武田氏の滅亡とともに、小なりとはいえ独立領主の道を歩み始めた謀将・真田昌幸。とくに沼田領をめぐっては北条氏や徳川氏との間でもつれにもつれ、とうとうブチ切れた家康によって上田城攻撃(第一次神川合戦)などを引き起こしています。結局、この争いは「天下人」秀吉の裁定により「沼田城は北条氏の領土、名胡桃城は真田氏の領土」ということになりました。このときの昌幸の言い分がフルっています。「名胡桃は父祖の墳墓の土地である」ってオイオイ、そんなわけね〜じゃん!とツッコミたくもなるのですが、いかにも昌幸らしい言い分だとは思いませんか?
この名胡桃城は沼田城からは3kmほどの距離で、天気がよければ丸見えの距離。これじゃ、沼田城を守る側から見ればまことに都合が悪い。ついつい攻略したくなってしまう気持ちもわかります。ここで「いっちょ手柄でも立てたるか!」と、ひとりの武者がついついヨケイなことをしてしまいます。北条氏の沼田城代、猪俣邦憲(憲直とも)は、中山城主の一族、中山九郎兵衛という者を言葉巧みにそそのかし、名胡桃城代の鈴木主水にニセモノの真田昌幸の書状を出し、鈴木主水を城外におびき出します。鈴木主水が異変に気づいて名胡桃城に戻ったときにはもう手遅れ、中山九郎兵衛はまんまと名胡桃城を乗っ取ってしまった後でした。鈴木主水は歯噛みして悔しがりますが、もはや腹を掻っ切って果てるしかありませんでした。こうして猪俣邦憲は一見、やすやすと名胡桃城を手に入れて、北条氏にホメてもらうはずでした。
ところが、これを聞いた秀吉は烈火のごとく怒り、北条氏政・氏直に宣戦布告を叩き付けます。もともと氏直は消極的ながらも不戦派で、なんとか秀吉政権との共存の道を探っていたのですが、猪俣と言う、名前どおりのイノシシ武者の軽率な行動で、すべての運命の歯車が狂ってしまいました。
これも秀吉の計略だったのでしょうか?
結局、その名胡桃城の帰属を廻るゴタゴタで、一気に形勢が「北条討伐」に傾き、ひいては秀吉による全国平定に繋がった、という、記念すべき場所です。いわば、歴史を動かした城ですね。「そして今日のその時がやって参りました。」という感じでしょうか。「上杉禅秀の乱」「永享の乱」から百数十年続く、乱れに乱れた関東の動乱の幕引きを演じた場所、かつ秀吉による「日本統一」の演出をした城でもあるわけです。そう考えると感慨深いものがあります。沼田城代の猪俣邦憲だって、まさか自分の行動が北条を滅ぼし、ひいては戦国乱世の終止符を打つことになろうとは思わなかったことでしょう。ごく軽率な行動が大事を招いてしまった、ものすごく極端な例ではないかと思います。
名胡桃城の地勢としては利根川とその支流の断崖絶壁の上に築かれた城で、「崖端城」の典型とも言えます。国道17号が城址を分断してしまっていますが、遺構そのものは発掘・整備が行き届いて、主要な部分は見学しやすい城です。個別の遺構も見所はありますが、やはりこの断崖絶壁をうまく利用した城地選定や沼田城との位置関係が見所になるかと思います。ただ、車を停めるところが丸馬出しの上しかなくて、なんとなく気が引けます。