長尾景春、断崖の上に決起す

鉢形城

はちがたじょう Hachigata-Jo

別名:

埼玉県大里郡寄居町鉢形

 

城の種別

崖城

築城時期

文明五(1476)年 

築城者

長尾景春

主要城主

長尾氏、藤田氏、北条氏

遺構

曲輪、土塁、石垣、空堀、水堀、馬出し 等

本丸より見下ろす荒川の急流<<2001年2月17日>>

歴史

『新編武蔵風土記稿』によれば、はじめ源経基によって築城され、のちに畠山重忠が在城したといわれるが確証はない。

文明五(1473)年六月、関東管領山内上杉氏の家宰・長尾景信が死去した際に、上杉顕定は景信の弟・忠景に家宰職を嗣がせた。景信の子、景春はこれを不服として上杉氏に反発、一時は上州白井城に帰っていたが、文明八(1476)年に鉢形城を築いて立て籠もり、上杉氏と対立した(長尾景春の乱)。翌文明九(1477)年正月、景春は五十子の上杉氏本陣を襲撃し、上杉氏は上野に逃れた。扇谷上杉氏の家宰・太田道灌は景春に帰服を呼びかけるが景春は拒否し、五月に用土原で合戦となり、景春は敗れて鉢形城に立て籠もった。上杉氏は鉢形城を包囲したが、景春は不利を挽回しようと、古河城の足利成氏に支援を要請、七月には成氏が結城・宇都宮・那須・佐々木・横瀬氏らを引き連れて上野の滝まで進軍したため。上杉顕定、上杉定正らは包囲を解いて上野の防衛を固めた。文明十(1478)年正月、上杉氏と足利成氏の間で停戦が成立、景春も成氏の説得で鉢形城に帰還した。七月十八日、太田道灌は鉢形城を攻め、景春を秩父へ追放し、鉢形城は上杉顕定の居城となった。なお景春は秩父方面で文明十二(1480)年まで抵抗を続けたが、やがて上杉氏に降伏している。

その後、上杉顕定が越後長森原で戦死すると、古河公方足利政氏の子で顕定の養子となった顕実が居住したが、永正九(1512)年六月、別の養子・憲房との内訌で破れ、憲房方の長尾景長に鉢形城を奪われた。憲房は大永四(1524)年十月十日、北条氏綱と戦うために武蔵毛呂山城を攻めた際にもこの鉢形城に入城している。

天文十五(1546)年の河越夜戦で上杉氏が北条氏に大敗すると、武蔵の土豪は次々に北条氏に帰順した。天神山城主・藤田重利(康邦)は北条氏康の三男・氏邦を養子に迎え、自らは用土城に隠居した。氏邦は永禄三(1560)年前後に本拠を鉢形城に移し、大規模な改修を行った。

永禄十二(1569)年、武田信玄が小田原城攻撃のため上州から侵攻してきた際に鉢形城も攻められたが、守りが堅いのを見た信玄はそのまま南下して滝山城に向かった。

天正十八(1590)年の小田原の役では、北条氏邦は出撃論を主張したが、籠城策がとられることになり、氏邦は鉢形城に戻り三千の守備兵を固めた。五月十三日、前田利家、上杉景勝らの北国軍が鉢形城の攻撃を開始、本多忠勝らが車山から大砲を撃ち込み、城内の被害が甚大であったことから六月十四日、鉢形城は開城した。氏邦の身分は前田利家に預けられた。鉢形城はこれを最後に廃城となった。

荒川が蛇行する断崖上に築城された典型的崖城。荒川の急流、急崖と、その支流、深沢川の渓谷に守られた、まさに天然の要害です。

長尾景春、この人もいいキャラクターです。跡継ぎ問題を廻ってダダこねて、ただでさえ享徳の大乱でぐちゃぐちゃになった関東を引っ掻き回し、武蔵野・秩父を神出鬼没に暗躍した男。きっと、頭はいいんだけど、どこかヒネクレた人格の持ち主だったのでしょう。結局、太田道灌に鎮圧されて、道灌の名声を高めるだけになっちゃった。よく道灌は「足軽による集団戦法の開祖」みたいに言われますが、景春には「山岳ゲリラによる集団攪乱戦法の開祖」の称号を授けたいと思います。

現在は城址公園としての整備中で、三の丸ふきんを中心に盛んに発掘が行われており、その貴重な場面を見学することができました。ただビニールシートを被っていて見られなかった部分が多かったのが心残りですね。案内板はあるにはあるのですが、堀や曲輪の配置が複雑で、どういう遺構なのか、どんな曲輪だったのか、などはあまり分かりませんでした。整備が終わって解説の案内板等が整ったら、もう一度見に行きたい城ですね。

