小田氏治、入道して天庵、この人はどういうわけだか結城氏や太田資正、そしてあの上杉謙信などなど、たくさんの戦国武将たちと戦って、ここぞという時にはことごとく負けてますな。まあたまには勝ってるのかもしれませんが、なにやら毎回、自分で喧嘩を売っておきながら最後はコテンパンにやられて自分の城である小田城を棄てて(あるいは乗っ取られて)逃げていく、そんなイメージばかりあるのですよ。土浦城の亀城公園脇の、土浦市立博物館の中に肖像画がありましたが、もっとひ弱そうな、軟弱な顔かと思ったら意外とそうでもなくて、何となく神経質そうな顔つきながらも想像以上に結構ゴツイ顔のオッサンでした。多少同情的な見方をすれば、戦国後期の北条氏VS反北条同盟の中で損な役回りを演じさせられた、とも言えそうです。八田知家に発する名家も、実力本意の戦国時代を生き残るのは容易ではなく、結局は木田余城も陥されて佐竹に降伏、事実上氏治をもって小田氏は歴史の表舞台から消えていきます。
その氏治が毎度のごとく小田城を追われて逃げ込む先は土浦城であり、またこの木田余城でした。土浦城主の菅谷氏歴代はなかなか優れた人物揃いであったようで、小田の配下を離れて多賀谷氏あたりに内応したら立派な独立領主になっていそうな気がしますが、落ち目の氏治をいつも支えて、氏治から見たら頼りになる男であったことでしょう。もともと木田余城そのものは信太氏の持ち城でしたが、信太範宗は土浦城主・菅谷政貞に謀殺され菅谷領に併呑されます。小田氏治の命であったようです。信太氏の動向がどうだったのかは分かりませんが、なんとなく氏治の疑心暗鬼の犠牲になった、そんな気がしてなりません。
木田余城はもともと附近の丘の上にあったそうですが、戦国期には現在の場所、霞ヶ浦湖岸の平場に移っていたそうです。土浦城や小田城などと同じく、戦国期の平城です。木田余城周囲は今でも広大な蓮田に取り囲まれており、かつての湿地に浮かぶお城の姿を偲ばせてくれます。この蓮田はかつて香取内海の一部であった霞ヶ浦湖岸周辺の湿地帯の様相を伺わせてくれる、なんとなく中世的な、心休まる風景です。木田余城の主要な遺構はほとんどがJRの土浦電車区の車両留置場によって消滅してしまいました。昭和五十年代後半まで主郭の一角が残っていたそうなので、なんとも惜しい気がします。この電車区入り口、地下道のトンネルそばに解説板が建ち、地下道をくぐり抜けるとJRの施設の入り口に城址碑と、信太氏のお墓と伝わる石塔があります。これだけ、と思いましたが、実は遺構らしきものが少し離れた踏切脇にありました。電車区の北側200mほど先の踏切の東側には、明らかに堀跡と見られる一角があります。その周囲を注意深く観察してみると、一面の蓮田の中に高低差があるのに気づきます。これも堀跡ではないかと思います。したがって、主要部がほぼ湮滅した今も、実は外郭にあたる部分は部分的に残っているのでは、と思います。小田城や土浦城はかなり規模の大きな平城ですので、そのすぐ近くにあるこの木田余城も、それらのお城に準じる規模があったかもしれませんね。