敗北に次ぐ敗北の果てに

藤沢城

ふじさわじょう Fujisawa-Jo

別名:

茨城県土浦市藤沢

城の種別

平山城

築城時期

不明(鎌倉時代?)

築城者

小田氏

主要城主

小田氏

遺構

曲輪、土塁、堀切

藤沢城主郭<<2006年12月03日>>

歴史

築城時期は明らかでないが、鎌倉時代末期の元弘元(1331)年、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の密議「元弘の変」に関与した公家の藤原(万里小路)藤房が常陸に配流となり、小田高知(のちに改名して治久)預かりとなってこの地に置かれたとされるので、この頃には小田氏によって原型的な城館が築かれていたかも知れない。

戦国期には小田氏の支城となっていたと思われるが、永禄七(1564)年に上杉謙信が小田城を攻略した際に小田氏の主要な城郭を書き上げた「小田味方地利覚書」には藤沢城の名は見えない。一方、『佐竹家旧記』の中の「戸部一閑覚書」によれば、永禄十二(1569)年十一月の「手這坂の合戦」で敗れた小田氏治軍の敗残兵約一千が藤沢城に立て籠もり、追撃する真壁勢は藤沢城を攻撃したが落城せず、五十騎ほどの戦死者を出して敗退したという。

天正六(1578)年ごろには土浦城に在城していた小田氏治は佐竹義重との和睦を画策しはじめ、出家して天庵を号した後、天正十一(1583)年には実子を人質に差し出して降伏した。その後佐竹氏により藤沢城在城を認められた模様で、『吉備雑書抄書』『大蔵卿筆記』に「天正十三(1585)年九月二日藤沢鍬立日」「再興鍬立藤沢城次年正月ニ十四日御移被成候」と見え、このころ再建されて小田天庵が移り住んだことが伺える。また天正17年(1589) ごろと見られる年未詳太田道誉(資正)書状の宛所には「藤沢人々御中」とあり、佐竹氏配下として在城を認められていたことがわかる。「毛利家文書」では「小田氏晴文分城 藤沢 氏晴」と見える。小田天庵と嫡子の守治は天正十八(1590)年一月二十九日、突如小田城奪回の兵を挙げて藤沢城周囲で合戦に及んだものの失敗したことが「太田資武状」や梶原政景の書状、真壁氏の感状などから明らかである。藤沢城はまもなく廃城となったと思われる。

藤沢城って何だか分かりにくいお城なんですよね。現状では宅地化や改変が激しすぎて全体像がよくわからない上、特段技巧的なところがあるわけでなく、ただただ大きいというか大雑把なだけ、そんな感じなのです。さらにその歴史も諸書によってかなり異同があります。『小田天庵記』『関八州古戦録』などの軍記物の世界では手這坂の合戦で敗れて小田城を奪われた小田氏治が小田城奪回のために立て籠もり、さらに支えきれずに土浦城に落ちていくことになっています。さらに『小田天庵記』では氏治は土浦城内で自害して果てることになるのですがこれは完全に誤りです。これらの軍記物では藤沢城小田城奪回の拠点として幾度か激しい合戦をしたとされていますが、これも実は確証はなし。

諸記録入り乱れていますがこれを史実と照合しながら整理すると、氏治は手這坂の敗戦後、菅谷氏を頼って土浦城に入り、二度と小田城には戻れませんでした。土浦城にまっすぐ向かったか、いったん藤沢城に入ったかどうかは不明ですが、『佐竹家旧記』における「戸部一閑覚書」が正しいとすれば小田勢の敗残兵が藤沢城に立て籠もり真壁勢はこれを攻めて敗軍した、とあります。これが『小田天庵記』でいうところの「鳥出台の合戦」の原型かもしれません。前述の戸部氏の覚書によればその後「(真壁)道夢藤沢ヨリ(土浦城を)攻入」とあるので真壁氏が占領していたかもしれません。その後氏治が「浜辺に落ち行き、船にて江戸崎城に渡る」などという記述もありますが真偽は不明です。

江戸崎城の件は真偽不明ですが、手這坂の合戦後に氏治は、木田余城主の信太氏を何らかの理由で成敗し、木田余城に移ったようです。しかしこれも佐竹によって落とされると再び土浦城に閉じ籠もります。追い詰められた氏治は天正六(1578)年ごろから佐竹氏に和睦交渉を持ちかけ、天正十(1582)年ごろには入道して天庵と号すると同時に、嫡男・守治に家督を譲ったものと思われます。その間の出来事はすべて土浦城で行われたと見るのが正しいようです。そして天正十一(1583)年には佐竹氏に人質を差し出して正式に降伏、おそらく佐竹氏によって在城を認められたのがこの藤沢城であった、つまり藤沢城は事実上、小田天庵の隠居城となったのではないかと考えられます。『吉備雑書抄書』『大蔵卿筆記』にある「天正十三(1585)年九月二日藤沢鍬立日」「再興鍬立藤沢城次年正月ニ十四日御移被成候」というのはこのころ藤沢城が「再興」され、隠居の天庵の居城として再整備されたことを指しているのでしょう。当の天庵は家督を譲った後も感状や官途状を発給するなど事実上の当主として振る舞い、また佐竹氏に従属しながらも一定の地位は認められていたようです。敗北に次ぐ敗北を味わった天庵はここで安らかな余生を送る・・・筈でした。

