このころの新発田城は、現在見られる近世城郭としての新発田城とは違い、石垣もなく掻き揚げ土塁の城であっただろう。現在の新発田城のやや西北、のちに「古丸」といわれた場所にこの頃の新発田城があったという。当時の新発田周辺は、現在の新発田川が加治川の本流であり、阿賀野川、信濃川が織り成す広大な水郷地帯に面していた。この水郷地帯は現在、わずかに残る「福島潟」に見ることができる。新発田城はこれらの大水郷地帯と深い沼田に囲まれた、難攻不落の平城であった。
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2003年現在の新発田市周辺(高度19498m)。加治川は開削され聖籠町次第浜に注いでいる。阿賀野川、信濃川も流路が安定し、阿賀野川北東岸には広大な美田が広がっている。 |
中世の新発田周辺(高度19498m)。加治川は新発田城の背後を流れ、阿賀野川・信濃川河口原の広大な湿地帯に注ぎ込んでいた。その名残は現在の新発田川にわずかに見られるのみである。 |
上記の画像は、海水面を5m上げて撮影したものである。洪水期と通常期にはかなりの水位差があったと想像され、また当然開拓や干拓により地形そのものも変化していると思われるので、常にこのように満水状態であったとは思えないが、泥田や氾濫原などが広がる半湿地帯が、はるか新潟まで続いていた筈である。新潟周辺は阿賀野川・信濃川の運ぶ砂が堆積して、三角州や砂丘がさかんに出来ては消えを繰り返していた。5mも海水面を上昇させてみた割には海岸線に変化がないのは、海岸線には高さ20m前後の砂丘地帯が広がっているためである。
治長は十六歳のとき、永禄四(1561)年の上杉謙信による小田原城攻撃にも従軍し、撤退時の殿軍を務め、その剛勇を敵味方に広く賞された。この年の第四次川中島合戦にも兄・長敦とともに出陣した。新発田隊は穴山信君隊や諸角豊後守隊と激しく闘い、諸角豊後守を討ち取っている。若き源太治長も、奮迅の活躍をしたことであろう。
天正六(1578)年三月、上杉謙信は春日山城内で卒中のため倒れ、三月十三日に死去した。謙信の跡目を巡って、上田長尾氏出身の喜平次景勝と小田原北条氏から養子に入った三郎景虎が対立し、越後の諸将も両派に分かれて内乱となった(御館の乱)。
この乱に際し、新発田長敦、五十公野治長、三条に所領を持つ長沢道如斎(妹婿)らは時運を見計らっていたが、柏崎安田城主・安田顕元(惣八郎匡広とも)の勧誘で景勝方につき、春日山城守備や景虎救援のため出兵してきた武田勝頼との講和などの外交政策で功を挙げた。天正七(1579)年三月十七日、景勝勢の一斉攻撃で御館は炎上、落城し、景虎は実家の小田原城をめざして敗走中の三月二十四日、鮫ヶ尾城で堀江宗親の寝返りで進退窮まって自刃した。景虎に味方した三条城主・神余親綱はその後も抗戦したが、翌天正八(1580)年七月、城内の謀反で神余親綱は自刃し、三条城は落城、越後を二分した大乱「御館の乱」はようやく終結した。
新発田長敦は当然、三条の地は自分か、妹婿の長沢道如斎に賜るものだと思ったであろう。三条は信濃川に面した水運の要衝、同じく蒲原の水運の要衝を押さえる新発田氏にとって、三条の地は喉から手が出るほど欲しかったに違いない。しかし、長敦には病魔が迫っていた。
天正九(1581)年三月、尾張守長敦は病に没し、嗣子がなかったので源太治長が新発田氏を相続し、新発田因幡守重家と名乗った。五十公野氏は長沢道如斎が嗣ぎ五十公野道如斎宗信(義風)と名乗った。しかし、この長敦の死によって重家は御館の乱からの恩賞に漏れ、三条城に上田衆出身の甘粕近江守長重(景持)が入ったことによって、かえって長沢道如斎が持っていた三条の地の利権を失う結果となった。
