房総の丘陵地帯の中にぽっかりと開いた盆地の町、大多喜。ここの丘の上に聳える御三階櫓は背後の山々と夷隅川の急流に守られて、なかなかの要害の地です。
肝心の遺構はあまり目ぼしいものはなく、超でかい御三階櫓の前にすべて霞んでしまっているようです。それでも大多喜高校の敷地の中にのこる大井戸はなかなか見事ですが。
さて、中世の大多喜城が現在の城址の約1.5km離れた「根古屋」にあったとする説ですが、何らかの城館があったかも知れませんが、やはり城そのものは現在の丘の上にあったと考えるのが妥当ではないでしょうか?地形から見ると根古屋城の付近はあまりにも要害とはかけ離れている上、わずかな丘も非常に狭いため本格的な築城は無理でしょう。それよりも現在の城址のある丘は夷隅川に守られた立地条件といい眺望といい、ここに何も作らなかった、と見るには逆に無理があります。根古屋城周辺にもかつて堀や土塁などの痕跡があったらしいのですが(現在は宅地化により消滅)、ここはあくまで何らかの屋敷、または久留里方面への街道を守る番所・砦等と見るほうが妥当ではないでしょうか?
なお、ここで販売されている「大多喜城とその周辺」(千葉県立総南博物館刊行)は夷隅・長生地区の歴史・文化財ガイドとして重宝します。
【再訪:2003.1.11】
上総方面に行った「ついで」に軽く立ち寄るつもりが、山の中で道に迷ってすっかり陽が暮れてしまった(笑)。現在、「大多喜城」といえば街を見下ろす丘陵上の御三階櫓付近を思い浮かべる方が多いと思います。あるいは真里谷氏時代の大多喜城、といえば、いわゆる大多喜根古屋城を思い浮かべる方も。しかし、現在の模擬御三階櫓が建つ峰の隣の丘陵上に、近年大規模な中世城郭遺構が確認され、真里谷氏、正木氏時代の大多喜城であろうとの見方が有力なようです。「栗山」という丘陵上にあるので「栗山遺構群」などともいわれるようです。場所はお土産屋さんが並ぶ駐車場に向かって右手の尾根上で、一部が遊歩道になっており、下の駐車場からでも堀切とそこに架かる遊歩道の橋が見えます。この尾根は非常に狭い痩せ尾根で、三条ほどの堀切を確認しましたが、削平して居住に耐える空間を作る余裕はほとんどありません。
で、本来の栗山遺構群の中心はこの3つめの堀切をくぐって遊歩道から外れた尾根上に広い削平地や土塁、虎口遺構などがあったらしいのですが、軽い気持ちで遊歩道に入ったため概念図を持っておらず、延々と遊歩道を歩いた挙句、見当違いの場所に降りてしまって歩いても歩いても元の場所に帰れない(汗)。尾根上や山の下にもキャンプ場やらピクニック広場やらの案内表示はあるんですが、肝心のもとに戻るコースの案内がない!人っ子ひとり歩いてないし、心細かった。。。結局、栗山遺構群のうち、前述の堀切三条くらいしか見れなかったものの、本丸(御三階櫓)周囲の岩盤を掘り込んだ横堀状遺構(これも上総武田氏系のお得意技)なども見れてまあよかったかな。