ところが話はココで終わらない。なんと天正十八(1590)年一月二十九日、突如藤沢城で旧領奪還の兵を挙げます。この時期、豊臣秀吉はいよいよ小田原北条氏を討伐すべく軍勢を揃えまさに出発寸前、天下の目が秀吉と小田原に向いているときに天庵、お前は何を考えていたんだ!?世の中をどう解釈したらそういうことが出来るんだ!?この合戦では天庵・守治父子はそこそこ奮戦して梶原政景もタジタジだったようですが、結局はお約束どおり敗れてしまい藤沢城も追われ流浪の日々を送ります。どうも『小田天庵記』における「藤沢合戦」「藤沢勢夜討の事」や『関八州』の「常州樋ノ口合戦」とはこの時のものを指しているのでは、とも思いますし、『関八州』における「常州手配山(手子生城の誤り)の合戦」はこの後日譚ではないか、とも思えます。合戦そのものは梶原政景の書状や真壁氏の感状、太田資武(梶原政景の弟)の身上書などから場所・日時とも史実とみて間違いありません。そして自らの所業で終の棲家であったはずの藤沢城も失った天庵は、縁故を頼って秀吉に泣きつくも「アホか」と一蹴されて旧領回復は万事休す。浅野長政の取成しで秀吉の裁定により結城氏の食客(要するに居候)となって結城城に置かれることとなります。結城城ではこの頃、佐竹に水戸城を追われた江戸重通や隠居の結城晴朝などがおり、この同世代のリタイヤ組がどういう会話をしていたのかも興味津々です。しかし素直に佐竹に従っておけばまた違う未来が開けたかも知れないのに、とも思う反面、もしかしたら江戸氏、大掾氏や「南方三十三館」の領主みたいに悲惨な末路が待っていたかもな、と思うと天庵の判断もあながち間違いでもなかったような気もしてきます。いずれにせよ天庵最後の挙兵は世情とも戦国大名的な政治感覚とも全く無関係に唐突に行われ、世の中に何のインパクトも与えることなく歴史の片隅に埋没します。そして天庵当人もまた結城氏の移封とともにこの地を去り、遠く越前北ノ荘においてその人生を終えるのでした。嗚呼、合掌。

藤沢城縄張図

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藤沢城の主郭は旧藤沢駅背後の比高20mほどの台地先端にあり、現状はほとんどが畑になっていて、断片的に土塁が残ります。堀はほとんど旧状を留めていませんが、主郭北側の道路などが堀跡と見られ、おそらく両端で谷津に繋がっていたでしょう。U曲輪はなんだかよくわかりませんが、一応神宮寺裏手に土塁や堀が残ります。一方県道を挟んだ東側の台地「中城」にはかつて極楽寺があったといい、現状は畑になっているものの東側に最大3mもの高さを持つ土塁が100m以上残っています。この土塁は二箇所ほど折れがあり、中央開口部はもともと虎口だった可能性がありますが、一般的な虎口周辺の折れとは向きが逆になります。この土塁の外側にはかなり埋まっているものの、立派な堀が残ります。このV曲輪は県道貫通前はおそらくUと一体の曲輪だったように思います。ここまででもかなり広大なお城なのですが、実は「池の台」台地(W)の先端にも横堀があり、全体の地形から見てもここも城域と見て間違いないでしょう。さらに驚いたことに、国道125号旧道の北側の精泉寺から遍照寺へと到る民家の裏に、延々600mにも渡って断続的に土塁と堀が残ります。となると藤沢集落のほぼ全域が城域に含まれることになります。これは城郭の曲輪としては常識はずれなほど広大であり、一種の惣構えと考えてもよいと思われます。この堀と土塁は中央部が道路や宅地で隠滅していますが、東西の堀のラインや残存部を見る限り、この分断地点附近で食い違いになていたように思われます。しかしこれだけ長大な堀を築いたところで、隠居の天庵がどう守るつもりでいたのか、甚だ疑問ではあります。