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長岡市上空7200m附近から見る三条城。下郡(下越地方)と中郡(中越地方)の中間に位置し、信濃川や五十嵐川が織り成す島にあった。度重なる洪水に押し流され、その位置すらわかっていない。ここでは三条競馬場附近という説に従った。 |
阿賀野川・信濃川が織り成す広大な水郷地帯を押さえるためにも、三条の地はなんとしても手にしておきたかった。それがかえって利権を失う結果となり、しかも乱に際してさしたる功もなかった景勝側近の上田衆ばかりが加増される。しかも、この水郷地帯の喉仏を押さえるように、笹岡城には上田衆の今井源右衛門久家が配され、揚北に睨みを利かせた。重家らの恩賞は、兄・長敦の遺領と新発田の名跡の安堵だけであった。重家にとっては「景勝頼むに足らず」の心境であっただろう。重家を景勝陣営に誘った安田顕元は再三に渡って景勝に取り成しを申し入れたが聞き入れられず、重家らに対して申し訳が立たずに終に一通の諌書をしたためて自刃したという。
重家は密かに景勝に謀反を企てていた。
「さても御館一乱に我々味方に集まりける故に館方(景虎勢)次第に弱りて、景勝も本意を達し給う。尤も新発田、五十公野を賜りし事なれど、三条ばらにくらぶれば物の数に非ず。今度の勲賞はさして忠なき者共大所を賜る。か様の事なれば我等に対し、安田、もだし難く思い害身せり。此末とても頼もしき事なし、所詮城に立籠もりて五年も十年も国中を悩まし、此恨みを解散すべし。敵わぬ跡にては自害して、屍を戦場にさらし北越の人々に名を残さん。」
重家、道如斎らは春日山城を暇乞いし、新発田城、五十公野城に帰って籠城の準備に入った。
この重家の不満に目ざとく目をつけたのが、当時越中から越後侵攻を虎視眈々と狙っていた織田信長であった。信長は会津の芦名盛隆を通じて重家に接触し、謀反を誘った。
重家、道如斎は赤谷城主・小田切三河守盛昭、加地城主・加地秀綱ら一族に加えて御館の乱の景虎残党を誘って天正九(1581)年六月十六日、新発田城・五十公野城で遂に挙兵、周囲に広範囲にわたって城砦を築き、八幡の砦には従弟の佐々木長助晴信を、浦村城には家人の山田源八郎を、赤井橋の楯屋敷には榎本玄蕃、池ノ端城には配下の勇将高橋掃部之介を、その他にも方々に城砦を取り立てて景勝の来襲に備えた。また重家は、竹俣壱岐守の支配地であった新潟津を奪取、信濃川と阿賀野川の合流する川中島に新潟城を築き城将に新発田刑部綱之、また沼垂城にも配下の部将をして守らしめ、港湾と糧道を確保した。
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現在の新潟市上空15136m。信濃川、阿賀野川は河口開削や分水工事、治水事業により河道は安定し、別々に日本海に注いでいる。 |
中世の新潟市周辺。信濃川、阿賀野川はひとつになって日本海に注ぎ、周囲は広大な水郷地帯であった。新潟城や沼垂城の比定地はいずれも砂丘や砂洲であっただろうと思われる。 |
現在の新潟市は日本海側を代表する港湾都市として急速に発展を続けているが、当時の新潟津周辺は阿賀野川、信濃川の大河川が織り成す大水郷地帯であり、わずかに河川によって運ばれた土砂の堆積によってできた、島状の砂洲や砂丘が点在していた。新潟城はこの砂洲に築かれたものと思われ、一応現在の白山神社周辺が城地に比定されている。
