上総を席捲した真里谷武田氏の栄華盛衰

真里谷城

まりやつじょう Mariyatsu-Jo

別名:

千葉県木更津市真里谷

城の種別

山城

築城時期

康正二(1456)年頃

築城者

武田信長

主要城主

真里谷武田氏

遺構

曲輪、堀切、虎口、土塁

本丸千畳敷<<2002年03月16日>>

歴史

享徳の大乱勃発後、関東公方・足利成氏の命を受けて、甲斐守護職武田信満の次男、信長が上総に進出し、真里谷城庁南城の二城を築き、上総経営の拠点とした。三代信興からは真里谷氏を称した。真里谷武田氏は本城の真里谷城を中心に、椎津城、笹子城、峰上城佐貫城造海城大多喜城池和田城久留里城などの支城網を築き、上総中部から西部一帯を支配した。

文明十(1479)年、太田道灌が武蔵赤塚城、武蔵石浜城に逃れていた千葉自胤、実胤を助け、古河公方・足利成氏や長尾景春と結んでいた千葉孝胤を討つべく臼井城に布陣した際、周辺諸城の後詰を断つために太田図書資忠らの別働隊が真里谷城庁南城・飯沼城を攻め、真里谷城主の信興は開城・降伏して太田軍に寝返った。

五代信保(入道恕鑑)は、養老川河口方面、市原郷から北方の下総方面へ進出を図ったが、上総・下総の国境に近い小弓城の原氏と対立し、度々敗戦した。そのため、古河公方・足利政氏の次男で当時出家し、会津黒川城に寄食していた足利義明を永正七(1510)年還俗させ、総大将として小弓城を攻めた。足利義明は当初は父・政氏と対立し、のちに嫡子の高基が政氏を下野小山城武蔵岩槻城に追ってからは兄の高基と対立し、永正十五(1518)年に原氏を追って小弓城に入城し小弓公方を称して房総一円に勢力を張った。信保は「公方」義明の「小弓管領」として仕えたが、里見氏の内乱の処置を廻って次第にその関係が険悪化、天文三(1534)年に憤死した。その跡目相続を廻り嫡子・信応と庶子長男の信隆が対立、義明は信応を助け信隆を真里谷城から追い、信隆とその子信政は椎津城造海城峰上城などで抗戦したが、義明および里見義堯に攻められ、北条氏を頼って武蔵金沢に渡った。天文七(1538)年の第一次国府台合戦で義明が戦死、信隆が真里谷城に復帰するが、天文十二(1541)〜三(1542)年、笹子城・中尾城での内紛が発生、またしても北条氏、里見氏らの介入を許し、真里谷氏は勢力を弱め、上総一円は里見氏と北条氏の草刈場となった。天正十八(1590)年最後の当主・信高のときに豊臣秀吉による北条氏討伐(小田原の役)が勃発、信高は真里谷城を捨て下野の那須氏を頼って落ち延び、真里谷氏は滅亡、真里谷城も廃城となったといわれるが、この頃には真里谷武田氏の本拠はすでに椎津城に移っていて、真里谷城は廃城になっていた公算が大きい。

一時は上総に多くの支城を築き、小弓公方・足利義明を迎えて上総を席捲した真里谷武田氏。このまま義明が関東公方にでもなれば、真里谷氏が関東管領になったことでしょう。しかし、内紛や義明との離反を廻って勢力を落とし、結局は里見氏と北条氏の間で衰退の一途を辿ってゆきます。同じように内乱が勃発した里見氏では、その内乱を契機に力を蓄え、また第一次国府台合戦での敗北も結果から見れば里見氏の都合のいいように推移したのに対し、真里谷氏の場合はその一つ一つがすべて裏目に出てしましました。これも運命というものなのでしょうか。ここで紹介する真里谷城の歴史は、上総を席捲し、栄華を手に掴みかけながら、運命の歯車に弄ばれて滅んでいった上総武田氏の歴史そのものでもあります。

二郭から主郭「千畳敷」にかけてはキャンプ施設になっていて、よく整備されている反面、大堀切周辺などでは地形が多少変わっていると思われます。主郭周辺の充実した遺構が整備された状態で見られるのは嬉しい反面、キャンプ施設や道路で改変されてしまっていることが残念にも感じます。また、キャンプ施設は冬季には閉鎖されているため、「原則的に」立ち入り禁止になってしまうのも問題です。貴重な史跡なんだから、いつでも見れるようにして欲しいもんです。「お前はどうやって入った!?」って?ハハ、それはまたの機会に・・・。

遺構の状態は主郭付近から南方の搦手にかけては非常によく残っております。また上記の如く、一部改変されてはいるものの二郭・三郭周辺や大堀切なども、概ね残っています。それにしても、非常に完成度の高い中世城郭です。上総武田氏をはじめとした房総系城郭では、あまり技巧的な縄張りをみることが出来ないことが多いのですが、この真里谷城は全体の広大な城域や縄張り、各種防御施設の規模、技巧面とも、他の房総系城郭では見られないくらい高レベルのものを感じます。千畳敷の広い曲輪とそれを取り巻く高い土塁、虎口の形状などは、千葉県を代表する本格中世山城と言っても差し支えないでしょう。さすが真里谷武田氏の本拠地です。

