徳川四天王、猛将・本多忠勝の城

大多喜城

おおたきじょう Ootaki-Jo

別名:大滝城、小多喜城

千葉県夷隅郡大多喜町泉水

城の種別

平山城(丘城)

築城時期

大永元(1521)年  

築城者

真里谷武田氏

主要城主

武田氏、正木氏、本多氏、松平氏ほか

遺構

曲輪、土塁、井戸、移築現存門、模擬御三階櫓

千葉県総南博物館の模擬御三階櫓<<2001年12月09日>>

歴史

大永元(1521)年、真里谷城の武田氏の一族、真里谷武田信清が築城したといわれる。築城当時は現在の丘陵上ではなく、大多喜根古谷城(大多喜町泉水字岡部台)と呼ばれる小高い丘の上だったといわれる。天文十三(1544)年、安房里見氏方の正木時茂が攻略、憲時・時堯と三代に渡って城主の座についた。天正六(1578)年、佐貫城にいた里見氏当主の里見義弘の没後、里見氏は後継者を巡って義頼と梅王丸が争ったが、大多喜城主・正木憲時は里見義頼に対抗、独立の意思を見せた。天正八(1580)年、内乱の処理のため義頼が居城の岡本城を離れ佐貫城へ出陣していた隙を狙い、憲時は岡本城に在城していた渋川相模守を調略して義頼の本拠地を狙ったが失敗、逆に長狭郡から勝浦、夷隅方面への義頼の侵攻を許し、憲時は孤立した。翌天正九(1581)年九月、大多喜城内の内通者により憲時は暗殺され、大多喜領は里見氏の直轄支配下に入り、大多喜正木氏は義頼の次男・弥九郎時堯(二代目時茂と改名)が嗣いだ。

天正十八(1590)年の北条氏討伐とそれに伴う里見氏の上総没収で、江戸に近い安房の里見氏に対する牽制として徳川の将、本多忠勝が10万石で入城した。この後、城主は阿部、青山、久世、稲垣、植村と交代、元禄十六(1703)年に松平正久が引継ぎ以後九代続いて明治維新となる。その間、慶長十四(1609)年、メキシコ商船サン・フランシスコ号が暴風で御宿町に漂着、本多忠勝はドン・ロドリゴら一行約300人を大多喜城に招いて世話をした。

房総の丘陵地帯の中にぽっかりと開いた盆地の町、大多喜。ここの丘の上に聳える御三階櫓は背後の山々と夷隅川の急流に守られて、なかなかの要害の地です。

肝心の遺構はあまり目ぼしいものはなく、超でかい御三階櫓の前にすべて霞んでしまっているようです。それでも大多喜高校の敷地の中にのこる大井戸はなかなか見事ですが。

さて、中世の大多喜城が現在の城址の約1.5km離れた「根古屋」にあったとする説ですが、何らかの城館があったかも知れませんが、やはり城そのものは現在の丘の上にあったと考えるのが妥当ではないでしょうか?地形から見ると根古屋城の付近はあまりにも要害とはかけ離れている上、わずかな丘も非常に狭いため本格的な築城は無理でしょう。それよりも現在の城址のある丘は夷隅川に守られた立地条件といい眺望といい、ここに何も作らなかった、と見るには逆に無理があります。根古屋城周辺にもかつて堀や土塁などの痕跡があったらしいのですが(現在は宅地化により消滅)、ここはあくまで何らかの屋敷、または久留里方面への街道を守る番所・砦等と見るほうが妥当ではないでしょうか?

なお、ここで販売されている「大多喜城とその周辺」(千葉県立総南博物館刊行)は夷隅・長生地区の歴史・文化財ガイドとして重宝します。

【再訪:2003.1.11】

上総方面に行った「ついで」に軽く立ち寄るつもりが、山の中で道に迷ってすっかり陽が暮れてしまった(笑)。現在、「大多喜城」といえば街を見下ろす丘陵上の御三階櫓付近を思い浮かべる方が多いと思います。あるいは真里谷氏時代の大多喜城、といえば、いわゆる大多喜根古屋城を思い浮かべる方も。しかし、現在の模擬御三階櫓が建つ峰の隣の丘陵上に、近年大規模な中世城郭遺構が確認され、真里谷氏、正木氏時代の大多喜城であろうとの見方が有力なようです。「栗山」という丘陵上にあるので「栗山遺構群」などともいわれるようです。場所はお土産屋さんが並ぶ駐車場に向かって右手の尾根上で、一部が遊歩道になっており、下の駐車場からでも堀切とそこに架かる遊歩道の橋が見えます。この尾根は非常に狭い痩せ尾根で、三条ほどの堀切を確認しましたが、削平して居住に耐える空間を作る余裕はほとんどありません。

