一時は上総に多くの支城を築き、小弓公方・足利義明を迎えて上総を席捲した真里谷武田氏。このまま義明が関東公方にでもなれば、真里谷氏が関東管領になったことでしょう。しかし、内紛や義明との離反を廻って勢力を落とし、結局は里見氏と北条氏の間で衰退の一途を辿ってゆきます。同じように内乱が勃発した里見氏では、その内乱を契機に力を蓄え、また第一次国府台合戦での敗北も結果から見れば里見氏の都合のいいように推移したのに対し、真里谷氏の場合はその一つ一つがすべて裏目に出てしましました。これも運命というものなのでしょうか。ここで紹介する真里谷城の歴史は、上総を席捲し、栄華を手に掴みかけながら、運命の歯車に弄ばれて滅んでいった上総武田氏の歴史そのものでもあります。
二郭から主郭「千畳敷」にかけてはキャンプ施設になっていて、よく整備されている反面、大堀切周辺などでは地形が多少変わっていると思われます。主郭周辺の充実した遺構が整備された状態で見られるのは嬉しい反面、キャンプ施設や道路で改変されてしまっていることが残念にも感じます。また、キャンプ施設は冬季には閉鎖されているため、「原則的に」立ち入り禁止になってしまうのも問題です。貴重な史跡なんだから、いつでも見れるようにして欲しいもんです。「お前はどうやって入った!?」って?ハハ、それはまたの機会に・・・。
遺構の状態は主郭付近から南方の搦手にかけては非常によく残っております。また上記の如く、一部改変されてはいるものの二郭・三郭周辺や大堀切なども、概ね残っています。それにしても、非常に完成度の高い中世城郭です。上総武田氏をはじめとした房総系城郭では、あまり技巧的な縄張りをみることが出来ないことが多いのですが、この真里谷城は全体の広大な城域や縄張り、各種防御施設の規模、技巧面とも、他の房総系城郭では見られないくらい高レベルのものを感じます。千畳敷の広い曲輪とそれを取り巻く高い土塁、虎口の形状などは、千葉県を代表する本格中世山城と言っても差し支えないでしょう。さすが真里谷武田氏の本拠地です。
しかしよくわからんのがこの立地条件。水運の要である小櫃川からも、主要街道からも離れていて、平地も人家も周囲には殆どありません。見渡す限りの山ばかり。真里谷の集落だって、歩けば一時間はかかるでしょう。確かに標高は周囲の山々よりも高く、防御面では要害とも言えるでしょうが、支配の対象となる民衆も土地も無いこんな山奥を立地に選んだのがよく理解できません。内房と外房の中間点、ということなのでしょうか?でもそれだったら池和田城みたいに養老川流域に作ればいいんだし。あくまで純軍事的観点で選定したんでしょうか?
<追補:2003.1.18>
当サイトともリンクを頂いている、「房総の城郭」管理人のたかしPart3さん主催のオフ会に参加させていただきました。「城山神社」御神体である貴重な「武田三河守坐像」や、激しい藪に恐れをなして見学していなかった三郭(図によっては四郭の標記も)附近の横堀遺構などはかなり見ごたえがありました。この模様はこちらの頁で。