謙信の関東出撃路を確保する

長井坂城

ながいざかじょう Nagaizaka-Jo

別名:

群馬県勢多郡赤城村棚下

(関越道長井坂トンネル真上)

城の種別

崖端城

築城時期

永禄三(1560)年頃

築城者

上杉謙信

主要城主

上杉氏、真田氏、白井長尾氏、猪俣氏

遺構

曲輪、土塁、空堀、馬出し、虎口

沼田街道が貫く追手門付近<<2002年08月13日>>

歴史

永禄三(1560)年の上杉謙信の関東出陣の際にこの地に着陣したのが始まりとされる。三国峠を越えた謙信は小川城、名胡桃城等を攻略、沼田城攻略にあたり、沼田を迂回し白沢、越生を通り 長井坂に着陣し、北条勢は退路を断たれる事を危惧し撤退、沼田城主の沼田顕泰は孤立し、長井坂の陣に謙信を訪れ和睦した。その後、十三回とも十五回とも言われる謙信の関東出陣の際には、沼田城から厩橋城の間を繋ぐ拠点として整備された。

天正八(1580)年八月、武田勝頼配下の真田昌幸により攻略され、白井長尾氏に属する牧弥六郎、須賀加賀守を追ったが、武田氏滅亡後の天正十(1582)年十月、武蔵鉢形城主の北条氏邦が五千騎を率いて囲み、城将の恩田越前守、下沼田豊前守は奮戦の後脱出した。長井坂城には猪俣邦憲が入り沼田城攻略の最前線となった。

恒例行事のように繰り返された謙信の関東出陣。その軍旅の中継点として築かれたのがこの長井坂城です。久々の謙信ゆかりの城、ということで、結構楽しみにして行きました。普段どうしても近場中心の城攻めをしているため、僕のことを里見氏や千葉氏、北条氏のファンだと思っている人もいると思いますが(それはそれで好きなんですが)、やっぱりルーツと言うか、「心のお屋形様」というか、もともと城めぐりをはじめたキッカケが「謙信ゆかりの城をこの目で見たい」ということだったので、この長井坂城も早く行きたい城の一つでした。とくに、僕はイナカに帰る際に毎回長井坂城を貫く「長井坂トンネル」を通っていたので、城の下を潜るたびに「ああ、早くここに行きたい」と思いつづけていました。で、行ってみてわかったのは「・・・これは北条の城ではないか?」そう、築城は謙信でも、後に北条氏が沼田城攻めのために整備したため、残る遺構を見る限りは「北条流そのもの」という印象でした。特に、沼田街道を城の縄張りの中に取り込んでしまうやり方は、北条が山中城足柄城、御坂城などでやっているのと同じパターンです。まあ謙信が築城した時代から、軍道確保のための城であったので、この沼田街道は縄張りの一部であったのでしょうが、やはり現在見る形で完成させたのは北条氏の築城術を取り入れてからでしょう。

謙信の時代の後は北条勢の白井長尾氏の配下となり改修されたそうで、白井城と共通する雰囲気が(城地の地形を含め)そこはかとなく漂います。城代として猪俣邦憲(憲直)が置かれたそうで、その後の真田氏との沼田城争奪の最前線となります。この猪俣邦憲なる人物こそ、後に沼田城代となり、真田領名胡桃城の鈴木主水をたばかって名胡桃城を奪取、激怒した秀吉によって「小田原の役」が勃発したという、ごく軽率な行動から関東にとって図らずも歴史を動かしてしまったという人物です。直接この長井坂城と関係するエピソードではありませんが、そんな人物が在城したことがある、というのは面白いですね。

といういうわけで、残念ながら謙信との関わりを感じることはあまりできませんでしたが、そのかわり遺構そのものや前述の街道を取り込んだ縄張り、そして何よりも比高200mに及ぶ崖に面した、天嶮そのものの地形など、実に見所の多い素晴らしい中世城郭でした。西を利根川の断崖絶壁、北も永井川の深い谷に面した、典型的崖端城です。主郭の崖は「これ、落ちたら命は無いな・・・」という非常に急峻かつ深い崖。かなり崩落しているようでした。見た感じ、現在でも崩落が続いているようで、この手の誰でも来れる城跡としちゃ抜群にアブナイです。端っこには近寄らない方がいいかも知れません。この崖の上の台地は意外なほど広々した平坦地になっていて、こちらは三重に施した堀と土塁によって防御されます。主郭と二郭の間の堀底道がそのまま沼田街道になっていて、前述のとおり街道そのものを縄張りに取り入れた典型的番城でもあります。主郭の枡形虎口や三郭の崖端の虎口、高い土塁に深い堀など、個々の遺構も見所が多い城です。主郭南側の堀切付近には馬出しとも、突出陣地とでも呼べるような、特徴的な曲輪があります。片側を高い土塁、もう片側を堀切で分断されたもので、街道監視の関所みたいな機能があった曲輪なのでしょうか?なかなか個々の遺構の解釈は難しい城です。

