岩櫃城は山城マニアにとって、また真田ファンにとって、ある種特別な地でもあります。なんといっても見るものを威圧せずにはおかない、断崖絶壁の岩櫃山は一見の価値があります。この山に築かれた難攻不落の要害、岩櫃城は吾妻郡支配の中心地で、真田氏の上州方面への進出にはなくてはならない拠点でもありました。真田氏の祖、真田幸隆の権謀術数によってわずか500の手勢で岩櫃に籠る山内上杉方の斎藤氏を駆逐し、以後廃城まで、真田氏方の重要拠点でした。「謀将・真田幸隆」の面目躍如、といったところでしょうか。しかしこの吾妻計略では、真田幸隆がかつて海野平の合戦で敗れた際、羽根尾城で幸隆らを庇護してくれた羽尾幸全入道ら海野一族との戦となり、幸隆にとっては辛い戦いの日々であったに違いありません。
天正十(1582)年には武田勝頼が竣工してわずか数ヶ月の新府城を焼き払い、滅亡への坂道を転げ落ちてしまいます。そのとき真田昌幸は勝頼に、「岩櫃城に移座するよう」要請しましたが、結局は小山田信茂の居城、岩殿城を目指します。昌幸とすれば、勝頼を迎えるための仮御殿まで造営して待っていたのに、信用されなかった、というところでしょうか。しかし勝頼にとってはこれが運のツキとなってしまい、小山田信茂の離反によりにっちもさっちも行かなくなり、わずか40名ほどを従えて天目山を越えて岩櫃城を目指しますが、田野の地で追撃する織田軍の攻撃により万事休す、武田氏は滅亡を迎えてしまいます。あのときもし、勝頼が岩櫃城に向かっていたら・・・もっとも、後世「表裏比興」と称された真田昌幸のこと、同じような結末を迎えていたかもしれませんが・・・。
さて、岩櫃城は実はこの岩山にあるのではなく、岩山の絶壁に向かって右、東側の尾根筋、というか丘陵に築かれていました。山城、というよりはむしろ平山城、丘城に近い縄張構成を持っており、雰囲気的には後年、武田勝頼の命で真田昌幸が奉行として築城した、新府城などに近いものを感じます。特徴的なのは山全体に廻らされた堀。U曲輪を中心に放射状に伸びる竪堀は出撃路としても使われたといわれ、このお城の攻撃的な面を表しています。しかもこの竪堀と竪堀を繋ぐ横堀や斜面を斜めに横断する「斜め堀」などの存在により、堀が網の目状に伸びていること、この「網の目」の堀が最大の特徴じゃないかと、個人的には思っています。このあたりの技法は類似するお城を挙げよ、といわれても全く思いつかないほど、独創的な縄張りを持っています。また、「天狗の丸」と呼ばれる半独立の出丸と、沢を挟んだ対岸に柳沢城という支城(砦)を持ち、外敵の侵入に対する防御と寄せ手への攻撃の両面を持った、堅固の城でした。
とにかく、ここでしか見られない、という個性的な遺構に満ちたお城です。交通の便という意味では沼田や渋川などの交通の要衝からはやや距離はありますが、吾妻渓谷の風光明媚な景色とあわせて、出かけてみてはいかがでしょうか。
【岩櫃城の構造】
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岩櫃城平面図(左)・鳥瞰図(右)
※クリックすると拡大します。 |
岩櫃城は吾妻街道を直下に見下ろす天険の岩峰「岩櫃山」(▲802m)の山裾が東に延びた先端附近に位置する。標高は594m、直下の平沢集落からの比高差は80m程ながら、吾妻街道からは200m弱の比高差がある山城である。
岩櫃城の本城そのものも非常に独特な思想のもとに構築されているが、この位置も注目に値する。平沢集落は吾妻街道からは「不動沢」沿いの渓谷を標高差にして120mほどを登る隘路(通称「城の坂」)以外にルートが無く、外界からの敵の侵入がきわめて困難な地形である。この隘路自体が侵入困難である上、支城である柳沢城、岩櫃城の出丸に相当する「天狗丸」に挟まれているため、平沢集落にたどり着くことは困難中の困難であるといえる。そして岩櫃城は、この平沢集落をも城域に取り込んで、高原盆地状の平沢集落を防衛するための城郭なのである。ある意味で、盆地の周囲に多数の城砦を並べて盆地全体を防衛しようとした、真田郷のスタイルとよく似ているとも思える。
山崎一氏はこの集落を流れる数条の沢も堀と見做し、平沢集落全体、柳沢城・天狗の丸を含めた広大な範囲を岩櫃城の城域としている。現在は集落内の沢はコンクリートで護岸されており、人工の堀といえるかどうかはわからない。ここでは岩櫃山に繋がる丘陵上の「牙城」を中心に考察する。
