小田城散策(2)

住宅街の遺構・外郭遺構ほか

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小田城縄張図(左)・鳥瞰図(右) ※クリックすると拡大します。
小田幼稚園(U曲輪)東側の堀(堀2)。小田城の堀は主郭周囲意外は水田や宅地になっている場所がほとんどです。 こちらは小田幼稚園入口附近の埋められてしまった堀。数年前は田んぼでした。大きな横矢が見られた場所だったんですが・・・。
小田幼稚園西側(主郭の北東側)にあったという馬出しの痕跡の道路。屈曲した道路がわずかにその痕跡を伺わせます。 小田小学校(V曲輪・陣屋)西側の稲荷社は数少ない残存土塁の上にあります。この写真右手に細い水路があるのですが、ここが小田幼稚園の駐車場から繋がる堀跡となります。
U曲輪西側の堀5。ここも数年前まで水田だったのですが、現在では排水路が作られて景観が変わってしまいました。 小田小学校の裏手(北側)の堀6。現状は畑・宅地で、小学校の用地として一部が埋められています。
小田城に1箇所だけあった丸馬出し(「丸戸張」)の痕跡を残す曲線的な道路。 小田小学校東南の民家敷地に残る、残存土塁中では最大規模の土塁。
右上写真の土塁を、民家の方にお願いして見学させてもらいました。高さ4mほど、南に20mほど伸びており、その先はやや規模が小さいながらもさらに20mほど痕跡が見られます。 非常に幅の広い堀4。ある時期まではおそらくここが最外郭に相当する場所だったでしょう。

南北朝期、小田孝朝が建立した大日如来種子碑。孝朝は小山若犬丸の乱に際して、若犬丸を一時庇護しています。 堀4の南西角。驚異的な幅の広さです。
堀4の中にポツンと浮かぶ島状の曲輪。一応馬出しと解釈しましたが、古絵図には載っていません。 区画整理などで当時とは若干違うはずですが、小田城の西側を通る道路と水路附近がほぼ西側の最外郭に相当すると思われます。
古絵図でいうところの「今入口橋」と思われる附近。「ビシャ門櫓」の記載もあります。この附近一帯が\曲輪(田土部曲輪)にあたります。 大手口推定附近。本来馬出しがあったはずですがまったく痕跡はなく、わずかに堀跡を想像させる水路、若干の土塁痕が見られる程度。
廃線になった関東鉄道小田駅ホーム附近。駅舎前の広い道路も堀跡。 ホーム向かい側の堀9。この奥にも藪化しているものの、泥田堀の痕跡が明瞭に残ります。
小田駅ホーム西側の泥田堀10。こちらも藪化していますが、痕跡は明瞭。 左の堀の続き、数件の集合住宅前を流れる水路。この住宅周囲の畑にも堀の痕跡があり、一種の馬出し状の曲輪であったようです。
長久寺墓地裏手の見事な泥田堀。しかし藪が酷い上、水は腐って悪臭を放ち、これ以上近づけない。少々勿体無い遺構ではありますな。。。 長久寺の前の細い水路も追いかけていくと堀跡であったことがわかります。
北西最外郭線に沿ってわずかに見られた残存土塁らしきもの。集落端を北〜西に走る道路がおそらく最外郭の堀に相当しそうです。 最外郭北側にはほぼ方形の水堀(一部は線路敷によって埋められている)に囲まれた民家。小田城との関係は不明ながらも、まったく無関係とも思えない。
こちらは集落南側の解脱寺裏手の堀と想定される田んぼ(堀11)。周囲の田んぼよりやや低い場所が帯状に連なります。 堀11のさらに南側にも最外郭と想定される堀痕らしきものがあります。
主郭より見る前山。比高50mほどの丘陵ですが、砕石によって山容は大きく変わり、ヤブも酷いので遺構はイマイチよくわかりません。 前山裏手の「極楽寺」跡にある巨大五輪塔。極楽寺は鎌倉時代の建長四(1252)年、忍性の開基。小田城周辺には廃寺跡もいくつもあり、東国における文化都市のひとつとしての側面も持っていたようです。
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