古くは平安期に三条左衛門が築き、前九年の役(1056-63)の後、安倍貞任の郎党、黒鳥兵衛が攻め落としたというが定かではなく、伝説の域を出ない。南北朝期には三条周辺に勢力を持つ池氏が南朝方として活躍するが、三条城との関係は不明である。また、上杉氏が越後守護に任じられてから、守護代として越後に入国した長尾氏が蒲原郡代を兼ねて三条城を築いたともされる(三条長尾氏)が、確実な記録では応永年間に三条嶋城主として山吉大炊介久盛が現れるのが最も古い。
応永三十(1423)年、室町将軍・足利義量と関東公方・足利持氏の関係が悪化すると、越後守護の上杉房朝と守護代の長尾邦景の関係も悪化し、守護方は鳥坂城主・中条房資、黒川城主・黒川基実、加地氏、新発田氏らに命じて守護代方の山吉久盛が守る三条城(三条嶋城)を攻めさせたが、黒川・加地・新発田らが離反して軍を引き返したため三条城は落城せず、中条房資は水原堀越要害で切腹寸前の窮地に陥った。その後応永三十三(1426)年再び中条、加地、新発田氏らが三条城を攻めたがこのときも加地・新発田の離反により攻撃が失敗に終わっている。
永正四(1507)年からの、守護・上杉房能、関東管領・上杉顕定と守護代・長尾為景が争った「永正の乱」では山吉能盛は為景に味方していたが、一族の山吉孫次郎は房能に味方するなど、一族が分裂した。永正七(1510)年には上杉顕定が三条要害際で一戦をまじえたことを関東の久下信濃守に報じている。為景は上杉顕定により一度は越後を追われ、越中、佐渡に逃れたが、永正七(1510)年四月二十日には蒲原津へ上陸、六月上旬には寺泊に進んだ。顕定は黒滝城に八条修理と桃井氏を配して寺泊の為景本隊と三条城の連絡を遮断しようとしている。後に為景は上杉顕定を長森原で討ち取っている。
為景は上条上杉氏の定実を守護に擁立したが、次第に関係が悪化し、定実、上条定憲らと為景が対立した。このときに山吉政盛は為景に属し、天文四(1535)年九月には下倉山城の福王寺孝重を救援している。
永禄二(1559)年の長尾景虎(上杉謙信)の上洛に際しては山吉孫次郎豊守が景虎に太刀を献じている。豊守は上杉謙信の配下で奏者として活躍し、永禄九(1566)年から十(1567)年にかけて、関東諸将や甲斐の武田氏、駿河の今川氏、会津の芦名氏などとの外交に従事した。また永禄十二(1569)年から十三(1570)年にかけては、小田原北条氏との和睦に奔走した。その間、三条城には豊守の叔父にあたる山吉景久(一悠斎)が城代として置かれていたという。天正三(1575)年には山吉氏は377名という、上杉氏の家中で最大の軍役数を負っている。
山吉豊守が天正五(1577)年九月に死去すると、嗣子がなかったために弟の景長が家督を嗣いだが、領地は半減されて木場城に移され、三条城には神余親綱が入った。
天正六(1578)年三月十三日、上杉謙信の急死により、養子の景勝と三郎景虎の間で家督相続の内紛が勃発した(御館の乱)。このとき神余親綱は当初景勝につくような態度を見せていたが、五月には栃尾城主の本庄秀綱と示し合わせて景虎に与し、景勝に対抗した。景勝は七月に黒滝城主の山岸氏に命じて神余親綱の帰服勧誘工作を行ったが、親綱はこれに応じず黒滝城を攻めた。三郎景虎は翌天正七(1579)年三月十七日、御館が落城すると鮫ヶ尾城に逃れたが、城将・堀江宗親の離反により三月二十四日、自刃した。
景虎死後も神余親綱は景勝に抵抗を続け、十月には再三にわたって黒滝城を攻撃している。翌天正八(1580)年四月には景勝自身が出馬し、三条城・栃尾城などを攻めたが落城させることができず、いったん引き返している。その後親綱は菅名綱輔を介して景勝との和睦を申し入れたが成立せず、天正八(1580)年六月、木場城将の山吉景長が三条城内の旧臣に呼びかけて内応を誘い、六月二十日ごろに三条城は落城、親綱は自刃した。景勝は三条城を応急普請の上、甘粕近江守長重を城将に据えた。天正九年に勃発した新発田重家の乱においても、三条城は上杉景勝の中継拠点として度々利用された。
慶長三(1598)年の上杉景勝の会津移封後は堀直清が三条城主となったが、慶長五(1600)年の「関ヶ原」の役に関連して越後国内では上杉氏の旧臣を中心とした一揆の攻囲にあい苦戦した。堀直清が改易となると三条城はいったん廃城となった。元和二(1616)年、市橋下総守長勝が三条城主に任じられ、信濃川の対岸東側にあらたに城地を定めて築城した。市橋氏は在城五年で改易となり、稲垣重綱が在番し、牧野忠成の預かりとなったが、寛永十九(1642)年、幕命により破却された。