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中世観測衛星「えちご」の観測データ。平沢集落の立地の特異性、岩櫃城の防衛構想がよくわかる気がする。※クリックすると拡大します(注1)。 |
岩櫃城の構造は放射状に伸びる竪堀を横堀や斜面に対して斜めに伸びる堀などを用いて連結した構造で、図で見てもわかるとおり極めて特異な構造を持っている。この岩櫃城に似た城というのをすくなくとも自分は知らない。
主要な竪堀は堀1〜6で、とくに南側に伸びる堀1は主郭(T)の東側直下の横堀(堀1A)から発し、数度の屈曲を経て南側のはるか山の下まで竪堀(堀1B)として伸びている。 現在は通路となっている堀4もU曲輪南側の横堀(堀4A)から数度の屈曲を経て竪堀(堀4B)に変化し、V曲輪下の帯曲輪を超えてさらに山麓まで延びている。北側の堀6は一直線に山を下って山麓の横堀11の横矢の真上に至る。堀5に至っては横堀10から派生し、途中でまるで斜坑のような堀7と合流、徐々に勾配が緩くなって横堀状(堀5B)にV曲輪群の下を通り、さらに北に向きを変えて急角度の竪堀(堀5C)となって山麓の横堀(堀5D)に達する合流する。堀2、3はともに南側の山腹を一直線に下っていくが、横堀9によって互いに連結されている。どの堀も一概に「竪堀」とか「横堀」と分類するのが困難なほどである。
このように、岩櫃城の東半分は竪堀と横堀を文字通り縦横に組み合わせることで、他に類を見ない個性的な縄張りとなっている。竪堀・横堀の組合せは武田氏系の城郭ではよく見られる特徴のひとつだが、岩櫃城のような構造は極めて異例である。これらの堀の目的は、山腹を分断する防御遺構として用いられることは勿論だが、それ以上に出撃の際の通路としての色彩が濃い。山崎一氏が指摘の通り、岩櫃城本城の防衛構想はこの堀のネットワークを経由して「討って出る」という攻勢防御思想にある。これを山崎氏は「陽の縄」と解説されているが、的を得た解説だと思う。
これに対して居住空間にあたる曲輪であるが、「居館(いだて)」と呼ばれる主郭T曲輪は山城としては決して小さくはないものの、城域全体からすると意外なほど狭い。南側に長大な帯曲輪を持ち、その下には大規模な横堀8がある。T曲輪の西端には北側と南側にそれぞれ枡形とされる区画があり、北の枡形は「一の木戸」を経て「水曲輪」(X)と結ばれている。「一の木戸」の名称からすれば、この方面が大手であったかもしれない。
第二陣地にあたるU曲輪は放射状竪堀の起点にあたる曲輪であり、実質的には戦闘指揮所に相当する区画であろう。V曲輪は径20mほどの小曲輪東側を扇状に緩斜面が取り巻いている。このV曲輪附近は「中城」と呼ばれるが、周囲の斜面が曲輪として用いられていたかどうかはわからない。
さらに北側には山麓に向かって多くの段切状の曲輪群(W)があるが、植林などによって改変された可能性もあり、ここが曲輪かどうかはなんともいえない。同じく「水曲輪」(X)周辺にも同様の曲輪群とおぼしき段々があるが、これもどこまで曲輪なのかはよくわからない。
ここまでが岩櫃城の主要部だとすれば、この裏手の岩櫃山に向かう尾根筋には岩櫃城の隠し曲輪ともいえる曲輪群がある。その頂部には人工の削平地と思われるY、Zの曲輪群があり、その北側の斜面には狭い段曲輪らしきものと、堀状の構造(堀12、13)がある。この頂部の曲輪は、T曲輪を背後から守ると同時に、烽火台などとして用いられたものであろう。北側の狭い曲輪群は曲輪なのかどうかは判断できないが、ここも城域の一部とすれば、兵を隠しておくスペースだったのではないだろうか。「陽の縄」とされる岩櫃城だが、ここだけを見れば「極陰の縄」であるとも思える。
このような複雑で個性的な構造を持つ城が誰の手で完成されたのか、どういう思想で構築されたのかは非常に興味深い。
[2004.09.11]
注1:この地図画像の作成にあたっては、DAN杉本さん作成のフリーの山岳景観シミュレーションソフト「カシミール3D」と国土地理院発行の数値地図(1/5万および1/20万)を使用した。また、測量法第30条に基づき、国土地理院に申請し、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図50000(地図画像)および数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平15総使、第342号)
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