池ノ端城は周囲を湿地帯に囲まれた微高地にあり、現在の集落もどことなく中世の集落の面影を残しています。水に浮かんだ亀のような形状から、亀形城とも呼ばれました。集落の中は宅地や田畑になっていますが、意外なほどよくその遺構は残り、とくに主郭周囲の水堀(泥田堀)などは歴然としています。また、外堀にあたる堀の痕跡もよく残っています。ちょっと嬉しい誤算でした。
池ノ端城は新発田重家の乱に際して、新発田城の周囲に夥しく作られた城砦群のひとつです。それ以前に存在したかどうかはわかりませんが、おそらく主郭にあたる部分が土豪の館であったのではないかと思います。乱に際して戦闘用の城郭として大々的に改修・拡張されたのではないかと思います。
守る城将は十代の若き勇将・池端鴨之助(高橋掃部介)でした。鴨之助の父、先代掃部介は重家軍と景勝軍が最初に激突した合戦の疵がもとで落命し、若干十六歳の鴨之助が父の遺志を嗣ぎます。この鴨之助、重家軍が撤退する景勝軍に食らいついた放生橋合戦でも大活躍、新発田城を支えつづけます。
しかし重家、弓折れ矢尽きてとうとう自刃、天正十五(1587)年十月二十五日(二十八日とも)のことでした。しかし池ノ端城はいまだ落ちず、翌日、鴨之助は血路を開いて池ノ端城を脱出、そのまま行方知れずになった、といわれます。結局、本城である新発田城よりも一日長く持ちこたえ、この池ノ端城の落城を以って、やっと長きに渡った新発田重家の乱は一件落着したのでした。
しかし、水に浮かんだ城といい、城代の死で息子ががんばったことといい、本城よりも長く持ちこたえたことといい、まるで小田原の役での忍城のようですな!
[2003.05.17]
【池ノ端城の構造と新発田城】
池ノ端城はかつて阿賀野川や新発田川の氾濫原であった広大な低湿地帯に面した微高地に位置する低地性の平城である。現在は池ノ端集落の宅地が並んでおり、必ずしも遺構が完存するわけではないが、農地や微地形に当時の名残を留めている。
池ノ端城そのものはそれほど複雑な構造ではなく、こと細かに考察するには及ばないが、ここで注目したのには訳がある。それは、中世新発田城の原型とでもいうべき姿が重なってくるからである。
池ノ端城の周囲は前述のとおり広大な低湿地に囲まれていた。その地名からも推測できるところである。この微高台地は附近を流れる太田川による自然堤防、あるいは附近の小河川が合流する、デルタ地帯の中洲のような地形だったと思われる。この条件は現在は近世城郭化・市街地化して名残を留めない新発田城にも共通するところであろう。「上杉家御年譜 景勝公」の天正十(1582)年二月上旬、新発田重家逆意に触れた条には当時の新発田城を「そもそも新発田の要害は信濃川という巨川あり、滄溟を欺く大河を後に用い、左右は泥溝にてその深廣計りがたし 前は一條の繩手道にて一騎寄の難所なれば敵一騎にて防ぐときは味方千騎を退かしむ」と描写している。「信濃川」というのはやや疑問だが、湿原に浮かぶ城の様子が伺える。この地形条件は今の池ノ端集落にもほぼ当てはまる。
池ノ端城の縄張りとしては、変形方形の主郭(T)の周辺を水堀(堀1)で囲み、帯状の曲輪(U)の外側に外郭部に相当するVやWの曲輪があり、その外側を外堀(堀4、5など)が巡っている。つまり、場所によって二重の水堀を形成している。この縄張りは「新発田市史」による当時の新発田城についての描写、「堀は広く深く、その中に小土手を築いた二重堀となっていて」という条件によく似ている。また、附近では比較的遺構の残る安田城も同じような地形・縄張りであり、この地方に共通する築城様式があったことを想像させる。
このように池ノ端城には、中世新発田城に通じる共通点があるような気がしてならない。そう思いつつ近世新発田城を眺めてみると、古丸・本丸から二ノ丸あたりにかけての縄張りが池ノ端城のそれとよく似ているように見えてしまう。皆さんの意見はどうだろうか。
[2004.08.29]