しかしよくわからんのがこの立地条件。水運の要である小櫃川からも、主要街道からも離れていて、平地も人家も周囲には殆どありません。見渡す限りの山ばかり。真里谷の集落だって、歩けば一時間はかかるでしょう。確かに標高は周囲の山々よりも高く、防御面では要害とも言えるでしょうが、支配の対象となる民衆も土地も無いこんな山奥を立地に選んだのがよく理解できません。内房と外房の中間点、ということなのでしょうか?でもそれだったら池和田城みたいに養老川流域に作ればいいんだし。あくまで純軍事的観点で選定したんでしょうか?

<追補:2003.1.18>

当サイトともリンクを頂いている、「房総の城郭」管理人のたかしPart3さん主催のオフ会に参加させていただきました。「城山神社」御神体である貴重な「武田三河守坐像」や、激しい藪に恐れをなして見学していなかった三郭(図によっては四郭の標記も)附近の横堀遺構などはかなり見ごたえがありました。この模様はこちらの頁で

主郭千畳敷への虎口。やや光量不足で申し訳ないです。急坂を登ると両側に土塁があり、堀底状の内枡形に出る仕組み。他の武田氏系の城郭では見られない特徴です。

主郭千畳敷の土塁。この土塁の規模も他の武田氏系城郭では見られません。土塁と言うよりは千畳敷削平時の削り残しの尾根を巧みに利用したものですが、この写真の部分は明らかに掻き揚げの土塁。

この千畳敷の広大な曲輪も他では見られない。上総を支配した武田氏の本城に相応しい規模とでも言うべきでしょうか。 千畳敷土塁の上に築かれた展望台。往時は物見の櫓が建っていたことでしょう。展望台はもう一ヶ所、北曲輪付近にあります。

右上の展望台からの光景。見渡す限りの房総の丘陵地帯(というか山)です。何故これほど奥深い山地に築城したのだろう? 南側、搦手方向の尾根筋に段々に削平されている腰曲輪。規模も大きく、いわゆる中世山城の定石の造りですが、築城様式が古い武田氏系城郭としては意外なほど教科書どおりの縄張です。

かなり藪化している搦手道。市原市方面に抜けるのですが、写真では藪のせいで分かりませんが、非常に狭い尾根道で、しかも両側はシャレにならないくらいの急崖。整備すればかなり迫力があるのでしょうが・・・ 真新しい城山神社。城の鬼門除けとして祀られていました。古い神社には武田菱の紋が打ってあったと言うのですが、それらしきものはありませんでした。御神体を拝観しました

キャンプ場ゲートから入ってすぐの場所が大堀切。半端じゃない大きさで、自然の地形によるところが大きいでしょう。車道の反対側も非常に深い堀が見られますが、藪で殆ど見えません。 大堀切から二の曲輪へ向かう堀底状の道。この先には二の曲輪を東西に分断する堀切があります。
キャンプ場ゲートそばの二の曲輪。このあたりはキャンプ場造営に伴いかなり地形が改変されているようで、正確な遺構の範囲は確認できません。 二の曲輪を東西に分断する堀切。この東の曲輪を二郭、西の曲輪を三郭と標記する場合もあります。このサイトでも以前はそうでしたが、ふたつの曲輪群をまとめて「二郭」とすることにします。

うわちゃ〜!凄い藪で入る気がしない三の曲輪。この先には堀切があるはずなのだが・・・・(行ってきました 真里谷城全景。周囲は山と入り組んだ谷ばかりで、ベストな撮影ポジションが得られず。標高160mほど、この周囲の丘陵地帯の中では最も高い標高です。
キャンプ場のお陰で主郭千畳敷付近の整備がされている反面、二の曲輪周囲や大堀切は明らかに改変されていて、ちょっと残念。それよか、夏場しかキャンプ場に入れないのは何とかして欲しい。そんじょそこらにないくらいの貴重な史跡なんだから、もっと多くの人の目に触れたほうがいいように思うのですが僕だけでしょうか?

 

交通アクセス

館山自動車道「木更津北」ICより車30分

JR久留里線「馬来田」駅より徒歩90分

周辺地情報

本文中で紹介したように市原市〜君津市方面にかけては多くの支城網があります。おすすめは久留里城です。

関連サイト

 

 

参考文献

「房総武田物語」(府馬清/昭和図書出版)、「房総の古城址めぐり(上)」( 府馬清/有峰書店新社)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)、「新編戦国房総の名族」(大衆文学研究会千葉支部/昭和図書出版)、「さとみ物語」(館山市立博物館)、「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」(川名 登/図書刊行会)、「久留里城誌」(久留里城再建協力会)、「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会)、『真里谷「新地」の城について』(小高春雄・「千葉城郭研究三号」収録/千葉城郭研究会)、現地解説板ほか

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭

 

 

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