都内の巨大住宅地、高島平のすぐそば、現在は赤塚公園の一部として城址が残ります。高島平団地付近の開発が始まった昭和四十年代頃までは、この赤塚城もほぼ手つかずで、空堀などの遺構がはっきり残っていたようですが、今では宅地化と公園化により、明瞭な遺構はほとんど確認することができません。残念ではありますが、この現代、「武蔵千葉氏の城跡を残せ」と言うより「宅地を供給しろ」と言う方が説得力があるのは否定できないところで、公園の一部にわずかな遺構が残り、城址の碑が建てられたというだけでも、納得すべきなのかもしれません。
もともとは荒川の河岸段丘上に築城され、段丘の下は荒川氾濫原の湿地帯に守られた堅固な城だったようですが、前述のとおりの宅地開発と河川改修等で、荒川の姿は見えず、かつての城地を偲ぶべくもありません。ただこの河岸段丘の地形はあまり変わっておらず、北側に面して崖や谷が複雑にめぐっています。現在城址の碑が建つ丘が本丸跡と言われ、その周囲に二ノ丸・三ノ丸にあたる曲輪があったと言われますが、実際にはこの横に長く展開する河岸段丘上に点々と砦や支城があったのではないでしょうか。
太田道灌存命中は武蔵千葉氏は下総奪還を夢に、「馬加氏系」千葉氏と争いましたが、道灌の死と山内・扇谷両上杉氏の抗争による上杉氏の衰退により次第に力を失い、結局本佐倉の「馬加氏系」千葉氏と同じく北条の傘下に入ってしまいます。そしておなじみ「小田原の役」で北条氏と運命を供にしてしまいます。名族千葉氏はここに終焉を迎えてしまうわけです。
見学当日は桜満開、本当なら絶好のお花見日和のはずですが、暴風と言ってもいいくらいの強い風が吹き荒れていて、とてもお花見どころじゃなかったです。竜巻のような土埃と花吹雪に襲われて、ほうほうの体で退散しました。