上総武田氏「もうひとつの」の本拠

庁南城

ちょうなんじょう Chounan-Jo

別名:長南城

千葉県長生郡長南町長南

城の種別

平山城(丘城)

築城時期

康正二(1456)年

築城者

武田信長

主要城主

庁南武田氏

遺構

曲輪、堀切

主郭部と比定される太鼓森<<2002年03月10日>>

歴史

享徳三(1454)年、関東公方・足利成氏が管領・上杉憲忠を殺害したことに端を発する「享徳の大乱」で、古河に移った関東公方・足利成氏の命を受けて、甲斐守護職武田信満の次男、信長が上総に進出し、真里谷城庁南城の二城を築き、上総経営の拠点とした。それ以前に千葉氏一族の庁南氏が館を築いていたとも言われるが定かではない。上総武田氏二代信高の子(信長の孫)、道信が城主となり、庁南武田氏五代の居城となった。

同族の真里谷城主の真里谷武田氏は、「小弓公方」足利義明を迎え入れ上総から下総南部に勢力を張ったが、一族の内紛や天文七(1538)年の第一次国府台合戦の敗北によって衰えた。天文年間は里見氏に属していたと考えられる。しかし、永禄七(1564)年の第二次国府台合戦で里見氏は大敗し一時的に上総方面の支配力を失い、万木城の土岐為頼らが里見氏から離反する中で、五代武田豊信(甲斐武田信玄三男)にも北条氏からの調略の手が伸び、天正二(1574)年頃には北条氏に属していたと考えれらる。天正五(1577)年の里見氏・北条氏の同盟後は池和田城の在番を命じられたりもしている。

天正十七(1589)年、豊臣秀吉が小田原攻めの姿勢を明確にすると、先手を打って里見氏を討とうとする北条氏直は関八州の諸氏に陣触れを発し、万木城主・土岐頼春もこれに応じたが、庁南城五代城主の豊信(信栄)は万木城の備えが薄くなった虚を衝いて攻めかかった。しかし、万木支城からの援兵に後方を衝かれ敗退した。天正十八(1590)年の小田原の役では北条氏に属したが、浅野長政、本多忠勝らの房総別働隊に攻められ落城、豊信は自刃したともいずこかへ落ち延びたとも言われる。

上総武田氏については研究中で、まだまだ分からないことも多く、また伝承と史実が不分明な上、文書や軍記物など、書物によって人名もまちまちで、どれが本当の話なのかわからないようなのが沢山あります。上記に記した歴史についても、今後訂正する可能性も大です。

庁南城が築かれた場所は小丘陵が延々と続く一角で、とくに要害という印象は受けず、かといって河川や街道の要衝というわけでもなさそうで、真里谷城と同じくここに築城する理由がよくわかりません。主郭と比定される場所はさすがに周囲に比べて地勢も高く、曲輪の周りに削崖を設けてそれなりに堅固になっていますが、それにしてもこの程度の地形であれば、ほかにもっと領国統治と勢力拡張に便のいい場所はあったと思うのですがどうでしょう?

遺構は前述の削崖と堀切、小規模な曲輪が点々としていますが、一つ一つの規模はあまり大きくはなく、技法的にもとくに関心を引く場所はありませんでした。それよりもむしろ、太鼓台の丘を中心として、周囲の丘陵を取り込んで、広大な城域を確保していることの方が関心を引きます。これは尾根に囲まれた盆地状の田んぼの中に、館をはじめとした主要部があったに違いない、と思ったところ、「長生の城」(小高春雄)によれば、この盆地である「字中城」、および現在「長久寺」が建つ谷津状の地を中心に、付近の丘陵一帯を取り込んだ、規模の大きい城郭であったようです。自分が見学した範囲以外にも更に広く、多くの遺構があるようです。庁南武田氏は天正十八年時点で「千五百騎」という大きな動員力を持っていた勢力であり、表面的には遺構に乏しく見えるこの庁南城も、実はその勢力にふさわしい規模であったようです。

太鼓台と呼ばれる高台。物見にあたります。従来はこの太鼓台周囲の丘陵のみが城地と比定されていましたが、現在では周囲の丘陵を含む広い範囲を城域と考えるのが一般的なようです。 太鼓台の奥の削平地にある妙見社。これがあるということは、やはり千葉氏の一族の築城、ということか?

妙見社よりさらに一段高い曲輪が主郭と比定されていますが、ただの草むらです。削崖に面して尾根を削り残した土塁があり、間違いなく武田氏の築城様式を踏襲しています。 主郭背後の大堀切。堀切は小規模なものはいくつかあるようですが、これはおそらく最大規模のもの。周囲が削崖で垂直に近い崖なので、迂回しないとたどり着くことができません。

中城を囲むための重要な要素である中城北側の痩せ尾根は無残にも分断されていました・・・。福祉施設が建つらしいので、我慢するか・・・。 六郷谷の丘と中城の平坦地。左の写真の尾根と六郷谷の丘に囲まれたこの平場が城内主要部だとすれば、一見要害性の低いこの城地選定も納得できます。この丘にも多くの腰曲輪状の削平地があるそうですが、見てません。

大手と比定される西谷付近。おそらく周囲を泥田堀などで囲まれていたことでしょう。この痩せ尾根には堀切があまりないのですが、尾根を土塁替わりに使っていたとしたら、堀切なんか無い方が敵の侵入を防げるわけです。 長久寺付近が城主の館に比定されています。その意味では「中城」よりもこの附近が主要部なのでしょう。この背後の丘にも小規模な削平地が散在していました。 

 

 

交通アクセス

JR外房線「茂原」駅よりバス

千葉外房有料道路「茂原」より車30分

周辺地情報

距離的に近いのは池和田城、ちょっと交通の便が苦しいが、もうひとつの武田氏本拠、真里谷城も見ておきたい。

関連サイト

 

 
参考文献 「房総の古城址めぐり(上)」( 府馬清/有峰書店新社)、「長生の城」(小高春雄)、「房総武田物語」(府馬清/昭和図書出版)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)ほか

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭

 

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