 

Nawabari.jpg (57348 バイト)

縄張り図<<サムネイル・現地解説板より>>

関越道の永井橋からオンボードカメラで見る長井坂城。城址保護のためトンネル化されています。いつも通るたびに気になっていました。こうして見ると何の変哲も無い台地のようですが、実は超断崖絶壁の上だったのです。 県道255号、「棚下不動滝」付近の光景。赤城山の裾野が利根川に浸食されて、延々と続く、すさまじい断崖絶壁を作り出しています。長井坂城はこのさらに北側ですが、ほぼ同じような地形です。

利根川の渓谷沿いの県道255号から急坂の旧沼田街道を登る。この「長い坂」が地名の由来か??

草に埋もれた「長井坂城跡」の標柱が建つ三郭虎口の土塁。左は堀、右は崖端の典型的崖縁入路。

こちらは花に埋もれれた「三ノ丸跡」の標柱。二郭を包み込むように外郭線をかたどっています。

二郭の堀と土塁。堀は畑の中に埋もれていますが、よく旧状を留めています。土塁は高く、特にこの写真付近は櫓台だったかもしれません。

高い土塁に囲まれた二郭。こちらも農地化していますがほぼ旧状を留めています。農地なので見学の際は注意が必要です。

二ノ丸の虎口付近の土塁上に建つ城址碑と解説板。縄張り図もありなかなか親切です。この写真の右下の堀底を沼田街道が貫通しています。

街道に面した馬出し曲輪。「馬出し」と言う表現が適切なのかどうかは疑問ですが、街道交通を監視する機能を持った曲輪の一つでしょう。

「南雲宿へ」「森下宿へ」と書かれた旧沼田街道の標柱。なんといってもこの城の立地を決定的にしているのはこの沼田街道の存在でしょう。

追手口(大手口)付近を貫通する沼田街道。堀底道になっていて、城の構造も複雑です。

追手口付近の堀底道は非常に深いです。

これが追手付近の構造。左を沼田街道が貫通、手前に堀切があり、一段の曲輪と高い土塁。これがどういう意味を持つ構造なのか不思議ですが、主郭から突出して街道を押さえる、ある種の突角陣地でしょうか?

主郭南の堀切。規模も大きく状態も良好です。この写真の左手が左写真の陣地です。主郭の北側にも同じような堀切があります。

主郭の東を沼田街道が走ります。これは街道に面した横矢。主郭の真下を街道が貫通すると言うのは考え様によっちゃかなり無用心な気はします。

主郭より一段低く、街道より一段高い場所、やはり枡形の一種と捉えるべきなのでしょうか?どうもこの城の遺構は解釈が難しいなあ。

街道に面した主郭の土塁。主郭の三方の土塁もいい状態で残っています。もう一方は天嶮の急崖。

主郭の西はシャレにならない急崖。落ちたらタダじゃすみません。見学の際は充分に気をつけましょうね。

城の北側に位置する永井川が織り成す深い谷。関越自動車道を俯瞰できます。いつも通っている道をこんな風に見るのは新鮮です。昔、謙信の軍道、今は僕の帰省の道・・・。

永井川の谷の対岸から長井坂城を見る。見れば見るほど天嶮の地形。城もさることながら、ここに架かる高速の「永井橋」も圧巻です。

いつも通ってる高速道路の永井橋、上からじゃどうってことはない道路なんですが、下から見ると実に圧巻の高さでした。人間の叡智の結晶、「プ○ジェクトX」みたいな言葉が頭に浮かんできました。

 

交通アクセス

JR上越線「岩本」駅徒歩40分。

関越自動車道「赤城」ICまたは「昭和」ICより車20分。

周辺地情報

沼田城が関係が深いです。白井城もオススメです。 

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「真田戦記」(学研「戦国群像シリーズ」)、現地解説板

参考サイト

武田調略隊がゆく

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