新発田氏を支えきれなかった悲劇の城

赤谷城

あかだにじょう Akadani-Jo

別名:

新潟県新発田市上赤谷

 

城の種別

山城

築城時期

天正九(1581)年頃

築城者

小田切三河守

主要城主

小田切氏

遺構

曲輪、堀切、井戸跡

赤谷城遠景<<2002年05月05日>>

歴史

もともと鎌倉初期に築城された笠萱城が飯豊川対岸の要害山にあった。天正九(1581)年に新発田城の新発田重家が上杉景勝に反抗して挙兵した際には、新発田氏を支えるため、会津芦名氏の被官であった小田切三河守が守備していたが、古城の笠萱城では上杉の大軍を支えきれないとして、飯豊川対岸の関ヶ峰に新城である赤谷城を急遽取り立てて籠城した。芦名氏・小田切氏は新発田城の糧道確保のために赤谷城に籠城したが、上杉景勝は新発田城攻囲のためにはこの糧道遮断が必要と判断し、天正十五(1587)年八月、自ら大軍を率いて赤谷城の東に対面する丘に本陣を置き、根古屋と関ヶ峰の要害を攻めた。まず根古屋が陥落し、城兵は赤谷城の要害に立て籠ったが、わずか一日で落城し、小田切三河守以下城兵は全滅した(新発田重家の乱)。

幕末の動乱では、明治元(1868)年にこの付近の角石原で会津軍と新政府軍が激戦を繰り広げた。

新発田重家の叛乱に際して重要な役割を果たした会津芦名氏。新発田重家が上杉景勝に叛旗を翻した原因は複数あるようですが、その一つには会津芦名氏による調略がありました。この芦名氏の調略には当時、北陸の戦線で上杉景勝と激戦を繰り広げていた織田信長の意向が大いに関連しています。この芦名氏から派遣された小田切氏が築いたのがこの赤谷城です。この山深い里にも、「天下布武」最終章に向けて野望を積み重ねていた織田信長の意向が関係していたというのは、非常に不思議な感じがします。

もともとは現在の「内ノ倉ダム」のダムサイトの山、要害山にあった笠萱城が前身でしたが、小田切氏は上杉景勝との対決に及んで、新たにこの赤谷城を急遽取り立てます。しかし笠萱城のある要害山は飯豊川と内ノ倉川の合流点にある非常に高峻な山城で、堅固さから言えば絶対この笠萱城の方が適していたと思うのですがどうでしょう。とくに小田切氏はこの会津街道沿いに糧道を確保すればよかったわけで、決して大軍で籠城する必要もなく、どちらかといえば小規模でも攻めにくい高峻な要害を点々と配置する方が効果的だったのではないでしょうか。この新城である赤谷城は景勝の攻撃でわずか一日で陥落、城主以下全員が討ち死にしたと言われます。多勢に無勢、ということも事実でしょうが、あくまで結果論ではありますが、、やはり策戦ミス?と思いますね。

この地は会津から新発田方面に向かう街道の要衝でもあり、「塩の道」でもありました。平時は街道の番城として機能したことでしょう。そういった地勢からも、会津の影響を常に受けていたようで、幕末に至っても新政府軍と会津軍の激戦が繰り広げられるような場所でした。時代の変わり目に二度に渡って大きな悲劇を経験した場所なんですね。この上赤谷という集落自体が屈折した街道や河岸段丘上の立地など、「城砦集落」とも呼べるような構造をしていて、そちらも興味があります。なお肝心の遺構は、雨のためと、あちこちに「入山禁止」の看板が立っているため見ていません。

飯豊川対岸からの遠景。言っちゃなんだが「エッこれがわざわざ取り立てた新城?」と思うほど、貧弱な姿に見えます。笠萱城を廃城にした理由がよくわかりません。

城下に佇む「角石原古戦場」の碑。幕末に会津軍と新政府軍が激戦を繰り広げた地。

城とは全然関係ありませんが、この赤谷集落にはかつて「国鉄赤谷線」が走っていて、ところどころにその廃線跡の線路敷き、駅舎跡、鉄橋跡などが残ります。これらの「遺構」も結構貴重で、とくに「廃線マニア」と呼ばれている人たちにはタマラン場所ではないでしょうか。

 

 

交通アクセス

北陸自動車道「新潟空港」ICより車80分。

JR羽越・白新線「新発田」駅よりバス。

周辺地情報

古城の笠萱城が近いですが登るルートがあるかどうかわかりません。内ノ倉ダム水源地なので入山禁止かもしれません。近隣では新発田城や「奥山庄歴史の広場(江上館)」などがオススメです。

関連サイト

中世観測衛星「えちご」』コーナーの「新発田重家の乱」もご覧下さい。

 
参考文献 「図説中世の越後」(大家健/野島出版)、「日本城郭大系」(新人物往来社)
参考サイト  

 

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