新発田を最後まで支え続けた

池ノ端城

いけのはたじょう Ikenohata-Jo

別名:亀形城

新潟県北蒲原郡豊浦町池ノ端

 

城の種別 平城

築城時期

天正九(1581)年

築城者

池端氏

主要城主

池端氏

遺構

曲輪、水堀、土橋

主郭搦手の水堀<<2003年05月05日>>

歴史

天正九(1581)年、新発田城主・新発田因幡守重家、五十公野城主・五十公野道如斎が御館の乱での恩賞を不満として上杉景勝に対して挙兵(新発田重家の乱)、その際に新発田城周囲の広範囲にわたって城砦が築かれたが、池ノ端城はそのひとつという。それ以前に在地土豪の館等があったかどうかは不明。池ノ端城には重家配下の池端鴨之助(高橋掃部介)が置かれた。鴨之助は籠城の際は十五歳であったが、天正十(1582)年九月に上杉景勝が新発田城攻めのために小坂に陣取った際、父・先代掃部介が討ち死にし、その跡を嗣いで池ノ端城主となった。天正十一(1583)年の放生橋合戦でも勇戦し、冑首一つ、母袋武者二騎を討ち取ったという。そのうち一人は偶然にも父・先代掃部介を討った者であったという。

天正十五(1587)年七月二十三日、景勝は一万騎を従え新発田城下に侵攻、九月七日、景勝は新発田城攻撃に先立ち、加地秀綱が立て籠もる加地城を攻撃、秀綱は討ち死にし、加地城は落城した。続いて景勝は会津芦名氏の援軍を断つため赤谷城に向かった。これを知った津川城主・金上氏は後詰を出して景勝軍と一ノ渡戸で闘ったが敗れ、重ねて三百余騎で諏訪峠に至るが、小桶に上杉軍多数が終結していると聞き撤退、赤谷城は孤立、小田切三河守以下八百は悉く討ち死にし赤谷城は落城した。これによって、新発田城五十公野城は完全に孤立した。十月十三日、景勝は五十公野城を見下ろす高地に陣取り、直江山城守、泉沢河内守、藤田能登守らが五十公野城を攻撃、十月二十三日、五十公野道如斎は城内の内通者によって討たれ、城兵一千余が討ち死にして落城した。十月二十四日、景勝は直江山城守を前備えに、藤田能登守は猿橋の出城に、泉沢河内守は池ノ端城の備えに配置し、新発田城を包囲した。十月二十五日夜半の上杉軍の一斉攻撃で、重家は七百余騎を率いて最後の突撃を行ったが、数十騎に討ち減らされ、重家は色部修理大夫長真の陣に駆け入り自刃、新発田城は落城した。

池ノ端城新発田城落城後も持ちこたえたが、十月二十九日、池端鴨之助は城兵三十騎を率いて血路を開き、七騎が包囲を破るのに成功し、姿をくらましたという。池端鴨之助はその後、平林城主の色部氏を頼ったものと思われ、文禄三(1594)年定納員数目録によれば、池端鴨之助二十石五斗、二人三匁五厘役と記されている。

慶長三(1598)年、溝口秀勝が新発田城主となった後、一時期池ノ端城跡の一角に陣屋を置いた時期がある。

池ノ端城は周囲を湿地帯に囲まれた微高地にあり、現在の集落もどことなく中世の集落の面影を残しています。水に浮かんだ亀のような形状から、亀形城とも呼ばれました。集落の中は宅地や田畑になっていますが、意外なほどよくその遺構は残り、とくに主郭周囲の水堀(泥田堀)などは歴然としています。また、外堀にあたる堀の痕跡もよく残っています。ちょっと嬉しい誤算でした。

池ノ端城新発田重家の乱に際して、新発田城の周囲に夥しく作られた城砦群のひとつです。それ以前に存在したかどうかはわかりませんが、おそらく主郭にあたる部分が土豪の館であったのではないかと思います。乱に際して戦闘用の城郭として大々的に改修・拡張されたのではないかと思います。

守る城将は十代の若き勇将・池端鴨之助(高橋掃部介)でした。鴨之助の父、先代掃部介は重家軍と景勝軍が最初に激突した合戦の疵がもとで落命し、若干十六歳の鴨之助が父の遺志を嗣ぎます。この鴨之助、重家軍が撤退する景勝軍に食らいついた放生橋合戦でも大活躍、新発田城を支えつづけます。

しかし重家、弓折れ矢尽きてとうとう自刃、天正十五(1587)年十月二十五日(二十八日とも)のことでした。しかし池ノ端城はいまだ落ちず、翌日、鴨之助は血路を開いて池ノ端城を脱出、そのまま行方知れずになった、といわれます。結局、本城である新発田城よりも一日長く持ちこたえ、この池ノ端城の落城を以って、やっと長きに渡った新発田重家の乱は一件落着したのでした。

しかし、水に浮かんだ城といい、城代の死で息子ががんばったことといい、本城よりも長く持ちこたえたことといい、まるで小田原の役での忍城のようですな!

