客将三楽斎、小田攻めの最前線

片野城

かたのじょう Katano-Jo

別名:

茨城県石岡市根小屋

城の種別

平山城(丘城)

築城時期

文永年間(1264-1274)   

築城者

八田将監

主要城主

八田氏、太田氏、石塚氏、滝川氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、土橋

北側の水堀<<2005年02月06日>>

歴史

文永年間(1264-1274)に小田氏一族の八田将監が、小田城防衛の北の砦として築城したといわれる。また小田氏の一族である上曽氏(小田氏最後の当主となった氏治の母は上曽氏出身だという説もある)が居住していたともいう。永禄年間初期までは小田氏の属城であり、東側の大掾氏や江戸氏の脅威に備えた最前線の城であった。江戸忠通の永禄年間頃と思われる年未詳10月7日平戸左馬助宛書状では「片野柿岡様躰心得申候」とあり、小田氏の拠点である片野城・柿岡城に警戒している様子が伺える。また同時代資料ではないが、江戸時代後期の農政学者・長島尉信が著した「小田事蹟」(長島は小田村出身である)には永禄頃のものと推定される家臣団の一覧「小田家ノ幕下ノ事」が収録され、ここには「根小屋十六騎 上曽越後守」「片野 加太野伊豆 太田三楽斎カ為ニ片野ヲ追退ラル」とある。片野城が小田氏の手を離れたのは永禄7年(1564)の上杉謙信による小田城攻撃のころと見られ、片野城を含む北郡は佐竹義昭が制圧している。

永禄七(1564)年の第二次国府台合戦で、里見勢とともに北条氏康と闘って敗れた武蔵岩槻城主・太田美濃守(三楽斎)資正は、宇都宮広綱を訪ね援軍の相談を持ちかけているところを、北条に通じた嫡男・氏資に岩槻城を奪われ、次男の梶原政景とともに武蔵忍城下野宇都宮城などを流浪、永禄九(1566)年ごろに佐竹義重を頼って客将となり、片野城を与えられた。片野城は佐竹と対峙する小田城の小田氏治攻撃の出撃拠点として整備された。

永禄十二(1569)年、小田氏治が片野城攻めのために出撃、これを迎撃する資正親子は真壁城の真壁氏幹、多賀谷城の多賀谷重経らの援軍を得て筑波山麓の手這坂でこれを打ち破った(手這坂合戦)。小田城は太田資正に与えられたが、資正はこれを固辞して息子の梶原政景に譲り、自身は以後も片野城に在城し、天正十四(1586)年には結城晴朝の武将・片見伊賀守晴信を板敷山合戦で破り、下館城主・水谷兵部少輔正村などの結城方の諸将と戦うなど、佐竹の一翼として北関東を転戦した。

天正十八(1590)年の小田原の役で北条氏が滅亡し、土浦城で逼塞していた小田氏も改易となったが、岩槻城は徳川家康の属城となり、太田資正は翌天正十九(1591)年九月八日、七十歳でこの片野城で死去した。

片野城には石塚城から石塚源一郎義国が入城したが、慶長五(1600)年の関ヶ原の役で佐竹義宣は徳川家康率いる東軍に参陣しなかったことを咎められ、慶長七(1602)年、佐竹氏は秋田に転封、片野城には滝川雄利が入城したが、寛永二(1625)年に嗣子なきを理由に改易となり片野城も廃城となった。

頑固オヤジ・太田三楽斎資正。この、いかにも融通の利かないオッサンについては岩槻城の項でも触れさせてもらいましたが、出陣中に北条に内応した息子に岩槻城を奪われ、やがて北条の直轄支配となり、帰る場所を失って忍城の成田氏などを頼って点々とします。どういう経緯か不明ですが結局佐竹の客将として迎えられ、この片野城で対小田氏の先鋒となります。

義重

「よう参られた。御辺は勇名を轟かせた武辺者なれば、当家としてもお迎えするに何の差し障りもなし。ぜひとも当家をわが家とも思うて、心安くお過ごし願いたい。さし当たっては、片野に手ごろな空き城がござれば、これをお預けする故、早々に入られよ。古き城なれば多少は荒れていようが、少々手を入れれば十分に使えるであろうて。」

三楽

「かたじけなきお心使い、痛み入り申す。なにとぞご当家のため、そして岩槻を我が手に奪い返すため、犬馬の働きをいたしまする故、よしなにお願い申し上げまする。」

義重

「そこで、じゃ。三楽斎どの。片野の城は小田の奴ばらの城にも近い。早速ではあるが、御辺にはこの小田攻めの先鋒として、当家への手土産がわりにひと働き願いたい。なに、小田は血筋は名家なれども、いまや風前の灯じゃ。小田氏治は名うてのいくさ下手、武辺で名の知られた三楽斎どのの手を煩わすまでもないが、まずは小手調べに一働きして貰えぬか。」