また周辺の見所としては「池の台」東端には天庵の母の菩提を弔ったという木造地蔵尊、「播磨郭」には元弘の変で常陸に配流となった万里小路(藤原)藤房の遺髪塚があります。城郭遺構としての残存度は必ずしも良くはなく、主要部だけ見ると見ごたえに欠けるお城に思えるでしょうが、少なくとも「中城」の土塁と最外郭の堀・土塁は見てほしいところです。そして願わくば、流浪の天庵の労苦を少しだけ心の中でねぎらってやってください。

[2006.12.11]

旧常陸藤沢駅背後の広大な台地が藤沢城。遺構は断片的で散漫な印象を与えますが、とにかく城域はやたらと広い。 主郭(T)はほぼ全部が畑になっており、案内板の一つもありません。色づいた銀杏の樹がいい感じです。
民家の脇にある本来の主郭虎口であったと思われる開口部。 主郭の先端附近や縁辺には断続的ではありますが土塁が見られます。
主郭東の谷津から続く堀痕と思われる場所。ほぼこの写真のガードレールの長さと堀幅がイコールだったと思われます。 こちらは主郭西側の堀痕らしき場所。旧藤沢駅前へと続く通路になっています。
主郭背後の土塁と手前の車が停まっているあたりが堀痕。堀幅は最大20mほどもあったと思われます。 民家の塀の中にも土塁の痕跡が。主郭背後には大きな横矢があったと思われます。
U曲輪にある神宮寺の背後の竹林の中には土塁が残ります。このあたりは主郭よりも標高が高そうです。 神宮寺背後の堀痕ですが、残存状態が良くないためどの方向に伸びてどこに繋がっていたのかがよくわからない。
U曲輪西側の通称「播磨郭」にある万里小路(藤原)藤房の髪頭塚。「元弘の変」でこの地に配流となった藤房により小田氏が感化され、やがて南朝に与するキッカケになったとか。 「中城(V)」より主郭を望む。この間の谷津は道路開通や宅地などにより改変されていて旧状の想定が難しい。本来はUとVは同一の曲輪だったかもしれません。
「中城」(V)もほど全域畑になっていますが、かつては小田氏と縁の深い極楽寺があったといい、石仏などが散らばっていた、という話(地元古老談)でした。 その中城の土塁はなかなか重厚で素晴らしい。高さ2〜3mの土塁が100m以上も続いており、折れも見られます。
中城の南端附近の堀。しかし不法投棄のゴミに加え、近隣の土砂や落ち葉、刈った草などが無造作に放り込まれ消滅寸前。。。 中城の東側の堀はほとんど竹薮。かなり埋まっています。なおこのコーナー部あたりには深い井戸がヤブに隠れているそうなので注意(これも古老談)。
中城の土塁の折れ部分。左側に映っている畑はやや低くなっており、堀の名残を残します。 「池の台」台地にある邦見寺跡。小田氏との関係は分かりませんでしたが、藤沢城内にはこうした寺社が多数建立されていたようです。
「池の台」台地南端附近の横堀。通路跡にも見えますが台地下とは接続していません。 「池の台」台地が本来の根古屋集落だっただろうか。附近には立派なお屋敷が立ち並んでいます。
池の台にある木造地蔵尊。あの天庵が母の菩提を弔うために建立したという。母は江戸氏の出身であるらしいです。 「下宿」にある薬師如来坐像が収められた社。室町期のものということで、小田氏の寄進と見ていいでしょう。
外郭東端の精泉寺。外郭の東西に寺を配置しているところなどは計画的に見えます。小田氏関連のものか、古い五輪塔が沢山あります。 その精泉寺から遍照寺まで断続的に残る最外郭の堀と土塁。規模は大きくありませんが延々と続く外郭線は圧巻、ぜひお見逃し無く。
断続的に残る外郭の土塁。しかしこんな効率の悪そうな防衛ライン、いったいどうやって守るつもりだったんだよ、天庵さん! 藤沢城の西側、高岡集落の法雲寺にはその天庵のお墓(供養塔)が。「世の中、勝ち組ばかりじゃ成り立たないよ、負ける人がいるからバランスが取れるのさ。」と天庵が語りかけてくれたような気が・・・。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「土浦北」IC車10分。

JR常磐線「土浦」駅よりバス、タクシー等。

周辺地情報

小田城土浦城は外せません。先に見ましょう。金田城、田土部城、今泉城などというのも近いです。

関連サイト

 

 
参考文献

『小田天庵記』『小田軍記』『関八州古戦録』

「図説新治村史」

「筑波町史」

「土浦市史」

「牛久市史」

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「常陸小田氏の盛衰」(野村亨/筑波書林)

「図説 茨城の城郭」(茨城城郭研究会/国書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ 美浦村お散歩団

埋もれた古城 表紙 上へ