[2003.05.17]

【池ノ端城の構造と新発田城】

池ノ端城はかつて阿賀野川や新発田川の氾濫原であった広大な低湿地帯に面した微高地に位置する低地性の平城である。現在は池ノ端集落の宅地が並んでおり、必ずしも遺構が完存するわけではないが、農地や微地形に当時の名残を留めている。

池ノ端城そのものはそれほど複雑な構造ではなく、こと細かに考察するには及ばないが、ここで注目したのには訳がある。それは、中世新発田城の原型とでもいうべき姿が重なってくるからである。

池ノ端城想像復元図

※クリックすると拡大します。

池ノ端城の周囲は前述のとおり広大な低湿地に囲まれていた。その地名からも推測できるところである。この微高台地は附近を流れる太田川による自然堤防、あるいは附近の小河川が合流する、デルタ地帯の中洲のような地形だったと思われる。この条件は現在は近世城郭化・市街地化して名残を留めない新発田城にも共通するところであろう。「上杉家御年譜 景勝公」の天正十(1582)年二月上旬、新発田重家逆意に触れた条には当時の新発田城を「そもそも新発田の要害は信濃川という巨川あり、滄溟を欺く大河を後に用い、左右は泥溝にてその深廣計りがたし 前は一條の繩手道にて一騎寄の難所なれば敵一騎にて防ぐときは味方千騎を退かしむ」と描写している。「信濃川」というのはやや疑問だが、湿原に浮かぶ城の様子が伺える。この地形条件は今の池ノ端集落にもほぼ当てはまる。

池ノ端城の縄張りとしては、変形方形の主郭(T)の周辺を水堀(堀1)で囲み、帯状の曲輪(U)の外側に外郭部に相当するVやWの曲輪があり、その外側を外堀(堀4、5など)が巡っている。つまり、場所によって二重の水堀を形成している。この縄張りは「新発田市史」による当時の新発田城についての描写、「堀は広く深く、その中に小土手を築いた二重堀となっていて」という条件によく似ている。また、附近では比較的遺構の残る安田城も同じような地形・縄張りであり、この地方に共通する築城様式があったことを想像させる。

このように池ノ端城には、中世新発田城に通じる共通点があるような気がしてならない。そう思いつつ近世新発田城を眺めてみると、古丸・本丸から二ノ丸あたりにかけての縄張りが池ノ端城のそれとよく似ているように見えてしまう。皆さんの意見はどうだろうか。

[2004.08.29]

池ノ端城のある、池ノ端集落の遠景。周囲は見渡す限りのまっ平らな田んぼ。その中に、水に浮くような微高地の上に池ノ端城はありました。

集落に入ってすぐ目に付いた東側の内堀(堀3)跡。田んぼや用水路になっていても、よく形は残っているものです。

東側、大手の外側に一段低く広がる田んぼが外堀(堀4)跡。ここも思った以上によく残っています。 見渡す限りのまっ平らな田んぼ。ここはかつて、阿賀野川や新発田川が織り成す、広大な湿地帯でした。

主郭北東部、たぶん堀底(堀1)であった場所から主郭を見る。主郭は周囲より、1mほど高い場所にあります。

主郭から見る堀1。現在は小さな水路になっています。

主郭はほとんどが畑になっていました。土塁等は見当たりませんでした。

主郭の曲輪を仕切る堀2。このあたりは新発田城の土橋門附近、あるいは古丸門と似ている気がします。

ぐるっと回って搦手、南西方面の堀(堀1)跡は素晴らしいです。田んぼになっていますが、集落の中でよくぞここまで残りました。

搦手附近の堀の横矢。

同じく搦手附近の堀。道路沿いの田んぼですが、水に守られた城の様子を彷彿とさせます。

「池ノ端亀形城跡」の標柱と簡単な解説板が建つ搦手。この土橋も当時のものなのでしょう。

主郭の内藤に位置するこの広い田んぼも水堀跡でしょう。 こちらは北西側の外堀にあたる堀5。旧河道を利用しているようにも見えます。

 

交通アクセス

日本海東北道「新発田聖籠」IC車10分。

JR白新線「西新発田」駅、羽越線「中浦」駅 徒歩15分。

周辺地情報 気骨の武人、新発田重家が命を張った新発田城がオススメ。五十公野城や、上杉軍の最前線となった笹岡城なども近いです。
関連サイト 新発田重家の乱」の頁もご覧下さい。

 

参考文献

「菖蒲城物語」(角田夏夫/北方文化博物館)

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「新発田市史」

「新潟県中世城館跡等分布調査報告書」(新潟県教育委員会)

「上杉家御年譜 第二巻」(米沢温故会」)

参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