真里谷城オフ会(2003.01.18)

2003年1月18日、「房総の城郭」管理人のたかしPart3さん主催のオフ会に参加させていただきました。この日集まった武者は16名、貴重な「武田三河守坐像」や、真里谷氏内紛の際に庶子長男の信政勢が立て籠もったとされる「まりやつしん地の城(天神台城)」なども見学でき、有意義な一日となりました。とくに、激しい藪に恐れをなして見学していなかった三郭(図によっては四郭の標記も)附近の横堀遺構などはかなり見ごたえがありました。ここでは、そんな真里谷城のすべて(?)を紹介します。

地元の市野々区総代のひとり、佐久間さんにご案内頂き、城山神社の御神体を拝見。息を呑む、御開帳の瞬間。※1 ものすごく貴重な、武田三河守坐像。胸には武田菱を抱く。三河守とは武田信長?信興?信保?※1
こちらも台座に武田菱があしらわれた銅鏡。※1 さて、お城の遺構に突入。三郭は完全に藪化し、このようなオフ会でもなければ入る機会は無かったでしょう。
三郭東端には一段低い曲輪と、低い土塁が。道路敷設のための改変があるとはいえ、ここも虎口のひとつであった可能性があります。 三郭を奥へ進むと、やがて曲輪は細い尾根上に繋がっていきます。ここにまず、堀切を見つけました。後述の横堀と組み合わされて、堀底道の一部であった可能性もあると思います。
さらに堀切がもうひとつ。この尾根は、横堀とセットになった天然の土塁としても機能しています。 これが三郭北側を東西に走る横堀。長さは数十m、横矢というほど明瞭ではありませんが、地形なりに若干の屈曲が見られます。
前述の横堀と、尾根土塁(写真右側)。この横堀は大手道を兼ねているようです。真里谷武田氏系城郭では、他にもこのような曲輪や尾根に沿った横堀が数箇所で見られます。真里谷氏系城郭の特徴のひとつと言えるかもしれません。 この横堀が90度北に屈曲し、尾根に囲まれた谷津状の低地に向います。ここが大手虎口と推定され、何人かは斜面の下まで降りて、道の存在を確認したようです。しかし、藪と倒木が酷い。。。
こちらは四郭「市野々曲輪」方面、四の木戸とされる場所です。多少桝形っぽい地形はありますが明瞭ではありません。堀切の底を道としたものなのでしょう。 四の木戸わきにある「いっぱい水」。城の水の手のひとつと目されますが、多分この水だけではこれだけ大きい城の水は賄いきれないでしょう。季節も悪かったのか、水はほとんどありあせんでした。
キャンプ場入り口附近の二郭を分断する堀切(堀底道)。この二郭は堀切で分断されているため、東側を二郭、西側を三郭と見る見方もあります。 なんと、木更津ケーブルTVが真里谷城を取材。放映されたのかなあ?ソレガシが最初に聞かれた言葉「真里谷城はどこですか?」ここだよっ、ここ!
伝・大堀切を通って主郭千畳敷へ。虎口は急坂の坂入虎口です。 その坂入虎口を登りきると、堀底状の桝形(?)になります。不用意に突入すると、頭上から矢弾が雨アラレと降り注ぎます。
広々とした主郭千畳敷。これだけ広い曲輪にもかかわらず、発掘調査では建物跡は出土しなかったとか。建物がないとしたら、この広い空間はいったい何に使われたのだろう? 主郭東側の土塁、というより尾根の削り残し。削り残しを土塁に見立てるのは安房・上総ではよく見られる手法ですが、これほど大規模で、かつほぼ曲輪を全周しているのはここだけでしょう。
希望者は搦手へ。ものすごい藪です。市原市万田野地区へ繋がるこの尾根はものすごく狭く、両側は急崖、堀切こそありませんが自然地形に恵まれた堅固な地形です。 搦手道の藪の中の土塁?というよりも、この搦手道自体が堀切の底を通過しているらしい。藪でよくわかりませんけど。

搦手方向の、南側腰曲輪には土塁もありました。 これは天神台城見学後立ち寄った、富来田公民館に展示されている真里谷城の出土遺物。
大人数の中、下見や当日のご案内をいただきましたたかしPart3さん、本当に有難うございました。

※1 この城山神社御神体ならびに所蔵物は、見学および掲載の許可を取っております。