大河に消えた蒲原の要衝

三条城

さんじょうじょう Sanjou-Jo

別名:三条嶋城

新潟県三条市上須頃付近?

(三条競馬場周辺)

  

城の種別 平城(川城)

築城時期

不明

築城者

三条長尾氏?

主要城主

三条長尾氏、山吉氏、神余氏、甘粕氏 他

遺構

伝・移築現存門(市内 法華宗本成寺黒門)

本成寺の伝・三条城移築城門<<2001年8月17日>>

歴史

古くは平安期に三条左衛門が築き、前九年の役(1056-63)の後、安倍貞任の郎党、黒鳥兵衛が攻め落としたというが定かではなく、伝説の域を出ない。南北朝期には三条周辺に勢力を持つ池氏が南朝方として活躍するが、三条城との関係は不明である。また、上杉氏が越後守護に任じられてから、守護代として越後に入国した長尾氏が蒲原郡代を兼ねて三条城を築いたともされる(三条長尾氏)が、確実な記録では応永年間に三条嶋城主として山吉大炊介久盛が現れるのが最も古い。

応永三十(1423)年、室町将軍・足利義量と関東公方・足利持氏の関係が悪化すると、越後守護の上杉房朝と守護代の長尾邦景の関係も悪化し、守護方は鳥坂城主・中条房資、黒川城主・黒川基実、加地氏、新発田氏らに命じて守護代方の山吉久盛が守る三条城(三条嶋城)を攻めさせたが、黒川・加地・新発田らが離反して軍を引き返したため三条城は落城せず、中条房資は水原堀越要害で切腹寸前の窮地に陥った。その後応永三十三(1426)年再び中条、加地、新発田氏らが三条城を攻めたがこのときも加地・新発田の離反により攻撃が失敗に終わっている。

永正四(1507)年からの、守護・上杉房能、関東管領・上杉顕定と守護代・長尾為景が争った「永正の乱」では山吉能盛は為景に味方していたが、一族の山吉孫次郎は房能に味方するなど、一族が分裂した。永正七(1510)年には上杉顕定が三条要害際で一戦をまじえたことを関東の久下信濃守に報じている。為景は上杉顕定により一度は越後を追われ、越中、佐渡に逃れたが、永正七(1510)年四月二十日には蒲原津へ上陸、六月上旬には寺泊に進んだ。顕定は黒滝城に八条修理と桃井氏を配して寺泊の為景本隊と三条城の連絡を遮断しようとしている。後に為景は上杉顕定を長森原で討ち取っている。

為景は上条上杉氏の定実を守護に擁立したが、次第に関係が悪化し、定実、上条定憲らと為景が対立した。このときに山吉政盛は為景に属し、天文四(1535)年九月には下倉山城の福王寺孝重を救援している。

永禄二(1559)年の長尾景虎(上杉謙信)の上洛に際しては山吉孫次郎豊守が景虎に太刀を献じている。豊守は上杉謙信の配下で奏者として活躍し、永禄九(1566)年から十(1567)年にかけて、関東諸将や甲斐の武田氏、駿河の今川氏、会津の芦名氏などとの外交に従事した。また永禄十二(1569)年から十三(1570)年にかけては、小田原北条氏との和睦に奔走した。その間、三条城には豊守の叔父にあたる山吉景久(一悠斎)が城代として置かれていたという。天正三(1575)年には山吉氏は377名という、上杉氏の家中で最大の軍役数を負っている。

山吉豊守が天正五(1577)年九月に死去すると、嗣子がなかったために弟の景長が家督を嗣いだが、領地は半減されて木場城に移され、三条城には神余親綱が入った。

天正六(1578)年三月十三日、上杉謙信の急死により、養子の景勝と三郎景虎の間で家督相続の内紛が勃発した(御館の乱)。このとき神余親綱は当初景勝につくような態度を見せていたが、五月には栃尾城主の本庄秀綱と示し合わせて景虎に与し、景勝に対抗した。景勝は七月に黒滝城主の山岸氏に命じて神余親綱の帰服勧誘工作を行ったが、親綱はこれに応じず黒滝城を攻めた。三郎景虎は翌天正七(1579)年三月十七日、御館が落城すると鮫ヶ尾城に逃れたが、城将・堀江宗親の離反により三月二十四日、自刃した。

景虎死後も神余親綱は景勝に抵抗を続け、十月には再三にわたって黒滝城を攻撃している。翌天正八(1580)年四月には景勝自身が出馬し、三条城栃尾城などを攻めたが落城させることができず、いったん引き返している。その後親綱は菅名綱輔を介して景勝との和睦を申し入れたが成立せず、天正八(1580)年六月、木場城将の山吉景長が三条城内の旧臣に呼びかけて内応を誘い、六月二十日ごろに三条城は落城、親綱は自刃した。景勝は三条城を応急普請の上、甘粕近江守長重を城将に据えた。天正九年に勃発した新発田重家の乱においても、三条城は上杉景勝の中継拠点として度々利用された。

慶長三(1598)年の上杉景勝の会津移封後は堀直清が三条城主となったが、慶長五(1600)年の「関ヶ原」の役に関連して越後国内では上杉氏の旧臣を中心とした一揆の攻囲にあい苦戦した。堀直清が改易となると三条城はいったん廃城となった。元和二(1616)年、市橋下総守長勝が三条城主に任じられ、信濃川の対岸東側にあらたに城地を定めて築城した。市橋氏は在城五年で改易となり、稲垣重綱が在番し、牧野忠成の預かりとなったが、寛永十九(1642)年、幕命により破却された。

