享徳三(1454)年、関東公方・足利成氏が管領・上杉憲忠を殺害したことに端を発する「享徳の大乱」で、古河に移った関東公方・足利成氏の命を受けて、甲斐守護職武田信満の次男、信長が上総に進出し、真里谷城・庁南城の二城を築き、上総経営の拠点とした。それ以前に千葉氏一族の庁南氏が館を築いていたとも言われるが定かではない。上総武田氏二代信高の子(信長の孫)、道信が城主となり、庁南武田氏五代の居城となった。
同族の真里谷城主の真里谷武田氏は、「小弓公方」足利義明を迎え入れ上総から下総南部に勢力を張ったが、一族の内紛や天文七(1538)年の第一次国府台合戦の敗北によって衰えた。天文年間は里見氏に属していたと考えられる。しかし、永禄七(1564)年の第二次国府台合戦で里見氏は大敗し一時的に上総方面の支配力を失い、万木城の土岐為頼らが里見氏から離反する中で、五代武田豊信(甲斐武田信玄三男)にも北条氏からの調略の手が伸び、天正二(1574)年頃には北条氏に属していたと考えれらる。天正五(1577)年の里見氏・北条氏の同盟後は池和田城の在番を命じられたりもしている。
天正十七(1589)年、豊臣秀吉が小田原攻めの姿勢を明確にすると、先手を打って里見氏を討とうとする北条氏直は関八州の諸氏に陣触れを発し、万木城主・土岐頼春もこれに応じたが、庁南城五代城主の豊信(信栄)は万木城の備えが薄くなった虚を衝いて攻めかかった。しかし、万木支城からの援兵に後方を衝かれ敗退した。天正十八(1590)年の小田原の役では北条氏に属したが、浅野長政、本多忠勝らの房総別働隊に攻められ落城、豊信は自刃したともいずこかへ落ち延びたとも言われる。