ソレガシの実家からもさほど遠くない、新発田市の街中に残るお城。小学生の頃、遠足で来ました。新発田城の城地の殆どは自衛隊新発田駐屯地や養護施設、病院、宅地になってしまい、現在残る遺構はわずかの堀、石垣と櫓・門だけとなっていますが、この門と櫓は県内唯一の城郭建築遺構として貴重なものです。維新までは、L字型に折れ曲がる珍しい連立天守(三階櫓)があったそうで、明治の破却が悔やまれます、と思っていたら、新発田城を愛する市民の力が結集されて、2004年、なんとなんと三階櫓・辰巳櫓が復元されました(パチパチパチ)。古写真で見て以来、「ああ、これが見られたらよかったのに」と何度も溜息をついておりましたが、まさかこの世でお目にかかることになろうとは、望外の喜びです。
この三階櫓、いわば天守代用櫓ではありますが、古写真で見るイメージよりもスマートで小ぶりな印象を受けました。今回の復元では6枚の古写真が非常に重要な資料となっていて、コンピュータで寸法比率などを計算して検証している、とのことです。この三階櫓の特徴はなんといってもその屋根の構造でしょう。T字型の屋根に三匹の鯱が乗る、というのはおそらく全国でもここだけでしょう。この不思議な形、見る角度によって印象も全然違います。ぜひ可能な限りのあちこちの角度から、鑑賞して頂ければと思います。海鼠壁もまた情緒を醸し出しています。今回の復元に当たっては徹底的に伝統工法を採用しており、通し柱は吉野の杉材、梁は高知の桧などの高級国産材を使い、屋根の下地まで「土居葺き」という伝統手法を採用しています。残念ながら三階櫓には入ることは出来ません。こうした工法が「建築基準法」の適用外のものであるのと、敷地が自衛隊駐屯地の提供によるものなのですが、すぐ裏手に自衛隊施設があることから、一定区域を立ち入り禁止にする、という協定の元に復元されているためです。残念ではありますが、中に入れないにもかかわらず見えないところまで手を抜かずに徹底した伝統工法を貫いた姿勢は大いに賞賛されるものですし、自衛隊も今回はいろいろとご協力をしてくれたようで、感謝感激です。
辰巳櫓の方は海鼠壁ではなく白漆喰の壁であるため、より美しく精悍な姿をしています。意外なほど堂々とした櫓で、現存の本丸表門・旧二ノ丸隅櫓と並んで建つ姿は、新発田城により一層の風格を与えてくれるようです。内部は資料の展示室になっていて、人間国宝・天田昭次氏作の復元記念太刀などが展示されています。床の一部がガラス張りになっていて、礎石の一部を見ることもできます。
新発田城は上杉景勝が会津に去ってからは、春日山城主・堀氏の与力として溝口伯耆守秀勝が城主に就任します。この人は尾張出身で、かの「殺生関白」三好(豊臣)秀次や、福島正則らと同郷です。それ以前は佐々木一族の新発田氏居城で、御館の乱で恩賞が無かった新発田重家が七年間に渡って上杉家に抵抗して、上杉氏当主となった景勝を大いに苦しめました(新発田重家の乱)。最期は城門から討って出て、さんざん闘った挙句、壮絶な自刃を遂げました。重家謀叛を焚きつけたのは信長と信長の意向を受けた会津芦名氏でしたが、きっと重家は上杉に勝てる、とは最後まで思っていなかったのではないでしょうか?だとしたら、重家を七年に渡る抵抗に掻き立てたものは、一体何だったのででょうか?恩賞の恨み?武門の意地?ソレガシには推し量ることすらできませんが、その壮絶なまでの覚悟は、何かを感じずにはいられません。この乱の模様は「新発田重家の乱」の頁をご覧下され。
溝口氏の治世下においては、当初六万石で入封、多少の消長はありますが、最終石高は十万石、しかも全くの外様でありながら幕末まで十二代にわたって移封もなし、というのはまずまず優遇された方だったでしょう。溝口氏は当時、低湿地帯が広がっていた阿賀野川流域などの干拓にも努め、今日の新潟県の基礎をつくった一人であったとも言えるでしょう。初代・秀勝の曾孫にあたる中山安兵衛は、父・弥次右衛門が辰巳櫓の失火の責任を負って浪人となったことで、十八歳で江戸に出て、浅野内匠頭長矩の家臣、堀部弥兵衛の養子となります。「赤穂四十七士」のひとり、堀部安兵衛です。本丸表門前には堀部安兵衛の銅像もあり、格好の記念写真スポットになっています。
今後も新発田城には復元計画があるということで、ますます楽しみです。訪れる際は三階櫓や辰巳櫓だけでなく、二基の現存建物や土橋門の土塁、高度な切り込みハギによる石垣なども楽しんでいただければと思います。また、街中にはところどころ、「かつてここには○○がありました」という看板や標柱が建っていますので、お時間の余裕のある方はぜひ往時の新発田城の隅々まで、散策をしてみてください。
[2004.07.31]
※なお、以前の記述で「本丸表門」を「大手門」と誤記していました。お詫びして訂正します。
【新発田城の構造】
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新発田城復元想像図
※クリックすると拡大します。 |