<<追補>>

2002年01月20日、花園城見学のついでに公園整備の様子を見に再訪しました。その情報と、若干の追加の写真をアップします。

結論から言えば、この史跡公園化、方向性がちょっと不安。まず、昨年からあんまり進んでいないことが意外。昨年は三ノ丸、秩父曲輪の発掘を行っていましたが、どうやらそれは終了したらしいのですが、玉石垣を用いた石垣土塁はあいかわらずビニールシートが被さったまんまだし、移転する予定の埼玉県森林センターもまだそのままだし、鉢形城の公有化そのものがまだ終わっていない印象でした。公有化計画を示す看板の日付は平成八年。そろそろ目鼻がついてもいいと思うのだが。しかもこの看板にも、隣の「第一期整備」の看板にも、目標時期が書いていない。けっしてズルズル伸ばしてるわけではないと思うが、地権者同士の話し合いがつかないのか、不景気でカネがないのか、それとも例の石器捏造事件(鉢形城とは直接の関係は無いが)の影響で発掘調査そのものがダメージを受けちゃったのか・・・

もっとも不安だったのがその秩父曲輪あたりの公園造営方法。はたしてどの程度の発掘だったのか、全容は知らないのですが、少なくても僕が見た時は全体の発掘ではなくトレンチを穿っての発掘でした。現在ではブルドーザーやらユンボやらがすっかり掘り返して(あるいは埋め戻して)いる様子。折角発掘したんだから、そのまま露天展示すればいいのに。「埋め戻し」といえば聞こえはいいけど、結局は折角残っているものを壊すことになりはしないか?心配です。

復原箇所にも疑問あり。秩父曲輪・三ノ丸の間にある馬出し上の小曲輪の周辺はあきらかに昨年見たときと形が違う。堀ももっと深かったはず。もちろん、公園化のためにはある程度の改変も止む無し、とは思うのだけれど、明らかに形が変わっちゃうのはどうかと思いますね。土塁の復原もどうも土嚢を積み上げているようで、外見は完全に復原されても、実は中身は全然違うものになりはしないか?かなり不安です。

城址を分断する道路は細い割に交通量が多いのも気になる。かといって道路を広げるのもどうかと思うし、新しい道路を別に作ることも難しい気がするので不安がってもしかたのない話かもしれない。

大手馬出しにあたる諏訪曲輪。諏訪神社が祀ってあります。公園の整備地区の対象ではないようですが、周囲には藪化しているものの、空堀、土塁がよく残ります。藪を刈り取るだけでも整備すればいいのに。 伝・秩父曲輪の石垣土塁。土塁の基部に石垣を用いていた。
櫓台周囲の空堀。以前来た時は整備中でビニールシートに覆われていた。でもちょっと形が変わったような気がするんですが・・・

右上写真の櫓台の上。「石垣土塁」に囲まれていますが、発掘時の復原なのか、単純に公園整備の都合上そうしたのか不明。公園化はいいことだと思うけど、「遺構とそうじゃないもの」が不明瞭にならないといいのですが・・・。

二ノ丸と三ノ丸の間に位置する空堀と土塁。馬出しのようにも見えるのですが、そうではないようです。

お願いして、発掘作業を見学させてもらいました。

二ノ丸。公園としての整備と発掘が行われていますが、発掘の終わった場所は大型建機が派手に埋め戻しを行っていて、ちょっと複雑な気分。 この道路が本丸と二ノ丸を分断する堀切だったところ。
辛うじて残る本丸付近の石垣。周辺には若干の石垣がありますが、道路建設により分断されているのが残念。いわゆる後世の高石垣ではなく、あくまでも土塁・塁壁を補強するためのものです。 本丸搦手付近の石垣。道路建設によって断面をさらしています。残念ではありますが、石積みの手法を横から見ることが出来る、という利点(?)もあります。
本丸周辺の土居。荒川の断崖に向かって、一段高く土居が築かれています。ここからの荒川の断崖は迫力があります。

本丸に建つ鉢形城址の碑。

本丸から遠望する花園城。川の対岸に敵が布陣したとすれば、背後を脅かす絶好の位置ですが、小田原の役に従軍した大軍には手も足も出ず籠城するしかなかったでしょう。

逸見曲輪の空堀。逸見曲輪付近はとくに遺構が大規模で複雑です。

逸見曲輪の水堀。遠くに見える山は前田利家らの攻城軍が大砲を撃ち込んだ車山。

逸見曲輪にも草に埋もれかけた石垣土塁があちこちで見られます。
荒川とともに鉢形城を護る自然の要害、深沢川の渓谷。 深沢川を挟んで南方向の外曲輪の土塁と堀跡。

荒川に架かる橋の上から見た本丸の断崖。

こちらは荒川対岸「玉淀」から見上げた本丸の大絶壁。荒川は深く急流で、この方向から攻めるのは不可能です。

 

 

交通アクセス

JR八高線・東武東上線「寄居」駅徒歩10分。

関越自動車道「花園IC」より車20分。

周辺地情報

北は花園城、県を越えて平井城、南は松山城。天神山城なども見ごたえがあるらしい。

関連サイト

 

 

参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「戦国関東名将列伝 」島遼伍/随想舎、「武蔵武士」(福島正義/さきたま出版会)、別冊歴史読本「戦国古城」 (新人物往来社)、小説「太田道灌」(童門冬二)ほか

参考サイト

埼玉の古城址

 

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