新発田重家の乱の張本人、重家は新発田城主・尾張守長敦の弟で、はじめ源太治長を名乗り五十公野氏を嗣ぎました。上杉謙信の小田原城攻めや第四次川中島合戦などでも勇名を轟かせた剛勇の将だったといいます。「御館の乱」では兄・長敦とともに景勝に味方し、軍事だけでなく越後に侵攻した武田勝頼との和議などにも奔走、外交の才も披露します。しかし、御館の乱後、長敦は病死、因幡守重家と名を変えた源太治長はわずかに新発田の名跡を嗣ぐことを許されただけでした。のみならず、妹婿の長沢道如斎が五十公野氏を嗣ぐことになった結果、長沢道如斎が三条町奉行として持っていた三条の地の利権を失う結果ともなってしまうのです。長沢道如斎信宗はもとは能登国湯山城代・長沢筑後守の小姓で、謙信が永禄十二(1569)年に能登を攻略した際に上杉家に仕え、謙信の寵遇を得、やがて三条の町奉行として「三条道如斎」を名乗ります。三条の地は三条城に神余親綱がおり、「御館の乱」では最後の最後まで景勝に反抗した土地ですが、この地において景勝側についた三条道如斎の決断は景勝にとっても大きかったことでしょう。当然、重家は三条の地は道如斎を通じて新発田氏領として賜るものだ、と思っていたはずです。結局重家は道如斎を誘って新潟津などを横領、景勝との全面対決に発展し、足掛け七年にも及ぶ戦闘の後、新発田城も五十公野城も陥落して果ててしまいます。
最後の城主となった五十公野道如斎の最期はあわれなものでした。寄せ手は直江山城守兼続、藤田能登守信吉などそうそうたる面々です。天正十五(1587)年十月十三日、景勝は五十公野城の東の峰続きに本陣を構え、火矢・大砲を撃ちかけます。そのとき城内では早くも内応者が出て、自らの助命を条件に主人・道如斎を討ち取ろう、と申し出るありさま、しかもこれが道如斎の家老・河瀬次太夫、近習の渋谷などの面々だったというから人の情けなど儚いものです。
攻防は十月二十日、藤田信吉隊が竹束を楯に山の山腹にへばり着くも、城内からも伏兵を置いて防ぐなど、内通者以外の城兵はまだ士気盛んであったようです。翌日には安田上総介、小倉伊勢守定景らが搦手から押し寄せ、道如斎もまた城門を開いて討って出たのですが、これが実は内応者を誘う陽動作戦で、この隙に藤田信吉隊が木戸に迫ったところ、内通者が城門を開け放ってこれを引き入れたため、道如斎は慌てて撤収せざるを得ませんでした。混乱に乗じて搦手の寄せ手も木戸を押し破って乱入、二ノ丸に火を放ったため、やむなく道如斎は本丸に入ろうとしたその矢先、「ニの見橋」の上で内通者の羽黒権太夫が馬上よりこれを引きずりおろし、そこを渋谷、河瀬らに頸を掻き切られてしまったという。この後味の悪い裏切りの模様は、有名な「管窺武鑑」においても「人の所為に非ず、畜類すら情けあり、語る口の汚なり」と手ひどくコキおろしています。
激しい攻防の末に落城した五十公野城ですが、ハッキリ言って小城です。丘陵地帯の突端部に構築された五十公野城は「要害」には程遠く、二重の堀切などは規模が大きいですが、その他はこれといった防備ではありません。戦国の時代にはすでに時代遅れに近かったことでしょう。さらに尾根続きに景勝の本陣が置かれた、という状況を考えても、上杉景勝の大軍勢がこの城を陥とすのにてこずった理由がよくわかりません。よほど城主や城兵の士気が高かった、と見るべきなのでしょうか。
主郭は仕切り土塁によって二分されており、周囲には若干の腰曲輪がありますが、比高は30mほどしかなく、いかにも心細い地形です。新発田東部中学校が居館部にあたりますが、この方面は丘陵が土取りによって消滅しているため、往時の縄張りは見ることが出来ません。東の尾根続きには「上杉景勝着陣の地」の遺構があるそうですが、こちらはいまだ場所を特定できていません。
周囲には寺社が多く、江戸期に新発田城主としてこの地方を治めた溝口氏の菩提寺もあります。その寺の前、旧県知事公舎跡のすぐそばには溝口氏時代の「五十公野茶屋」がありますが、土塁らしき遺構があります。溝口氏は新発田城を大改修する間、この五十公野に居館を構えたというので、その遺構かもしれません。
[2004.08.29]