頼りになる「叔父貴」の城

矢沢城

やざわじょう Yazawa-Jo

別名:

長野県上田市殿城

城の種別

平山城(丘城)

築城時期

不明

築城者

矢沢綱頼(?)

主要城主

矢沢氏

遺構

曲輪、石垣、堀切

矢沢城の石垣<<2002年11月06日>>

歴史

築城に関する時期等は不明。真田幸隆の弟、矢沢綱頼(頼綱とも)の居城と伝わる。

矢沢氏は滋野一族の海野氏の分流で、文明二(1470)年諏訪神社上社の神事奉仕などをはじめとして、諏訪上社の神使御頭を務めている。綱頼が矢沢家を嗣いだ時期や経緯は不明。

天文十(1541)年、海野棟綱、真田幸隆らは武田信虎、諏訪頼重、村上義清の連合軍に攻められ海野平を追われたが(海野平合戦)、棟綱、幸隆らは羽尾幸全入道を頼って上州羽根尾城に逃れ、綱頼は村上氏に降った。ふたたび真田幸隆と活動するようになる時期や経緯は不明だが、天文二十(1551)年の真田幸隆による戸石城乗っ取りの際、矢沢綱頼は村上方として戸石城に在城しており、兄・幸隆の工作により内応、戸石城乗っ取りに貢献したという見方もある。今に見る矢沢城はこの頃に作られ、戸石城とともに真田郷の外郭線防御の一翼を担ったと考えられる。天正八(1580)年、越後の内乱(御館の乱)の混乱に乗じて真田昌幸が北条領の上州沼田城を奪取した際には小川城攻撃に参加して戦功を挙げ、武田勝頼から感状を受けている。

天正十(1582)年三月に武田氏が滅びると、矢沢綱頼は真田氏の重臣として仕え、沼田城代を勤めた。天正十三(1585)年の北条氏照・氏邦兄弟七千の沼田城奪還の兵を退けている。

天正十三(1585)年、徳川氏と北条氏による上州領土割譲に際し、徳川家康より沼田城明け渡しを命じられた真田昌幸はこれに反発し、上田城に徳川軍七千の攻撃を受けた。この際に、矢沢城には矢沢三十郎頼康ら城兵八百が立て籠り、依田源七郎ら千五百の徳川の攻撃を退けた。

慶長五(1600)年の関ヶ原の役に際して、東軍に叛旗を掲げた真田昌幸・信繁(幸村)父子は上田城で徳川軍を退けるなど善戦したが、西軍の敗北により九度山へ配流となり、本拠の上田城も破却された。矢沢城もこの頃に廃城となり、元和八(1622)年、小諸城から仙石忠政が上田城に入城してからは仙石領となった。仙石政明の代に旧矢沢領は仙石旗本領となり、城下に陣屋が設けられ明治の廃藩置県まで続いた。

矢沢綱頼(頼綱ともいわれる)は真田幸隆の弟、昌幸のおじさんにあたる人物です。この矢沢城はその綱頼の本拠の城であったといわれる場所で、背後には矢沢支城も控えています。矢沢綱頼という人物は、とくに沼田城の攻略戦、それを奪還しようとする北条氏の攻撃をかわす防衛線で名を上げた人物で、真田の一門として重く用いられました。二人の兄、信綱、昌輝を失って期せずして真田家を嗣ぐことになった三男坊の昌幸にとっては、誰にも代え難い「頼りになる叔父貴」であったことでしょう。関ヶ原後、昌幸は九度山へ配流となり、昌幸の嫡男、信幸(信之に改名)が松代城に移って近世松代藩の祖となるのですが、その際にも矢沢氏は無役席(家老職より上の別格扱い)として千四百石を知行し、事実上のナンバー2として君臨します。そのすべての礎が綱頼にありました。

場所は上田市市街地方面から神川沿いに北上した、真田郷の入り口付近にあり、対岸には伊勢崎城と相対した、真田郷全体の大手口を守る場所にあります。同時に、上田城にとっても背後の守りにも当たり、この位置関係を見るだけでも、真田昌幸の綱頼に対する信頼が伺われる気がします。その期待は的中し、天正十三年の第一次神川合戦では、上田城に押し寄せる徳川軍の背後をおびやかす城として、綱頼の子、三十郎頼康が籠城・奮戦しています。

現在の矢沢城は公園化されてはいるものの、数個のベンチなどがあるのみで草木は伸び放題、公園と言うよりは休耕中の畑みたいな場所でした。矢沢城そのものは丘陵端に築かれた、比較的小規模で、構造もそれほど複雑なものでないだけに、見学はあっという間に終わってしまいました。丘陵との背後を大きな堀切で断ち切り、数段の曲輪を設けていますが、ところどころに石塁が見られるのが特徴でもあります。

場所は多少分かりにくい場所にあります。矢沢集落の細い道をクネクネと高い方に登っていくと、大日堂があり何体かの石仏が並んでいます。その横に小さく「矢沢城址」の解説板があり、農道のような坂道が延びていますのでそれを10分程度登った場所が目的地です。上田、真田周辺の散策の折には、立ち寄ってみてください。

矢沢集落の最も奥にある大日堂。ここに矢沢城について簡単に書かれた解説があります。この背後の坂道を登ります。 坂道を登りきると、広い曲輪に出ました。
ここは四郭、または帯曲輪と見られる曲輪。 帯曲輪から見る石垣。高さはありませんが、近世城郭を思わせる整った石垣です。
段曲輪のひとつには石組み虎口のような遺構がありました。馬出しの一種でしょうか? 二郭に相当する曲輪には神社があり、その背後にも石垣が見られます。

主郭周囲の石垣。ここは割り石の牛蒡積み、信濃の城郭でところどころで見られる手法と共通したものです。

主郭です。といってもなんだか草は伸び放題だし、木々に囲まれていて、休耕中の畑か、植林地みたいです。一応公園んなんだから、もうちょい何とかして欲しい。

主郭背後の見事な堀切。写真右手に映っているように、堀切にも石組みがあったらしい。 同じく主郭背後の堀切。尾根幅が広いため、横堀のように長く延びて、その先は斜面に落ち込んでいきます。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「上田菅平」ICより車10分。

長野新幹線・しなの鉄道・上田交通「上田」駅よりバス(?)または徒歩50分。

周辺地情報

上田の市街地にある上田城、山城派は戸石城塩田城、真田町の真田本城松尾古城など。周囲の峰には山城だらけなので、ご興味と体力があれば全部廻ってみてください。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「真田戦記」(学研「戦国群像シリーズ」)

別冊歴史読本「戦国・江戸 真田一族」(新人物往来社)

真田町観光課提供資料、上田市観光協会提供資料

参考サイト

上田・小県の城

 

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