三条という場所は信濃川の乱流地帯にあり、信濃川本流のほか、中之口川、五十嵐川、刈谷田川などの支枝流が合分流を繰り返す水郷地帯でした。2004年7月、五十嵐川、刈谷田川が集中豪雨で決壊し、三条市や中之島町などに甚大な被害をもたらしたのは記憶に新しいでしょう。三条はこうした河川の集まる地形から、蒲原平野(新潟平野)の要衝として栄えた商業都市でした。本成寺という強大な宗教勢力の存在も大きかったでしょう。長尾景虎(上杉謙信)に連なる越後府中長尾氏はもともと蒲原郡代兼守護代としてこの三条の地を拠点にしており、室町期・戦国期に城主を務めた山吉氏ももともとはこの三条長尾氏の被官であったようです。応永の乱に際しては三条城は再三にわたり守護方の攻撃目標となるものの揚北諸将の離反などでなんとか生き残り、為景の下克上のころには本成寺の僧兵たちとともに為景に味方しています。

ところで、海音寺潮五郎の「天と地と」においては、若き日の景虎(謙信)が栃尾城に入城したとき、栃尾城を攻めた諸将の中に三条城主・長尾平六俊景という人物が出てきます。のちに景虎は火の出るような攻防戦の後、三条城を焼き払って平六俊景も戦死するのですが、これは江戸期に書かれた「北越軍談」などの軍記物の影響によるもので、実際には三条城主には山吉氏がおり、景虎の味方として活躍しています。長尾平六という人物は実在はしたようですが、これよりはるか前の永正十一(1514)年に坂戸城の攻防で戦死しています。どうも「天と地と」のイメージが強かったのですが、史実は全然違うということで少々意表を衝かれました。

御館の乱に際しては神余親綱が景勝に頑強に抵抗、三郎景虎の死後も景勝に抗い続け、天正八(1580)年にようやく城内からの内応によって三条城は平定されます。神余親綱という人物は上杉謙信時代の京都在番役で、朝廷や足利将軍家との取次ぎを任じられていたことで知られており、文人のイメージがあるのですが、この御館の乱に際しては意外なほどの武人ぶりを見せています。同時に三郎景虎死後も景勝に屈しなかったところにこの乱の隠れた本質のひとつが見えるようです。このとき城内で内応したのは、木場城に移された山吉氏の旧臣たちでした。親綱は三条とは地縁を持たず、配下はみな主従意識の薄い連中であったことが不幸でありました。おそらく、領地を半減されて木場城にいた山吉氏は旧領回復を狙う気持ちもあったのでしょう。乱後、三条領の約半分が山吉氏に与えられています。このとき長沢道如斎が三条町奉行の地位を解任されて五十公野氏を嗣ぐことになり、新発田重家が新発田城主の地位を嗣ぐのですが、この論巧行賞のゴタゴタが新発田重家の乱のキッカケのひとつともなります。この新発田重家の乱においても三条城は上杉景勝側の重要な拠点として笹岡城木場城などとともに死守され、景勝も出馬の都度この地に立ち寄っています。

こうして戦乱の世を切り抜けた三条城でしたが、最後にして最大の敵は「川」でした。江戸期に入ってからの河道変化で三条城は直接信濃川本流に侵食されはじめ、元和二(1616)年に市橋氏が新たに近世三条城を築くころには原型を留めぬほど崩落していたようです。この古い「三条嶋城」は江戸期にすでにその面影が完全に失われ、場所も縄張りも明らかではありません。江戸後期に描かれた絵図があることはあるのですが、近世的な建物の配置などを見るにつけ、むしろ三条城の姿がいかに失われてしまったかを証明するような結果になっています。これは完全に想像図に過ぎないものでしょう。そして新・三条城もいつしか河川と市街地の中に埋没してゆき、こちらも面影を語るものはなにもありません。

その三条城(三条嶋城)があったとされるのは信濃川本流と中之口川に挟まれた、文字通り島状の地形の須頃島(河中島、現在の燕三条駅や三条燕ICがある)、瑞雲橋の西詰から三条大橋にかけての信濃川左岸、おおよそ旧三条競馬場からその附近の河床一帯であろう、と見られています。遺構どころか場所すらも曖昧なのですが、本成寺の山門は中世のものか近世のものかはわかりませんが、三条城の城門である、と伝えられています。

河川とともに生き、河川と戦い、河川の中に消えていった三条城。もはやお城の面影はありませんが、本成寺附近は強大な寺社とその門前町の雰囲気を大いに残しています。願わくばもう、悲惨な水害が二度と起こることのありませぬよう・・・・。

[2004.09.01]

信濃川対岸から「三条嶋城」比定地を見る。三条競馬場周辺、および信濃川の河床附近にあったと見られています。 その三条競馬場。もちろんお城らしい遺構などどこにもありません。大河の乱流がすべてを押し流してしまいました。
市内の法華宗本成寺の黒門は伝・三条城の城門。この附近も平成十六(2004)年の水害でかなりの浸水があったといいます。文化財の被害も心配です。 中世の大寺院の名残を残す本成寺。強大な宗教勢力として君臨し、山吉氏とともに長尾為景を援けて為景から寺領の寄進を受けています。

 

交通アクセス

北陸自動車道「三条燕」ICより車10分。

JR弥彦線「北三条」駅より10分。

周辺地情報

三条市内には大崎城、如法寺城などの中世山城がありますが未訪問。

関連サイト

 

 

参考文献

「三条市史」

「新発田市史」

「菖蒲城物語」(角田夏夫/北方文化博物館)

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

 

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