で、本来の栗山遺構群の中心はこの3つめの堀切をくぐって遊歩道から外れた尾根上に広い削平地や土塁、虎口遺構などがあったらしいのですが、軽い気持ちで遊歩道に入ったため概念図を持っておらず、延々と遊歩道を歩いた挙句、見当違いの場所に降りてしまって歩いても歩いても元の場所に帰れない(汗)。尾根上や山の下にもキャンプ場やらピクニック広場やらの案内表示はあるんですが、肝心のもとに戻るコースの案内がない!人っ子ひとり歩いてないし、心細かった。。。結局、栗山遺構群のうち、前述の堀切三条くらいしか見れなかったものの、本丸(御三階櫓)周囲の岩盤を掘り込んだ横堀状遺構(これも上総武田氏系のお得意技)なども見れてまあよかったかな。

城下、夷隅川より見上げる大多喜城の丘。中央付近に模擬御三階櫓が見える。 天然の外堀、夷隅川の深い谷。

大多喜水道跡。最後の藩主松平正質が明治二(1870)年に着手し翌年完成した。 本丸付近にわずかに残る土塁。

古絵図を元に復原されたという御三階櫓。しかし発掘調査では天守クラスの建物跡は発見されなかったとか。そういう意味では復原というより模擬でしょう。どこかの櫓に似てるし・・・ 大多喜高校の敷地が当時の二ノ丸。敷地内には下の写真の井戸や薬医門が残る。

大多喜高校敷地内に移築現存する城内の薬医門。 周囲10m、深さ20m、日本一の大井戸といわれる。今でも満々と水を湛える。

いすみ鉄道大多喜駅の裏手にあたる大手門跡。わずかな土塁が残ります。 大手門近くの奥まった一角にある水堀跡。現在では水田になっている。

真里谷武田氏築城の中世大多喜城跡と言われる大多喜根古谷城。遺構はありません。 小高い石垣上の台の上に根古谷城址の碑がありますが、ここは単なる館跡で、中世の城もやはり現在の丘の上にあったのでは?

真里谷武田氏築城の中世大多喜城跡と言われる大多喜根古谷城。遺構はありません。 小高い石垣上の台の上に根古谷城址の碑がありますが、ここは単なる館跡で、中世の城もやはり現在の丘の上にあったのでは?

真里谷武田氏築城の中世大多喜城跡と言われる大多喜根古谷城。遺構はありません。 小高い石垣上の台の上に根古谷城址の碑がありますが、ここは単なる館跡で、中世の城もやはり現在の丘の上にあったのでは?

真里谷武田氏築城の中世大多喜城跡と言われる大多喜根古谷城。遺構はありません。 小高い石垣上の台の上に根古谷城址の碑がありますが、ここは単なる館跡で、中世の城もやはり現在の丘の上にあったのでは?

真里谷武田氏築城の中世大多喜城跡と言われる大多喜根古谷城。遺構はありません。 小高い石垣上の台の上に根古谷城址の碑がありますが、ここは単なる館跡で、中世の城もやはり現在の丘の上にあったのでは?

真里谷武田氏築城の中世大多喜城跡と言われる大多喜根古谷城。遺構はありません。 小高い石垣上の台の上に根古谷城址の碑がありますが、ここは単なる館跡で、中世の城もやはり現在の丘の上にあったのでは?

 

 

交通アクセス

いすみ鉄道 大多喜駅より徒歩20分

周辺地情報

久留里城万木城など。

関連サイト

 

 
参考文献 「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」(川名 登/図書刊行会)、「房総の古城址めぐり(上)」(府馬清/有峰書店新社)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「さとみ物語」(館山市立博物館)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、「日本の城ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「日本名城の旅 東日本編」(ゼンリン)、「大多喜城とその周辺」(千葉県立総南博物館)

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭

 

埋もれた古城 表紙 上へ