加地城主の加地氏は現在の新発田市、加治川村を中心とした加地庄地頭として栄え、新発田氏、五十公野氏、竹俣氏などの多くの支族を輩出した名門でした。しかし、御館の乱後、上杉氏に叛旗を翻した一族の新発田重家の乱で上杉氏と対立、景勝の軍勢に攻め込まれ落城します。その後は上杉氏に仕えたようですが直臣扱いではなかったらしく、軍役帳でも「加地某」とナニガシ扱いされています。上杉氏の会津移封後は多くの諸侯が会津へ同道する中、加地氏はこの地に残ります。その後のことはよく分かりませんが、一族の中には帰農したか、あるいは新発田城に入城した新発田藩・溝口氏の藩士になった者もいたことでしょう。
加地城は日本一小さな山脈・櫛型山脈の南端に位置し、加治川・坂井川などの加治川水系の河川が織り成す広大な氾濫原を眼下に控える絶好の場所にあります。かつてこの加治川水系は大きく南に蛇行して阿賀野川に注ぎ込んでいました。またすぐ北には広大な塩津潟(紫雲寺潟)を控え、その先は奥山荘に繋がっています。つまりこの加地荘と加地城は、水運で新潟津から加地荘内全域、そして奥山荘まで水運で結ばれる、重要な位置を占めていました。いまや塩津潟は干拓で跡形もなく美田に生まれ変わり、加治川も開削されて直接日本海に注いでいるため、当時の面影は加治川の旧河道である新発田川にわずかに見られるだけになってしまいましたが、新発田重家の叛乱では、この水運をフルに活用して新潟津(現新潟市)から三条島(現三条市)までに至る広大な範囲を占拠し、景勝を大いに苦しませています。加地要害山の南500mには坂井川が流れていますが、その旧河道は要害山の山麓を取り囲むように流れていました。この旧河道は現在は水田となっていますが、周囲に比べて非常に低地で、田植え前の水の張られた景色を見ると、まるで深い沼のように見えます。
2002年5月5日に再訪。加地城の要害山へのアプローチは、藤戸神社付近から「学びの山道」という山道が通じており、山頂付近は下草も刈られて、新発田市周辺の広大な平地を見渡すことができます。はじめて行った際にはこの道が草だらけで安全をとって見学を断念しましたが、今回はきれいに草も刈られ、歩きやすい道になっていました。多少急な箇所もありますが全体に歩くのは楽で、藤戸神社から20分強で山頂に達します。見学に来られる際は、この藤戸神社をまず目印にするといいでしょう。要害山そのものはどこから見ても中世山城の格好をしているので、多分すぐわかると思います。
2004年3月21日、雪解け直後の加地城を歩いてきました。鳥瞰図ほか、掲載します。
【加地城の構造】
加地佐々木氏累代の居城である加地城は櫛形山脈南端、標高165mの通称「要害山」にある。眼下には加地庄・菅名庄の広大な低地と福島潟・塩津潟などの湿地帯を臨む位置にある。現在は南に500mほどのところを加治川支流である坂井川が流れているが、中世期には坂井川は要害山直下を流れ、加治川(当時の新発田川)とは合流せずに塩津潟へと流れていた。直接的にはこの坂井川を天然の外堀としている。
要害山へは山麓近くの藤戸神社から自然観察道「学びの道」が延びている。この道は自然観察のために整備されたものであるが、一部を除いてほぼ当時の大手道に相当するだろう。居館は藤戸神社の東300mほどの段丘上にあったらしい。そこは現在墓地になっていて、改変が甚だしく構造は読み取れない。しかし、現在の藤戸神社も恐らく城域の一部として取り入れられていたと推測する。
加地城の要害は大堀切3によって、大きく二つに分かれている。この地方には要害部を高低の二つの城域に区画して「奥要害」「前要害」と称している例が多く認められる(猿沢城、大川城、黒川城など)。多くは更に居館部も防御力の高い館城とし、居館部の背後の高台には物見を兼ねた陣地を備えている。加地城も構造的にはそうした城のひとつであると考えられる。この加地城でいえば、墓地となっている居館部、その後ろ盾である藤戸神社、さらに堀切3の西側、Y曲輪を頂点とする前要害、東側のT曲輪を頂点とする奥要害、ということになるだろう。
最高所の主郭であるT曲輪は30m×30mほどの広さがあり、この地方の城郭としては広い方に入る。主郭からは三方に尾根が延びており、西側の尾根が大手筋にあたると思われる。この西側の尾根には数段の小曲輪を設け、その下段には大堀切3に面して小規模な外枡形虎口があり、大堀切3を通過する土橋と接続している。この虎口の頭上には土塁を伴う小曲輪があり、敵の侵入を頭上から抑えている。主郭の北側から西側にかけては広い曲輪Uがあり、北側に延びる尾根にはV〜Xの曲輪群と堀切9〜12が続いている。最も防備が厳重なのはこの北側の櫛形山脈に続く尾根で、複数の曲輪、堀切、出丸とも解釈できるW曲輪などが延々と続く。この尾根は途中で大きく東に向きを変え、加地城との関連が想定される麓城、滝城などに繋がっている。この方面の防御が固いのは櫛型山脈からの尾根伝いの攻撃を遮断するためであろう。具体的には中条氏への脅威に備えたものか。応永の乱や上杉定実の後嗣をめぐる対立で、加地氏や新発田氏らの佐々木一族と中条氏はよく対立していたようだ。更に新発田重家の乱に際して、敵主力である色部・本庄・築地らの勢力に備えたものかもしれない(菅谷城の頁参照)。ただし、概して堀切等の施工規模は大きくはない。東南側の尾根は二条の堀切があり、その先は急激に下っている。
城内を二分する大堀切3は堀底幅10mにも達する巨大なものであるが、完全に人工のものというよりも自然の谷戸地形を利用して加工したものだろう。ふたつの城域は土橋によってのみ繋がっている。前要害に当たる西峰の最高所、Y曲輪の大堀切側には櫓台状の土壇がある。その曲輪を中心に、半円形に桟敷段状の帯曲輪が取り巻いている。基本的に旧い構造ではあるが、この西峰だけでも立派にひとつの山城として成立しそうな体裁である。この西峰には竪堀6がある。また、この桟敷段状の曲輪の最下段の南西側は、塁線から想像すると連続竪堀が設けられたかもしれないが、山腹の崩落によりはっきりとはわからない。ただ、堀4・5の連続堀切などを見ても、旧い山城に改修を加えた跡が見てとれる。
加地城は決して大きな城でも技巧的な城でもないが、名門の本拠に相応しい内容を備えている。おそらく上杉氏による直接的な改修は行われていないと思われるため、純粋な揚北の国人領主による築城手法を見ることができる。多少の崩落や埋没はあっても遺構はほぼ完存状態であり、この地方の典型的な山城を見る上で貴重な存在である。
[2004.07.10]