殿、また負け戦にござるか・・・

木田余城

きだまりじょう Kidamari-Jo

別名:

茨城県土浦市木田余

(JR土浦電車区 電留基地内)

城の種別

平城

築城時期

不明 

築城者

信太氏

主要城主

信太氏、菅谷氏、小田氏

遺構

水堀の一部

木田余城址の碑と信太氏の墓<<2003年06月29日>>

歴史

木田余城は古くは近くの台地の上にあったが、戦国期には今の低地(字中城)に掘割を造って水城として移したといわれる。木田余城主は信太荘司・紀貞頼系の信太氏で、小田城の小田氏に仕え南野荘の代官であった。

天文二十三(1554)年、信太伊勢守範宗は小田氏治と不和になり、氏治の命を受けた土浦城主・菅谷左衛門尉政貞によって土浦城で誘殺され、木田余城も落城し土浦城の属城となった。

主家の小田氏治ははじめ越後長尾(上杉)氏・佐竹氏らと結び北条氏と結んでいた結城氏・多賀谷氏らと対抗した。弘治二年(1556)、北条氏康は下総結城城の結城政勝の援軍として江戸城代の遠山・富永、岩槻城の太田資正らを結城城に派遣、関宿城の簗田氏や下野の壬生氏、那須氏、奥州白河結城氏らが結城連合軍に加わって、海老ヶ島城を攻撃したのを契機に小田氏治が出陣、山王堂付近で激突したが結城連合軍が優勢で、氏治は敗走し、小田城も陥とされ菅谷氏の守る土浦城まで撤退した(第一次山王堂合戦)。謙信の関東出陣後はこれに従い転戦したが、小田氏治はその後、北条氏の調略に応じて謙信に叛いた。永禄七(1564)年、上州厩橋城に駐屯していた謙信は寝返った氏治を討つべく山王堂付近に進軍、越後・佐竹連合軍との間に合戦となり、氏治は再び敗走し小田城に籠城したがこれも陥とされ、土浦城に退いた(第二次山王堂合戦)。永禄十二(1569)年、北条によって岩槻城を追われ片野城で対立する佐竹義重に庇護されていた、太田三楽斎資正と梶原政景親子を攻めるべく軍を進めたが、資正親子は真壁城の真壁氏幹らの援軍を得て筑波山麓の手這坂でこれを打ち破り、またしても氏治は小田城を追われ、菅谷氏の庇護のもとで木田余城を居城とし、その後小田城に復帰することはなかった(手這坂合戦)。天正六(1578)年、佐竹義重が木田余城を攻撃し、攻防の末木田余城は落城、佐竹義重によって徹底的に破却された。

小田氏治、入道して天庵、この人はどういうわけだか結城氏や太田資正、そしてあの上杉謙信などなど、たくさんの戦国武将たちと戦って、ここぞという時にはことごとく負けてますな。まあたまには勝ってるのかもしれませんが、なにやら毎回、自分で喧嘩を売っておきながら最後はコテンパンにやられて自分の城である小田城を棄てて(あるいは乗っ取られて)逃げていく、そんなイメージばかりあるのですよ。土浦城の亀城公園脇の、土浦市立博物館の中に肖像画がありましたが、もっとひ弱そうな、軟弱な顔かと思ったら意外とそうでもなくて、何となく神経質そうな顔つきながらも想像以上に結構ゴツイ顔のオッサンでした。多少同情的な見方をすれば、戦国後期の北条氏VS反北条同盟の中で損な役回りを演じさせられた、とも言えそうです。八田知家に発する名家も、実力本意の戦国時代を生き残るのは容易ではなく、結局は木田余城も陥されて佐竹に降伏、事実上氏治をもって小田氏は歴史の表舞台から消えていきます。

その氏治が毎度のごとく小田城を追われて逃げ込む先は土浦城であり、またこの木田余城でした。土浦城主の菅谷氏歴代はなかなか優れた人物揃いであったようで、小田の配下を離れて多賀谷氏あたりに内応したら立派な独立領主になっていそうな気がしますが、落ち目の氏治をいつも支えて、氏治から見たら頼りになる男であったことでしょう。もともと木田余城そのものは信太氏の持ち城でしたが、信太範宗は土浦城主・菅谷政貞に謀殺され菅谷領に併呑されます。小田氏治の命であったようです。信太氏の動向がどうだったのかは分かりませんが、なんとなく氏治の疑心暗鬼の犠牲になった、そんな気がしてなりません。

木田余城はもともと附近の丘の上にあったそうですが、戦国期には現在の場所、霞ヶ浦湖岸の平場に移っていたそうです。土浦城小田城などと同じく、戦国期の平城です。木田余城周囲は今でも広大な蓮田に取り囲まれており、かつての湿地に浮かぶお城の姿を偲ばせてくれます。この蓮田はかつて香取内海の一部であった霞ヶ浦湖岸周辺の湿地帯の様相を伺わせてくれる、なんとなく中世的な、心休まる風景です。木田余城の主要な遺構はほとんどがJRの土浦電車区の車両留置場によって消滅してしまいました。昭和五十年代後半まで主郭の一角が残っていたそうなので、なんとも惜しい気がします。この電車区入り口、地下道のトンネルそばに解説板が建ち、地下道をくぐり抜けるとJRの施設の入り口に城址碑と、信太氏のお墓と伝わる石塔があります。これだけ、と思いましたが、実は遺構らしきものが少し離れた踏切脇にありました。電車区の北側200mほど先の踏切の東側には、明らかに堀跡と見られる一角があります。その周囲を注意深く観察してみると、一面の蓮田の中に高低差があるのに気づきます。これも堀跡ではないかと思います。したがって、主要部がほぼ湮滅した今も、実は外郭にあたる部分は部分的に残っているのでは、と思います。小田城土浦城はかなり規模の大きな平城ですので、そのすぐ近くにあるこの木田余城も、それらのお城に準じる規模があったかもしれませんね。

東側から見た遠景、といっても平城なのでどこだかよく分かりませんね。。。軽トラの背後、丘陵の手前の一角が木田余城です。 JR常磐線、土浦駅の北東側の細い道路沿いに解説板がありました。写真奥の地下道を通り抜けると、城址碑があります。
木田余城址の碑と、城主信太氏のお墓と伝えられる石。この写真背後は土浦電車区の電車留置施設になっており、遺構は全くありません(立ち入りもできないが)。 木田余城周囲の蓮田。見渡す限りの蓮田の風景はなかなか美しい。花が咲く季節なんかは壮観でしょうね。
北東の踏切脇の水田。周囲が蓮田の中でここだけ稲の田んぼ。ここは水堀の一部でしょう。 踏切のすぐ横、左写真の水田の裏には明らかに水堀の一部と思われる箇所があります。
踏切から東へ向かう道路沿いの蓮田も周囲と比べ若干低い上、その形状から堀と思います。 附近の蓮根集荷場の周辺の田畑にも微妙な高低差があります。仔細に見れば、一部とはいえ縄張りが明らかになるかも。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「土浦北」IC車10分。

JR常磐線「土浦」駅から徒歩10分。

周辺地情報

土浦市内の有名な土浦城が近い。せっかくだから関係の深い小田城にも足を伸ばしてみては。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

美浦村お散歩団

埋もれた古城 表紙 上へ