武蔵千葉氏の拠った城

赤塚城

あかつかじょう Akatsuka-Jo

別名:

東京都板橋区赤塚

(東京都立赤塚公園)

城の種別

平山城

築城時期

不明

築城者

赤塚氏

主要城主

赤塚氏、武蔵千葉氏

遺構

曲輪、堀切跡、水堀跡

赤塚城本丸跡の碑<<2002年03月21日>>

歴史

築城時期ははっきりしない。享徳三(1454)年勃発の、関東公方・足利成氏と上杉氏の抗争となった「享徳の大乱」に呼応した下総千葉氏の内紛で、康正元(1455)年、千葉氏庶流の馬加城主・馬加氏は亥鼻城を陥とし、千葉氏嫡流の千葉介直胤・胤宣父子は下総香取郡の多古城志摩城に追い詰められ自刃、千葉介は馬加氏によって奪われた。直胤の弟・胤賢も小堤城で自刃した。その子実胤・自胤は市河城(国府台城)で馬加氏に抵抗したがこれも陥とされ、扇谷上杉氏を頼って武蔵に逃れた。太田道灌は千葉氏嫡流の二人を庇護し、実胤は武蔵石浜城に、自胤は赤塚城に置かれて「武蔵千葉氏」となった。千葉自胤は太田道灌の配下として、石神井城に籠る豊嶋氏の鎮圧や、文明十一(1479)年、長尾景春方の千葉孝胤を討つため太田道灌の弟・太田持資、資忠の軍が臼井城を攻めた際にも主力の一翼として参加したが下総奪還は果たせず、太田道灌の死後は北条氏の配下となった。天正十八(1590)年の小田原の役では武蔵千葉氏配下の松戸越前守が守備していたが、北条氏と運命をともにし、赤塚城も廃城となった。

都内の巨大住宅地、高島平のすぐそば、現在は赤塚公園の一部として城址が残ります。高島平団地付近の開発が始まった昭和四十年代頃までは、この赤塚城もほぼ手つかずで、空堀などの遺構がはっきり残っていたようですが、今では宅地化と公園化により、明瞭な遺構はほとんど確認することができません。残念ではありますが、この現代、「武蔵千葉氏の城跡を残せ」と言うより「宅地を供給しろ」と言う方が説得力があるのは否定できないところで、公園の一部にわずかな遺構が残り、城址の碑が建てられたというだけでも、納得すべきなのかもしれません。

もともとは荒川の河岸段丘上に築城され、段丘の下は荒川氾濫原の湿地帯に守られた堅固な城だったようですが、前述のとおりの宅地開発と河川改修等で、荒川の姿は見えず、かつての城地を偲ぶべくもありません。ただこの河岸段丘の地形はあまり変わっておらず、北側に面して崖や谷が複雑にめぐっています。現在城址の碑が建つ丘が本丸跡と言われ、その周囲に二ノ丸・三ノ丸にあたる曲輪があったと言われますが、実際にはこの横に長く展開する河岸段丘上に点々と砦や支城があったのではないでしょうか。

太田道灌存命中は武蔵千葉氏は下総奪還を夢に、「馬加氏系」千葉氏と争いましたが、道灌の死と山内・扇谷両上杉氏の抗争による上杉氏の衰退により次第に力を失い、結局本佐倉の「馬加氏系」千葉氏と同じく北条の傘下に入ってしまいます。そしておなじみ「小田原の役」で北条氏と運命を供にしてしまいます。名族千葉氏はここに終焉を迎えてしまうわけです。

見学当日は桜満開、本当なら絶好のお花見日和のはずですが、暴風と言ってもいいくらいの強い風が吹き荒れていて、とてもお花見どころじゃなかったです。竜巻のような土埃と花吹雪に襲われて、ほうほうの体で退散しました。

かつて荒川が織り成した河岸段丘の上に赤塚城はありました。現在は公園として憩いの場に。

満開の桜に包まれた主郭跡。概念図によれば主郭北西端には土塁・空堀跡が残る、とのことでしたが、明瞭なものはありませんでした。

赤塚溜池公園内の池は、かつての外堀の跡。なんの変哲もない公園の池ですが・・・ 主郭西側の自然地形を利用した堀切の跡。周辺の斜面にも、城壁だったであろう痕跡が伺えます。

 

 

交通アクセス

首都高速「高島平」ICから車5分。都営地下鉄「西高島平」駅徒歩10分。

周辺地情報

東へ3kmほどで支城の志村城。空堀が残ります。

関連サイト

 

 
参考文献 「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

房総の城郭帝國博物学協会 城郭研究部

 

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