謙信公も名城臼井は抜けず

謙信一夜城

けんしんいちやじょう Kenshin-Ichiya-Jo

別名:

千葉県佐倉市王子台

(一夜城公園)

城の種別 陣城

築城時期

永禄九(1566)年

築城者

上杉謙信

主要城主

上杉謙信

遺構

なし

一夜城公園<<2003年03月21日>>

歴史

永禄九(1566)年三月、上杉謙信が臼井城に立て籠もる原胤貞を攻撃するために築いた陣城と伝わる。臼井城には原式部大輔胤貞ほか、千葉胤富から送られた援軍や、北条氏から派遣された松田孫太郎らが援軍として立て籠もり、臼井四郎左衛門入道浄三(臼井長門守胤定、白井入道とも称される)が軍師として籠城した。上杉軍は四月二十日未明、片野城主・太田三楽斎資正らが先陣、越後本庄城主・本庄越前守繁長を第二陣として攻め込んだが、臼井入道の采配で討って出た原式部少輔胤成、高城下総守胤長らが奮戦、また松田孫太郎、佐久間主水正らも奮戦、上杉軍は臼井城を攻めあぐね、夕刻に大雨となり上杉軍は引き上げた。翌日、城内が静まり返っているのを見た上杉軍は館林城主・長尾新五郎顕長らが一斉攻撃をかけ、「実城堀一重」まで攻め寄せたが、このとき城壁が大音響とともに崩れ、寄せ手の多くが巻き込まれて圧死したという。謙信は一旦兵を引き上げようとしたが、松田孫太郎らが追い討ちをかけて上杉軍は甚大な被害を出した。この時、厩橋城代の北条丹後守長国(高広)、越後新発田城主・新発田因幡守治長らが殿軍として奮戦し、松田勢も多大な損害を出したという。上杉軍は戦況の不利を悟り、上州に撤退したという。

謙信一夜城」、素晴らしい名前じゃないですか!この下総で謙信公の築いたお城に触れられる、なんていうのは、とても貴重なことです。

この謙信の臼井城攻めは、永禄七(1564)年などの説もあり、また臼井城を守る城主も『関八州古戦録』では原上野介胤繁、『小田原北条記』では原式部大輔胤貞となっており、名軍師の名も臼井四郎左衛門入道浄三、白井入道、臼井長門守胤定など、一定していません。年代は永禄九(1566)年が正しいだろう、といわれていますのでここではそれに従いました。

しかし、この謙信一夜城、今ではすっかり小奇麗な新興住宅地の中に埋もれてしまい、「一夜城公園」という名前こそ残るものの、遺構は全くなく、ごく小さな、なんの変哲もない住宅地の公園になってしまいました。かつては方形の堀や土塁なんかもあったというんですが、現状ではヤケに立派な石碑が建つほかは、目立つものはありません。最初は陣城といっても、ある程度見晴らしの良い、地勢の高いところに築くだろうと思い、台地の上部から探し始めたのですが、同じような方形の小公園がたくさんあって、なかなか見つからずに苦労しました。やっと見つけてみると、台地の上どころかむしろ麓に近い中腹で、臼井城から1kmという、陣城としては尋常ではない近さもあって、「ホントにここが謙信の陣城なの?」と疑問に思わないでもありません。まあ、それじゃ夢が無いので、ここでは謙信公の陣城だった、ということにしましょう。

結局、謙信も臼井城を抜くことはできず、撤退してしまいますので、謙信公にとってはある意味「不名誉な遺跡」ですが、それだけ臼井城が堅城であった、と見ることもできます。子供のころから三間四方もある城攻めの玩具で遊んだ、という謙信公も、結局この一夜城を引き払って越後に帰ってゆくのでした。

一夜城公園の虎口(って絶対違う!)。公園は一辺が100m弱くらい。果たしてここに謙信公は着陣していたのだろうか・・・?はなはだ心許ない・・・。

「一夜城公園」といういかめしい名前の割にはどこにでもあるごくフツーの公園。ここで遊んでるガキんちょお子様も、ここが上杉謙信が築いたお城だなんて言っても信じないだろうな。

「一夜城史跡」と刻まれた立派な石碑。この石碑だけが、ここが謙信公の陣城であることを主張しているかのようです。

石碑の裏側には、「謙信一夜城の由来」なる銘文が刻まれていますが、「一夜城の由来」っていうよりも、謙信公の人物像そのものじゃん、て感じでした(^^;)

 

 

交通アクセス

東関東自動車道「佐倉」ICより車10分。

京成本線「京成臼井」駅徒歩3分。

周辺地情報

ますは臼井城。佐倉市内では佐倉城、近隣市町村では本佐倉城師戸城などがオススメです。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「関八州古戦録 原本現代訳」(ニュートンプレス)、「小田原北条記 原本現代訳」(ニュートンプレス)、『臼井城をめぐる攻防戦』(祖田浩一/「戦国の房総を語る」収録、房総歴史文学会/暁印書館)、現地石碑

参考サイト

余湖くんのホームページ

 

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