名城「臼井城」を影で支えた

師戸城

もろとじょう Moroto-Jo

別名:

千葉県印旛郡印旛村師戸

(印旛沼公園)

城の種別 平山城(沼城)

築城時期

不明(鎌倉期)

築城者

師戸氏

主要城主

師戸氏

遺構

曲輪、空堀、土塁

印旛沼からの遠景<<2002年01月19日>>

歴史

築城年代は定かではないが、鎌倉時代の14世紀に臼井城の支城として築城されたといわれる。築城当初は師戸四郎なる人物が在城していたらしい。その後は臼井城の臼井氏、原氏の傘下に置かれたものと思われる。臼井城とは「渡し」で結ばれ、臼井城の防衛に大きな役割を果たした。文明十一(1479)年の太田持資・資忠、永禄九(1566)年の上杉謙信による臼井城攻撃でも、糧道を守る搦手の城として機能したと想像される。天正十八(1590)年の小田原の役で落城し廃城となった。

毎度の事ながら、行く前には大して期待していなかったのに、度肝を抜かれることになりました。印旛沼に突き出た半島を数条の堀でぶった切りにした直線連郭の典型的な沼城です。印旛沼の水位が下がったため、沼からはやや隔たっていますが、昔は城のすぐ下まで沼が覆っていたことでしょう。公園として整備されておりますが、遺構の残存状態は素晴らしく、特に堀の深さや横矢の鮮明さは特筆です。土地利用によって消え行く、あるいは討ち捨てられ荒れるままに消え行く中世城郭が多い中、公園としての整備と史跡としてのバランスをうまく保っていくこの城のような方向性には拍手喝采です。
城域はそれほど大きくはなく、あくまで臼井城に対する支城として背後の守りと糧道確保を目的とした純軍事的な色彩の強い城ですが、前述の堀の深さや土塁の高さ、その残存状況などは、山城だけではない、中世城郭のひとつのあり方を体験できる場として非常に貴重です(おまけに景色もいい)。
臼井城は下総の要地として千葉氏系の臼井氏・原氏らと太田道灌や謙信、正木時茂などが幾度も奪い合いを演じていますが、その際に沼を挟んで指呼の間に望むこの師戸城の存在は大きく、臼井城の堅城ぶりのうちの何割かはこの城によるものではないかと思えます。まず臼井城を先に見学して位置関係を頭に叩き込むと、この城の価値がよくわかるでしょう。「本城」と「支城」の関係をわかりやすく体験できる場としてもお奨めです。とにかく絶賛しておきます。

二郭先端は物見台状に突き出ていて、本城である臼井城が印旛沼を挟んでわずか1.5km先に見えます。

主郭。土塁で囲まれ、二郭との間は浅い堀で仕切られていました。

主郭・二郭を仕切る堀の最先端。先端部は横矢が掛かっています。

主郭・二郭を仕切る小堀。土橋状の通路が二本ありますが、これらは土橋ではなく堀障子だったのではないでしょうか?この堀は周囲に比べて浅く幅も狭いので、空堀ではなく堀障子を伴う泥田堀だったような気がします。

主郭の土塁。三郭との堀切方面は高く、その他の三方は武者走り状の低い土居です。

二郭。この先端が印旛沼に面した物見。こちらも三郭方面には高い土塁があります。

三郭の空堀。見事な横矢が見られる、深い堀です。 広大な三郭は自由広場になっていて、この日はゲートボール大会が開かれていました(笑)。

三郭周囲は非常に重厚な土塁に囲まれています。一番の見所。 各土塁には随所に櫓台らしき場所が見られます。

三郭の虎口方面の土塁。このあたりは5m前後の高さのある大土塁です。 三郭東側の帯曲輪から見た三郭土塁。非常に高さと角度があります。

こちらは三郭と外郭(道場台)を隔てる堀。ここも高い土塁と深い堀、そして鮮明な横矢が見られる場所です。全体に縄張り自体は単純ながら、個々のパーツには非常に技巧的な面が見られます。

道場台。根小屋地区と三郭の間に位置する曲輪。一部が児童公園になっていました。

印旛沼対岸から見た師戸城全景。半島状に突き出た、典型的沼城です。

駐車場も完備された、きれいな公園なので家族連れもOKです。

 

 

交通アクセス

東関東自動車道「四街道」IC25分。国道296号方面、「師戸大橋」北側。

京成線「京成臼井」徒歩30分。

周辺地情報

しつこいようですが、やはり臼井城を先に見てからの方がわかりやすいでしょう。佐倉周辺はその他に佐倉城本佐倉城など中近世城館がたくさん。

関連サイト

 

 
参考文献 「房総の古城址めぐり(下)」( 府馬清/有峰書店新社)、『臼井城をめぐる攻防戦』」(祖田浩一/「戦国の房総を語る」房総歴史文学会に収録)、現地解説板

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭

 

埋もれた古城 表紙 上へ