山間をゆったり流れてきた大河・阿賀野川が広々とした平野に出るその場所に安田城はあります。西側は阿賀野川下流域の広大な氾濫原、会津街道と北国街道が交差する要衝の地でもありました。標高18mの安田城附近は直接的に阿賀野川の水害に悩まされることもなく、中世に於いては絶好の生産地でもあったでしょう。
戦国期に活躍した安田治部少輔長秀は、川中島合戦でも信玄のせがれ、義信を追い回して大活躍、「血染めの感状」を賜っています。天正三(1575)年の「上杉家軍役帳」では「安田新太郎」の名が見え、計148名の軍役を負っています。
安田城はその跡地に町の体育館や野球場などの総合施設が出来たこともあり、あまり期待せずに行ってみたのですが、それに反して遺構はなかなかよく残っていました。主郭は児童公園となり、教習所っぽい信号やら横断歩道やらが設置されていますが、方形の形はよく残り、周囲の水堀も風情があります。一部には櫓台状の土塁も見られました。おそらくここも、方形の居館から平城へと進化していったお城なのでしょう。その外側の二郭には前述の体育館などが建ち並んでいますが、西から南へかけての堀跡や、かつての堀であった沼などが良好に残っていました。さらに農業用水である阿賀野川右岸水路の対岸には、東側の曲輪とそれを取り巻く外堀が農地となってよく残っています。市街地化ですっかり・・・なんて思っていましたが、これくらい残っていればまずまず合格点です。もっとも、安田城は近世に堀氏が二十八年間在城していたので、必ずしも安田氏時代の遺構であるとは限りませんが。