荒川が蛇行する断崖上に築城された典型的崖城。荒川の急流、急崖と、その支流、深沢川の渓谷に守られた、まさに天然の要害です。
長尾景春、この人もいいキャラクターです。跡継ぎ問題を廻ってダダこねて、ただでさえ享徳の大乱でぐちゃぐちゃになった関東を引っ掻き回し、武蔵野・秩父を神出鬼没に暗躍した男。きっと、頭はいいんだけど、どこかヒネクレた人格の持ち主だったのでしょう。結局、太田道灌に鎮圧されて、道灌の名声を高めるだけになっちゃった。よく道灌は「足軽による集団戦法の開祖」みたいに言われますが、景春には「山岳ゲリラによる集団攪乱戦法の開祖」の称号を授けたいと思います。
現在は城址公園としての整備中で、三の丸ふきんを中心に盛んに発掘が行われており、その貴重な場面を見学することができました。ただビニールシートを被っていて見られなかった部分が多かったのが心残りですね。案内板はあるにはあるのですが、堀や曲輪の配置が複雑で、どういう遺構なのか、どんな曲輪だったのか、などはあまり分かりませんでした。整備が終わって解説の案内板等が整ったら、もう一度見に行きたい城ですね。
<<追補>>
2002年01月20日、花園城見学のついでに公園整備の様子を見に再訪しました。その情報と、若干の追加の写真をアップします。
結論から言えば、この史跡公園化、方向性がちょっと不安。まず、昨年からあんまり進んでいないことが意外。昨年は三ノ丸、秩父曲輪の発掘を行っていましたが、どうやらそれは終了したらしいのですが、玉石垣を用いた石垣土塁はあいかわらずビニールシートが被さったまんまだし、移転する予定の埼玉県森林センターもまだそのままだし、鉢形城の公有化そのものがまだ終わっていない印象でした。公有化計画を示す看板の日付は平成八年。そろそろ目鼻がついてもいいと思うのだが。しかもこの看板にも、隣の「第一期整備」の看板にも、目標時期が書いていない。けっしてズルズル伸ばしてるわけではないと思うが、地権者同士の話し合いがつかないのか、不景気でカネがないのか、それとも例の石器捏造事件(鉢形城とは直接の関係は無いが)の影響で発掘調査そのものがダメージを受けちゃったのか・・・
もっとも不安だったのがその秩父曲輪あたりの公園造営方法。はたしてどの程度の発掘だったのか、全容は知らないのですが、少なくても僕が見た時は全体の発掘ではなくトレンチを穿っての発掘でした。現在ではブルドーザーやらユンボやらがすっかり掘り返して(あるいは埋め戻して)いる様子。折角発掘したんだから、そのまま露天展示すればいいのに。「埋め戻し」といえば聞こえはいいけど、結局は折角残っているものを壊すことになりはしないか?心配です。
復原箇所にも疑問あり。秩父曲輪・三ノ丸の間にある馬出し上の小曲輪の周辺はあきらかに昨年見たときと形が違う。堀ももっと深かったはず。もちろん、公園化のためにはある程度の改変も止む無し、とは思うのだけれど、明らかに形が変わっちゃうのはどうかと思いますね。土塁の復原もどうも土嚢を積み上げているようで、外見は完全に復原されても、実は中身は全然違うものになりはしないか?かなり不安です。
城址を分断する道路は細い割に交通量が多いのも気になる。かといって道路を広げるのもどうかと思うし、新しい道路を別に作ることも難しい気がするので不安がってもしかたのない話かもしれない。