますが(笑)。

この「東国〜」については、「北総の秘めたる遺跡」や「UshiQネット」などに詳しく、ぜひご覧頂きたいですが、そもそもこの「東国〜」は近世に成立した、いわゆる講談のネタ本みたいなもので、書いてあることは戦国後期の常総を巡る大小の合戦をフィクションを織り交ぜながら面白おかしく脚色したものであるようです。「名将・栗林義長」も架空の人物か、あるいはモデルとなる人物がいたとしても大幅にデフォルメされた、架空のヒーローである、といわれています。

しかし多くの研究者はこういった軍記モノを「史料的価値がない」として斬り捨てますが、純粋に「読み物」として見ればなかなか面白いものですし、常陸・下総のマイナー城郭・マイナー武将の名前が次々と登場する話の展開は、史実かどうかは別としても、関東の片隅の「どローカル地方史」の一面としては、結構価値あるものじゃないか、という気がします。ちなみにソレガシも「東国戦記実録」を古本で購入したのですが、なかなか全部読むのは手ごわい本で(苦)、結局常総の戦国史の各書籍に記述されている断片的な内容をつなぎ合わせて、なんとなく理解している程度です。ストーリーそのものはさすが軍記モノらしく、なかなか面白い本(ハチャメチャという説もある)なので、誰か現代訳本書いてくれないかなぁ!

で、その「東国〜」によれば、名将義長はこの足高城で病死、その機を見て攻め寄せた佐竹・多谷連合軍によって足高城も落城し、岡見宗治は牛久城に逃れた、といいます。まあ義長が死んだことと足高城の落城が関係あるかどうかは別としても、当時の足高城は牛久沼に直接面し、湖水を渡って牛久城とも密接に結ばれていたでしょう。

遺構に関しては、この半島台地全体が宅地化しているため、非常に断片的なものです。八幡社参道入り口の公民館附近が主郭と思われ、土塁の残欠や堀の一部が見られます。また城中集落の中にも、堀切などが断片的に見られ、かなり大きなお城であったことを伺わせますが、全体像はイマイチ分かりづらくなってしまっています。

足高城遠景。この半島状台地全体にわたって広大な城域が広がっていますが、遺構は断片的です。手前の田畑はかつて香取海まで繋がっていた牛久沼の湖面だったでしょう。 台地の東側の斜面下にあった土塁(?)。ここに土塁っていうのもナンですが、湖水に面した微高地には家臣団の屋敷か、中世の集落があったような気がします。
わずかに残った主郭の土塁。物見台の一部とも言われています。ある意味、このわずかの土塁が足高城最大の見所だったりして・・・。 主郭付近から泊崎城方面を見る。牛久城との連絡を考えたら、ここを敵に獲られちゃダメだろ〜!と言いたくなります(←結果論)。
主郭から北に突き出した半島状台地が四郭。八幡社が祀られています。ここは舟溜りに直結する重要拠点だったと思われます。 四郭の半島台地の付け根に残る堀切。結構大きいのですがさすがにこの藪には誰も突入しませんでしたね。尤も、別な場所で突入してますが(笑)。
四郭と二郭の間に深く入込んだ谷津は舟溜りと推定されています。このお城のキーとなる水運の要ですね。今でも湿地で、うっかり歩くと痛い目に遭います。 二郭の北側斜面には、腰曲輪のような、帯曲輪のような、はたまた横堀のような遺構が散在しています。が、断片的なこととこの竹藪では全体像が掴めないなあ・・・。
宅地化による改変が激しい中で比較的よく残る二郭と三郭の間の堀切。ここも見所のひとつですが、周辺が宅地なので何となく気が引けるんだよなぁ。。。 左の堀切沿いには、高さのある土塁も見られます。この周辺の民家の敷地にも、堀や土塁の断片が散在しています。
二郭南側の横堀はよく形が残っていますが、一部は道路建設により分断されてしまいました。 宅地の中に残る櫓台らしきもの。でもこれじゃ、どんなお城なのかよくわからないなぁ。。。
この日、五郎さん、岡田さん(「北総の秘めたる遺跡」)と一緒に足高城東林寺城牛久城などの栗林義長関連のお城を回り、木原城でひづめさん(「美浦村お散歩団」)、余湖さん(「余湖くんのホームページ」)と合流。木原城と阿見町周辺の戦国土塁の探索。どれも広いお城ばかりで随分歩きました(笑)。さすが、歴戦のチバラギ勢!

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「谷和原」ICまたは「谷田部」IC車20分。

JR常磐線「藤代」駅から徒歩60分またはバス(?)。

周辺地情報

牛久方面だと関連が深い牛久城が見所多い。取手方面ならば高井城もオススメ。

関連サイト

 

 
参考文献 「常総戦国誌」(川嶋建/崙書房出版)、「関八州古戦録 原本現代訳」(ニュートンプレス)

参考サイト

常陸国の城と歴史美浦村お散歩団余湖くんのホームページUshiQネット北総の秘めたる遺跡

 

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