すぐ近くに同じ読み方の「おゆみ城」があります。ややこしいのでここで紹介している城を「生実城」、足利義明が御所を置いた古城を「小弓城」と記載します
急速に発展する千葉市内らしく宅地化が進んでおり、ここも小弓城や亥鼻城と同じく、表面的な遺構はあまり期待できない場所です。それでも当時の湿地帯の名残を残す弁天池や、生実神社そばの巨大な空堀などに辛うじて当時を偲ぶことができるかな?という程度です。
小弓城も「要害」という言葉とは結びつかなかったのですが、こちらはもっと結びつかない。宅地化による地形の変化や、周辺を湿地帯が覆っていたであろうことを考慮しても、わざわざ原氏が小弓城を廃して新城を築城した理由がよくわかりません。反対に、近世の陣屋としては適度に要害な上、上総方面への交通を押さえる場所としては最適だったでしょう。原氏がここに築城した時代はこうした交通経済よりも、里見氏や越後上杉氏などの勢力にモロに対峙しなければならなかった時期であり、非常に不可解に感じます。
関東の歴史に咲いたアダ花「小弓公方」足利義明、隠れた実力者「原氏」らの活躍した場として、小弓城とともに「関東史の一コマ」を語る場所です。遺構の残存度合いも上記の程度なので、遺構を見にいくよりは、その「一コマ」に触れてみる程度の気持ちで行くほうが良いでしょう。願わくば、残った遺構を大切に将来に残して欲しいところです。
<<追記:2003年02月16日>>
2002年に刊行された「図説房総の城郭」の「生実城・小弓城」の項によりますと、この生実城の発掘調査結果から、十五世紀の遺物が多量に出土し、年代比定に見直しがされているようです。以下、多少長いですが引用します。
「(前略)生実城跡の発掘調査の成果から、戦国期では十五世紀後半のものから遺物が急増することが明らかになっている。更にこの時期から儀式・儀礼用の土器であるカワラケの出土量も多く、ここが十五世紀後半段階から拠点的城郭であったといえる。したがって、当初、南の小弓城に原氏の居城があり、足利義明滅亡後、新たに北の生実城を取り立てたとする説は見直す必要がある。初めから原氏の居城は生実城にあり、小弓公方もここに入ったと考えるべきである。(後略)」(「図説房総の城郭」千葉城郭研究会/国書刊行会 P.73、梁瀬裕一氏項より抜粋引用)