八月十二日、武田勝頼の家臣である長坂長閑斎光堅、跡部勝資らが仲裁にあたったが効果はなかった。これに対して景勝は、天正十(1582)年正月十日、景勝は平林城主・色部長真、本庄城主・本庄繁長に命じて、新発田勢の北方を警備させた。二月には菱沼(蓼沼)藤七友重、山吉玄蕃允景長らを木場城に派遣して、新発田勢の動向を監視した。景勝は木場城の菱沼、山吉らと笹岡城の今井らに新発田城を攻撃させようとしたが、重家は反撃に出て笹岡城に迫り、大室において激戦となった。
景勝は会津の芦名盛隆が新発田重家に援助することを憂いて、林泉寺の住持・宗鶴を会津に派遣し、その配下の津川城主・金上氏に誓書を求めた。しかし、後に芦名氏は重家に内通していることが発覚する。
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木場城は信濃川水系の中ノ口川の自然堤防上に築かれた平城だった。笹岡城とともに、上杉景勝勢の新発田重家に対する最前線基地となった。 |
笹岡城から新発田城方面を見る。笹岡城は守護・上杉氏が揚北衆を監視するために一門に守らせた番城だった。重家の乱にあたって、その目的がフル機能した。 |
天正十(1582)年三月、武田勝頼を天目山に滅ぼした織田信長は越中魚津城への攻勢を強め、川中島からも森長可が春日山城下に侵攻の気配を見せたため、景勝は自ら越中に出陣した。重家は四月はじめ、兵を水原城、笹岡城などに進めたが菱沼友重、富所定重らが防戦、重家は会津の芦名盛隆に援兵を求めた。五月三日には、本庄繁長、色部長真らが新発田城を攻め、城外を焼き討ちしている。
天正十(1582)年六月二日、本能寺の変が勃発し、織田信長が死去すると、景勝は新発田城に対する攻勢を強めた。八月一日、笹岡城将今井源右衛門久家に攻撃の準備をさせ、板倉式部少輔を遣わして揚北の諸将を勧誘、景勝自らも八月二十日、三条城に入った。九月二日、景勝勢は新発田城、五十公野城、池ノ端城の中間にあたる小坂の地に陣取った。景勝は毎日二組ずつ交代に新発田城附近の村々の田畑を荒らし放火するなど、重家に対し嫌がらせをする一方、築地資豊には居城の築地館の守り固めさせ、本庄繁長には加勢の兵と兵糧を築地館に送らせた。新発田城包囲は長期戦になり、兵糧が乏しく降雪の季節が近いことから、景勝はこの秋、一旦兵を引き揚げた。
天正十一(1583)年二月八日、新発田刑部は木場城を攻め、三月には重家が再び木場城を攻めた。木場城将の菱沼、山吉らも新潟城を攻めたが戦果はなかった。
四月、景勝は自ら新潟津に出陣、新潟城を攻撃するが川岸より三丁ばかりも離れていて鉄砲も届かず苦戦する。この時、景勝方に発知源六なる火矢の達人がいて、兵船十余艘を並べて綱で縛り付け、その上に櫓を組んで川上より流し、川中島の新潟城に押し寄せて櫓の上から火矢を打ち込んだ。火矢は昼夜にわたり五日間城中に打ち込まれ、城内は火の海となるが懸命の消火作業で落城せず、逆に城方の鉄砲によって源六も倒された。景勝は仕方なく兵を納めた。
景勝は八月に再び新発田城を攻めたが、九月二十五日(または十月四日)払暁に陣払いを命じ、陣屋・刈り集めた稲穂に火を掛けて撤退に入った。しかし、退却軍が放生橋に差し掛かった頃、一転して豪雨となり、沼田と濁流の中で立ち往生した。この期を見て重家は新発田城を討って出、池ノ端城主の高橋掃部之介らとともに上杉軍を追撃、途中で隊を二つに分け、歩卒は山の手から、自らは本道から三千騎をもって上杉軍に襲い掛かった(放生橋の合戦)。上杉軍は深田の中の細道で進退の自由を奪われ殿軍の水原城主・杉原右近(水原満家)が討ち死にするなど大混乱に陥った。重家は大身の槍をかざして景勝本陣に駆け寄ったが、高梨外記之助、藤田能登守信吉らが勇戦して辛くも重家の攻撃をかわした。この戦いで、景勝は杉原右近の他、菅名綱輔、上野九兵衛らを失って、水原城は新発田方の手に渡った。