三楽

「は、はっ。ソレガシ、愚息・源太ともども粉骨砕身の上、必ずや小田氏治の首級を挙げてご覧に入れまする」

という会話があったかどうかはわかりませんが、要するに「働かざるもの食うべからず」、佐竹としてもひとりの将を迎え城を与えるからにはそれ相応の働きを求めるわけで、元来一本気で単純でちょっと抜けてる三楽のオッサンは、それ以来、小田と北条を滅ぼすことに残りの人生を費やし、やっと駆逐したと思ったそのわずか一年後にコロッと死んでしまいました。宿願の岩槻城奪回も果たせずに。

このころ佐竹義重は北条氏に与する北関東の諸将や、奥州の伊達、結城などの勢力とまともにぶつかり合う時期に来ており、上杉謙信も遠く越後からの出張ではいざというときに頼りにもならず(そもそも義重は謙信をキライだったような気がする)、この忙しい時期に退潮気味の小田など本来であれば討ち捨てておきたいところだったでしょうが、生憎となりあっているだけに放っておくわけにも行かず、うっとうしいと言うか、「うざい」存在だったでしょう。そこに転がり込んできた武辺一徹者の三楽のオッサン。これはいいカカシが転がり込んできたワイと思ったかどうか、若いにも関わらず老獪な義重あたりにヨイショされて、「家臣」じゃ聞こえが悪いので「客将」ってことにして、古びた小城をひとつポンと与えて、五月蝿い小田の押さえとして置いておく。義重としても安い買い物だったんじゃないでしょうか。三楽のオッサンも、岩槻奪還を夢見ながらも、ついつい目の前の小田を討ち滅ぼすことに気合が入ってしまい、生涯四割に満たない合戦の勝率の中で、この対小田戦ばかりは異常なほどのパワーをぶつけ、ここぞという時にはしっかり勝ってます。片野城も結果的にはそのためだけに来たようなもんですから。ソレガシなどはこの、単純で一本気で、どこか抜けてる三楽のオッサンがたまらなく好きですね。戦国末期の混沌とした時代、周囲の諸将もみんなそこそこ頭使って利口に立ち回ろうとしていた時代、ひとりで大時代的な坂東武者を演じつづけた三楽オッサン。その姿はどこかもの哀しい喜劇を連想させます。

片野城縄張図(左)鳥瞰図(上)

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さてその片野城、「古びた小城」などと書きましたが、実は現在の「根小屋」集落のほぼ全域に当たる、東西約300m、南北約800mの大城郭です。「図説茨城の城郭」執筆にあたり、不覚にもこのような大城郭を担当することになってしまい、おかげで立て続けに7回も訪れてしまいました。縄張図を描く自分にとっては「こんなヤブの中に遺構がありませんように」などと願いながら突入するのですが、行けども行けども遺構が姿を現します。残念ながら城址としての整備状況は芳しくなく、土塁は寸断され堀は埋められ、さらに宅地・農地・ヤブの三点セットが入り混じって全体像を掴みづらいお城です。しかし、ちょっと民家の裏手にお邪魔したり、ヤブの中に突入したりすると次から次へと遺構が現れます。特に北端附近の大規模な水堀は隠れた見所といえるでしょう。

歴史的には小田氏の属城であった期間が長いこともあってか、全体的に北と東に対する防御線が固く、直接的には江戸氏や大掾氏に備えていた頃の遺構を多く残します。面白いのは中核部にあたるT、Uの東側で、主郭の周りに帯状の曲輪を配したり、今は痕跡だけで分かりづらいものの二重の横堀(水堀)を置いたりして、ここだけ見ると平面的なプランは小田城とも共通するところがあります。南側の広大な台地(V)は七代天神社がありますが、その南端にはこれまた破壊により分かりづらいものの、角馬出しWがあり、また参道入り口附近の土塁の痕跡を追うとここにはどうも枡形まで備えていたようです。さらにX曲輪は東と南のネックを堀切・竪堀で寸断し、さらにヤブの中には屈曲する横堀があったり、南に伸びる細尾根には山城を髣髴とさせる堀切が続いていたりします。このあたりは太田三楽斎の時代に南側から来るであろう小田氏や北条氏に備えたものかもしれません。

なおX曲輪の廃寺の西側墓地には太田三楽斎の墓所もあります。ヤブ突入はオススメしませんが、三楽斎の墓所にはぜひ手を合わせていっていただきたいものです。

[2006.11.23]

