原氏と里見勢、激突の最前線

生実城

おゆみじょう Oyumi-Jo

別名:北生実城、北小弓城、森川陣屋

千葉県千葉市中央区生実町

城の種別 平山城(丘城)

築城時期

天文七(1538)年    

築城者

原胤清

主要城主

原氏、森川氏

遺構

土塁、空堀

弁天池越しに重俊院と北生実城遠景<<2002年01月13日>>

歴史

千葉氏が亥鼻城を築城するとほぼ同時に、上総方面への守りとして小弓城も築かれ、応永年間(1394〜1428年)から千葉兼胤の弟・原四郎胤高が居城して以来、原氏累代の城となった。

永正十四(1517)年、真里谷城主武田信保は古河公方に対抗し、足利高基の弟、義明を擁立し原胤隆の小弓城を攻撃、翌永正十五(1518)年に奪取する。こうして南関東に「小弓公方」と呼ばれる勢力が形成される。以後長く小弓城一帯は古河公方・北条氏・千葉氏・原氏らの勢力と小弓公方足利義明・上総武田氏・里見氏らの最前線として緊迫状態に置かれる。しかし天文七(1538)年の第一次国府台合戦で小弓公方は討ち死にし、上総・安房勢力は南に退く。原胤清は小弓城を奪還したが、北方1kmほどの台地上に新たにこの生実城(北生実城)を築いて移転した。しかし永禄四(1561)年、里見氏の家臣・正木時茂らにより再度攻略されている。永禄七(1564)年の第二次国府台合戦で勝利した北条勢に着いていた原胤貞は正木勢を放逐しふたたび生実城に戻るが、元亀二(1571)年にまた里見勢に追われ、原胤栄は臼井城に退去した。

天正十八(1590)年の小田原の役では徳川勢の酒井家次により原胤栄は討たれ落城。その後は西郷家員五千石を経て寛永四(1627)年、森川重俊一万石が配され、城地の一部を利用して廃藩置県まで十三代に渡り陣屋支配が行われた。森川重俊は徳川二代将軍秀忠の死に際し、殉死第一号となった。

すぐ近くに同じ読み方の「おゆみ城」があります。ややこしいのでここで紹介している城を「生実城」、足利義明が御所を置いた古城を「小弓城」と記載します

急速に発展する千葉市内らしく宅地化が進んでおり、ここも小弓城亥鼻城と同じく、表面的な遺構はあまり期待できない場所です。それでも当時の湿地帯の名残を残す弁天池や、生実神社そばの巨大な空堀などに辛うじて当時を偲ぶことができるかな?という程度です。
小弓城も「要害」という言葉とは結びつかなかったのですが、こちらはもっと結びつかない。宅地化による地形の変化や、周辺を湿地帯が覆っていたであろうことを考慮しても、わざわざ原氏が小弓城を廃して新城を築城した理由がよくわかりません。反対に、近世の陣屋としては適度に要害な上、上総方面への交通を押さえる場所としては最適だったでしょう。原氏がここに築城した時代はこうした交通経済よりも、里見氏や越後上杉氏などの勢力にモロに対峙しなければならなかった時期であり、非常に不可解に感じます。
関東の歴史に咲いたアダ花「小弓公方」足利義明、隠れた実力者「原氏」らの活躍した場として、小弓城とともに「関東史の一コマ」を語る場所です。遺構の残存度合いも上記の程度なので、遺構を見にいくよりは、その「一コマ」に触れてみる程度の気持ちで行くほうが良いでしょう。願わくば、残った遺構を大切に将来に残して欲しいところです。

<<追記:2003年02月16日>>

2002年に刊行された「図説房総の城郭」の「生実城小弓城」の項によりますと、この生実城の発掘調査結果から、十五世紀の遺物が多量に出土し、年代比定に見直しがされているようです。以下、多少長いですが引用します。

「(前略)生実城跡の発掘調査の成果から、戦国期では十五世紀後半のものから遺物が急増することが明らかになっている。更にこの時期から儀式・儀礼用の土器であるカワラケの出土量も多く、ここが十五世紀後半段階から拠点的城郭であったといえる。したがって、当初、南の小弓城に原氏の居城があり、足利義明滅亡後、新たに北の生実城を取り立てたとする説は見直す必要がある。初めから原氏の居城は生実城にあり、小弓公方もここに入ったと考えるべきである。(後略)」(「図説房総の城郭」千葉城郭研究会/国書刊行会 P.73、梁瀬裕一氏項より抜粋引用)

森川氏の菩提を弔っている重俊院。森川重俊は二代将軍・秀忠の死に際して殉死したらしい。 重俊院裏手には、森川氏代々の墓所があります。江戸初期から廃藩置県まで、十三代も続いた珍しい藩です。

変わり果てた本丸。解説板があります。新興住宅地の中にぽつんと残った小さな公園です。 生実神社わきには深い空堀と、神社を取り巻くように土居が残ります。北生実城唯一のはっきりした遺構か。
大手門跡の碑などもあるようですが、場所が不明な上、「碑だけ見ても」と思い帰りました。碑の周りには土塁もあるらしいのですが、残存状況はあまりよくないようです。

 

 

交通アクセス

京葉道路「蘇我」IC車5分。

京成千原線「学園前」駅徒歩10分。 

周辺地情報

小弓御所の活躍した小弓城が南1.2kmほど。ただし遺構は少ない。

関連サイト

 

 
参考文献 「房総の古城址めぐり(上・下)」( 府馬清/有峰書店新社)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会)、『史跡をたずねて 千葉市南部 生実周辺』(宍倉健吉、「千葉県の歴史19」/千葉県 に収録)ほか

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭千葉氏の一族

 

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