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放生橋(現新発田市法正橋)附近は新発田城からおよそ4km南、上杉軍の最前線基地である笹岡城と新発田城の中間地点に当たる。 |
放生橋周辺は左右から丘陵が迫り、周囲は深田の切所だった。退却する上杉景勝軍に、勝手知ったる新発田重家は猛然と襲い掛かり、あわや本陣まで突き崩される寸前であった。 |
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現在の新発田市法正橋周辺。国道290号が貫通する。「放生橋」という橋があるかどうか探してみたが、わからなかった。 |
上杉軍の最前線基地、笹岡城。沼地に突き出した笹岡城は、揚北に打ち込まれた上杉の楔だった。 |
天正十二(1584)年八月十八日、放生橋の合戦で杉原右近が戦死したため新発田方の細越将監が接収していた水原城を景勝方の藤田能登守、島津左京亮、安田上総介、河田摂津守、直江山城守ら八千が攻めた。寄せ手の上杉勢は佐藤一甫斎が抜きん出て攻めかかると、水原勢はこれと闘っては引き退き、一甫斎はこれに乗じて攻めかけたが、伏兵によって斬り崩された。藤田能登守はこれを見て鉄砲隊を率いて打ち掛けたが、細越将監はものともせずに陣頭に立って敵を切り崩し、藤田能登守の右股を突き貫いたが、やがて寄せ手に囲まれ壮絶な討ち死にを遂げた。景勝は水原城の抑えに笹岡城番の酒井新左衛門を置いた。景勝は自ら本軍を率いて赤谷城の小田切三河守を討とうと進軍したが、重家は手勢三千でこれを八幡に迎撃、銃撃戦の後に乱戦となった。新発田方の浦村城主、山田源八は城を出て横合いから斬り込み、景勝方の小倉、安田らは次第に圧迫されて退き、直江山城守が入れ替わって戦ったが損害大きく、景勝の本陣も危うくなった。この時、上杉(上条)民部大輔義春が浦村城を乗っ取り、向山にも陣を布いて真木山に陣取った大室源次郎とともに新発田勢を挟撃したので、新発田勢は苦戦に陥り、山田源八も討ち死にし、八幡砦も落城した。景勝は新発田城を容易に陥れることは出来ないと判断し、各地に城砦を築いて十一月十六日、春日山城に帰陣した。
天正十三(1585)年六月、景勝は六千五百の軍で新発田城を包囲したが遠巻きにしただけで戦いはなく納馬した。景勝は笹岡城、雷城の丸田周防等に命じて水原城を攻めさせたが、城将の剣持市兵衛、梅津宗三らがよく防いだ。景勝は梅津宗三の身内の梅津伝兵衛に接触し内通を誘い、九月二日、伝兵衛は水原城に火を放ち、混乱の中で剣持市兵衛、梅津宗三は新発田城に退却して水原城は落城した。
一方、新潟、沼垂に玉木屋、若狭屋という町人がいて、長尾為景の時代から代官職を任じられていたが、この両者が藤田能登守と旧縁があったので、内通させることとした。天正十三(1583)年十一月二十日、三条城、黒滝城、天神山城の人数を護摩堂城主・宮島三河守が率いて千五百が砂丘沿いに新潟津に押し寄せた。玉木屋、若狭屋の船は武器を俵に入れて商船のように偽装し、新発田刑部綱之を騙まし討ちした。この後、船団は沼垂城に向かい、城将の武者善兵衛は守りを固めたが、従弟の武者半平は逆心して善兵衛を討ち取り降参、沼垂城も落城し、重家は新潟津周辺の水利権を失った。
天正十五(1587)年六月、上杉家と親交があり、新発田家とも縁がある青蓮院尊朝親王は和睦の勧告の使者を新発田城に送ったが、重家は「此の期に及んで今更おめおめ降参し生き永らえても死に勝る恥である、お請け申さず死は覚悟」と和睦を断った。