「新発田城復元想像図」は、明治初頭の廃城時の姿を想定したものである。作図にあたっては「正保城絵図」のほか、「明治初年の新発田藩家中屋敷割図」「新発田城中御間柄全図」(いずれも新発田郷土研究社編)、また「甦る新発田城」(新発田市刊)、各種配布物に印刷された現状市街地との重ね地図などを参考に、各種絵図を見比べながら描いてみた。「正保城絵図」の頃と基本は大きく変わらないが、稲荷門が新たに出来たこと、そして本丸西端の櫓が二層櫓から三階櫓に変わっているのが大きな変化である。また、もともと各櫓や門は檜皮葺き・栩(とち)葺きであったとのことであるが、古写真を見るとすべて瓦葺きである。新発田城は何度も火災に遭っており、特に寛文八(1668)年の大火では城内主要部の建物がほとんどすべて全焼してしまっているので、その後の再建にあたり、瓦葺きに面目を一新したことだろう。ただ、古写真を見ると本丸御殿は瓦葺きではなく(おそらく檜皮葺きか檜皮葺き)、意外である。おそらく重臣や藩士の屋敷も瓦葺きはなかったであろう。 新発田城の縄張りは本丸表門・土橋門を起点に反時計回りに曲輪が繋がる渦郭式を基本に、南側に三ノ丸を配し、その外側に「外ヶ輪(とがわ)」「西ヶ曲輪(にしがわ)」と呼ばれる外郭部を持つ。ただし、「正保城絵図」ほかの絵図を見ると明白なように、二ノ丸・三ノ丸は実質的には武家屋敷街であり、狭義の「城」は本丸と、その北側に位置する「古丸」の二郭と考えられる。地形としては新発田川などの河川や越後低地の湿地帯に突き出た微高台地(自然堤防)の先端部分にあたるのであろうが、現在はことごとく市街地化している上、河川の流れも大きく変わってしまい、当時の地形・地勢を正確に知るのは難しい。一応新発田川を外堀に取り込んでいたようであるが、新発田川そのものが掘割として大きく改められている上、本流は現在加治川として北西に流れているため、川と城の関係も正確なところはよくわからない。 新発田重家時代の新発田城は近世新発田城の古丸(W)にあった、ということであるが、これもどのような縄張りだったか、近世新発田城の中にどのように取り込まれたのかは想像が難しい。ただ、「新発田市史」などによると、「堀は広く深く、その中に小土手を築いた二重堀となっていて」とある。この記述に最も合致しそうなのは古丸よりもむしろ本丸の土橋門附近である。古丸が当時の主郭だった、と考えるよりも、やはり近世新発田城の本丸が新発田氏時代の中心だったような気がする。おそらく新発田城の原型は、周辺の池ノ端城や安田城などと共通するものだったのではないかと想像する。この古丸はいまや自衛隊新発田駐屯地の敷地となって明瞭な遺構を残さないが、自衛隊敷地を取り囲むように巡る道路に堀の名残を見ることができる。 前述のように新発田城の本丸の建物は基本的に瓦葺きではなく、檜皮葺き、杮葺きだった。またその特徴として、非常に小規模な建物が密集して建てられている。「ビジュアル再現村上城」のワタナベ殿によると、村上城と比較すると建物の大きさは圧倒的に小さいものの、総床面積は1.5倍ほどあるそうである。狭い土地を有効活用するための知恵だったのかもしれない。あるいはもともと入封時の六万石の格式で屋敷割をしてしまったことが尾を引いているのかもしれない。古丸は「御米蔵所」や庭園などがあったらしいが詳しいことはよくわからなかった。 二ノ丸は重臣の屋敷が並んでいる。特に規模が大きいのは堀数衛・溝口甚太郎・速水盛厚などの屋敷である。詳しくはわからないが、溝口甚太郎は藩主・溝口氏の一族であろう。堀数衛はもともとの溝口氏の寄親である堀氏の一族か。速水氏は溝口氏の出身地、尾張国中村郷時代からの譜代家臣であるらしい。三ノ丸は中級武士の屋敷、その外側の「外ヶ輪」などは中・下級藩士の屋敷や、寺町などとなっている。現在、藩主の庭園「清水園」脇に当時七十石の武士、石黒氏の武家屋敷が移築保存されている。またその脇には足軽長屋が現存しており、中・下級藩士の生活の一端を垣間見ることができる。外ヶ輪などの外郭部には水路が縦横に巡っており、かつての城下町の町割を偲ばせる。寺町区画では宝光寺の敷地が圧倒的に大きいが、ここは藩主・溝口氏累代の菩提寺である。 現在見られる新発田城の本丸南西面では見事な切り込みハギの石垣を見ることができるが、全面的に石垣が用いられていたのはこの部分だけで、あとは櫓や枡形部分、あるいは腰巻石垣として、部分的に用いられていた。おそらく、二ノ丸以下ではほぼ全面的に土塁(土居)のみだったのではないか。この要所要所に櫓門と高麗門を持つ堅固な枡形があった。南端の大手門(大手町口門)などは、櫓門一基に対し、高麗門がニ方向に二基あるという、ちょっと変わった構造である。菅原門、榎門は高麗門が単独で建っていたようだ。城門というよりも町木戸のようなものだっただろう。こちらは本来的には縄張り全体を考えれば無いほうが防衛上都合がよさそうだが、こうした「近道」が存在すること自体、平和な時代の城を象徴している、といえなくもない。 現在の新発田城は縄張りや各櫓の配置全体を偲ぶにはあまりにも市街地化が進んでおり、本丸周辺のごく一角にその輝きを残すばかりである。しかし、地図や現地の案内板を丹念に辿っていけば、おおよその姿をおぼろげながらも掴めるだろう。 [2004.08.22] |