比高20mほどの一見貧弱な丘陵が片野城。かつては湿地に囲まれていたでしょう。城域はとても広い上にヤブや宅地など、かなり手ごわいお城です。 とりあえず七代天神社裏手に上がります。ここは堀7の痕で、現在は道路になっています。

その堀7に面したU曲輪側に立つ城址碑と解説板。なんとなくこの辺で既にヤブ城の予感が漂います。 U曲輪は畑になっています。あちこち削られたりしていますが土塁もあります。

堀6は主郭南側から東側にかけて。大きな屈曲を伴います。っていってもこの写真じゃどうにもねえ。。。 主郭Tの土塁は実に立派、高さ3mほどもあります。版築などではなく、いわゆる掻き揚げ土塁のようです。

堀切3は城内最大クラスの堀。幅も高さもたいしたもんです。 堀切3の堀底から。堀底は平らですが、埋められたというような感じではありません。

写真では不明瞭ですが、主郭の東側の切岸下には横堀4があります。その外側に帯曲輪がありさらに水堀があります。 主郭のさらに東の水堀5。一部は畑などになっていますが、痕跡はなんとか追うことができます。主郭を帯状に取り巻く帯曲輪と水堀は、意外にも小田城とも共通するものがあります。

植林地になっているY曲輪。あまり目立った遺構はありません。 以前は「土橋か?枡形の一部?」などと思ったモノですが、これはどうやら土採りによって残った部分であるようです。遺構じゃないと判定。

Y曲輪北側あたりは半端ではない竹薮で進退に行き詰ります。人間の歩くところじゃない! なんとか竹薮を抜けてZ曲輪へ。先端部分には実に重厚感のある土塁があります。

Z曲輪と馬出し状の\曲輪をつなぐ土橋と虎口。虎口遺構としては最も明瞭。土橋の両側は竪堀になっています。 将棋の駒のような形の\曲輪、ここはZ曲輪に対する馬出しとして機能していたものでしょう。

Y曲輪北側の民家裏手には水堀の痕跡が。この家の方に挨拶して奥へ進んでいくと・・・。 おお、なんという規模の水堀!この水堀1は最大の見所。しかしうっかり堀底に降りると痛い目に遭います。

[曲輪を取り巻く堀2。本来、堀1、堀5と繋がった水堀だったものでしょう。[曲輪自体もY曲輪と繋がっていたかもしれません。 ぐるっと南に回ってV曲輪南側の神社参道入り口へ。ここは通路によって無残に壊されているものの、本来は枡形と馬出しを備えた堅固な虎口であったようです。

角馬出しにあたるW曲輪。堀は寸断されていますが土塁が明瞭です。 同じく角馬出し。しかし写真では馬出しだかなんだかさっぱりわからない。

馬出し周囲に残る堀9。こうしてみるとかなり鋭い堀であることがわかるでしょう。しかしこの辺は不法投棄が多いな・・・。 X曲輪の西側の墓地にある太田三楽斎資政の墓所。戦国関東のドンキホーテ、実にいい味を出しています。

道路脇の横堀14への入り口。以前はヤブでしたが不法投棄防止のためかヤブが刈られ、入りやすくなりました。といっても程度の差でヤブには違いないですが・・・。 ヤブの中の堀14。竪堀と合流したり、屈曲を持っていたり、なかなか技巧的です。気になる方はヤブコギしてみてください。

こちらは南に伸びる細尾根上の堀切15。まるで山城に来たみたい。なかなかいい遺構です。 さらに鋭い堀切16。このあたりは結構イイです。尾根の先端は若干の平場があり、物見でも立っていたかも知れません。

その尾根に沿って走る横堀状の通路。小さな尾根の割にはいろんな仕掛けが隠れています。 木々の間から見る筑波山方面。小田天庵はあの山を越えて来襲、そして敗れて流浪の日々・・・。頑張れ天庵、たまには勝てよ!(もう手遅れ)

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「千代田石岡」IC車20分。

周辺地情報

三楽斎の次男、梶原政景の柿岡城が近い。

関連サイト

 

 
参考文献

「筑波町史」

「土浦市史」

「石岡市史」

「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「朝日百科 日本の歴史別冊 歴史を読みなおす15 城と合戦」(朝日新聞社)

「歴史読本 2001年12月号」(新人物往来社)

「図説 茨城の城郭」(茨城城郭研究会/国書刊行会)

現地解説板

参考サイト

常陸国の城と歴史 余湖くんのホームページ 戦国群像

 

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