「謙信一夜城」、素晴らしい名前じゃないですか!この下総で謙信公の築いたお城に触れられる、なんていうのは、とても貴重なことです。
この謙信の臼井城攻めは、永禄七(1564)年などの説もあり、また臼井城を守る城主も『関八州古戦録』では原上野介胤繁、『小田原北条記』では原式部大輔胤貞となっており、名軍師の名も臼井四郎左衛門入道浄三、白井入道、臼井長門守胤定など、一定していません。年代は永禄九(1566)年が正しいだろう、といわれていますのでここではそれに従いました。
しかし、この謙信一夜城、今ではすっかり小奇麗な新興住宅地の中に埋もれてしまい、「一夜城公園」という名前こそ残るものの、遺構は全くなく、ごく小さな、なんの変哲もない住宅地の公園になってしまいました。かつては方形の堀や土塁なんかもあったというんですが、現状ではヤケに立派な石碑が建つほかは、目立つものはありません。最初は陣城といっても、ある程度見晴らしの良い、地勢の高いところに築くだろうと思い、台地の上部から探し始めたのですが、同じような方形の小公園がたくさんあって、なかなか見つからずに苦労しました。やっと見つけてみると、台地の上どころかむしろ麓に近い中腹で、臼井城から1kmという、陣城としては尋常ではない近さもあって、「ホントにここが謙信の陣城なの?」と疑問に思わないでもありません。まあ、それじゃ夢が無いので、ここでは謙信公の陣城だった、ということにしましょう。
結局、謙信も臼井城を抜くことはできず、撤退してしまいますので、謙信公にとってはある意味「不名誉な遺跡」ですが、それだけ臼井城が堅城であった、と見ることもできます。子供のころから三間四方もある城攻めの玩具で遊んだ、という謙信公も、結局この一夜城を引き払って越後に帰ってゆくのでした。