天正十五(1587)年七月二十三日、景勝は一万騎を従え新発田城下に侵攻、田畑に放火した。会津の芦名盛隆は新発田へ援軍と兵糧を送ったが、八月二十九日、山内村附近で上杉勢のために迎撃され、半ば戦死して引き揚げた。九月七日、景勝は新発田城攻撃に先立ち、同族の加地秀綱が立て籠もる加地城を攻撃、秀綱は奮戦空しく討ち死にし、加地城は落城した。続いて景勝は会津芦名氏の援軍を断つため赤谷城に向かった。これを知った津川城主・金上氏は後詰を出して景勝軍と一ノ渡戸で闘ったが敗れ、重ねて三百余騎で諏訪峠に至るが、小桶に上杉軍多数が終結していると聞き撤退、赤谷城は孤立した。九月十日、藤田能登守は赤谷城下に達し、対する赤谷城主の小田切三河守は鉄砲数百丁で応戦、藤田勢も苦戦するが、鉄砲三百五十丁を三分に分けて応戦した。この間に別働隊が附近の御露路山に陣を敷き、寺山には景勝自身が陣取って赤谷城を包囲、赤谷勢は徐々に追い詰められ、小田切三河守は上杉の勇将・南詰宮囲助と闘って戦死、城兵以下八百は悉く討ち死にし赤谷城は落城した。これによって、新発田城、五十公野城は完全に孤立した。
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新発田上空3400m附近から加治川上流、赤谷城方面を望む。会津とは「塩の道」会津街道で結ばれ、赤谷城も会津芦名氏の配下であった。重家の妻は、赤谷城の小田切氏の女である。 |
津川城上空4467mから新発田方面を見る。津川城は阿賀野川と常浪川の合流点、名峰「麒麟山」に築かれた堅城だった。津川は当時会津領で、津川城主は芦名氏配下の金上氏であった。 |
九月二十四日、豊臣秀吉の使者の木村源一右衛門が景勝に対面、秀吉の命は「因幡守(重家)、城を出て降参すれば赦すべし」とのものだった。早速景勝はこれを受け、源一右衛門は新発田城に向かい重家を説得したが、重家はこれに応ぜず、源一右衛門も是非なく、景勝にその旨を伝え、秀吉には飛脚を以って報ぜしめた。秀吉からは、「来春までには落着すべし」との厳命が下り、景勝はまず五十公野城を総攻撃した。
十月十三日、景勝は五十公野城を見下ろす高地に陣取り、直江山城守、泉沢河内守、藤田能登守らが五十公野城を攻撃した。十月二十三日、安田、小倉の二隊は搦手の深田に木材を切り倒して渡し、新手を入れ替えながら攻め寄せたが、五十公野道如斎自ら搦手の外に討って出て、寄せ手を辟易させた。しかしこの時、五十公野城内で内通者が敵を城内に引き入れたため大混乱に陥り、道如斎は馬上から引き落とされ首級を挙げられた。五十公野城は城兵一千余が討ち死にして落城した。
五十公野城を失った重家は城内を清めさせ、最後の一戦を迎えようとしていた。十月二十四日、景勝は直江山城守を前備えに、藤田能登守は猿橋の出城に、泉沢河内守は池ノ端城の備えに配置し、新発田城を包囲した。十月二十五日夜半、安田上総介は搦手から押し寄せ、一の木戸の町屋に放火、これを見た重家は数十騎を率いて討って出、四方八方斬りまくったが、猿橋の出城の城将、猿橋和泉守が藤田勢に内通し砦を明渡したため、藤田勢は二ノ丸大手門まで押し寄せた。重家は城中の屋敷の障子を一面に取り払わせ、鼓太鼓を打たせて最後の酒宴をしていたが、敵の乱入を聞き、染月毛の馬に跨って七百余騎を率いて最後の突撃を行った。さんざんに斬りまくった後、数十騎に討ち減らされ、重家は今はこれまでと色部修理大夫長真の陣に駆け入り、大音声で
「親戚のよしみを以って、我が首を与えるぞ。誰かある。首を取れ」
と呼ばわり、甲冑を脱ぎ捨てて腹を掻き切った。色部の家臣・嶺岸佐左衛門が走り寄り、首級を挙げて本陣へ送った。ここに、足掛け七年に渡った「新発田重家の乱」はようやく終結し、景勝は新発田城代に、信頼の置ける上田衆を交代で在番させた。十月二十五日、あるいは二十八日のことともいう。