新発田城散策(2)

二ノ丸〜三ノ丸・外郭

新発田城周辺地図

(現地案内板より:クリックすると拡大します)

二ノ丸以下は大半が市街地となっていますが、堀際の一角が公園として整備されました。中央のステージは竣工を祝うイベント用のものです。 自衛隊新発田駐屯地。屋根に鯱が乗っているのがいい味出しています。思わず「戦国自衛隊」という言葉が脳裏に浮かぶのは・・・俺だけか。自衛隊敷地の裏手附近はかつて新発田重家の時代の新発田城であったという「古丸」にあたります。
「二ノ丸西の門」の案内板。場所はここではなく、ずっと奥の自衛隊敷地内でした。櫓門と高麗門を持つ枡形であったということです。 「西の門脇櫓」の看板。これも本来の位置ははるか奥です。「正保城絵図」にも描かれた二層の櫓で、三度も焼失しては都度再建されたそうです。
二ノ丸隅櫓跡。隅櫓は解体され、本丸鉄砲櫓跡に移築されています。その櫓の本来の場所です。 自衛隊敷地の周囲の道路はかつての古丸堀跡か。ところどころこんな低地があって、なんとなく面影を残しているような。
古丸北東角の「丑寅櫓」、三階櫓にも通じる、L字の平面を持つ特異な二階櫓でした。二度の大火をくぐり抜けて残りましたが、残念ながら現存はしていません。 古丸北東の「稲荷門」跡。正保の大火の後で設けられた、高麗門単独の門であったそうです。背後の土盛りは自衛隊の施設で、遺構ではありません。

「二ノ丸東櫓」の案内板。これも実際の位置は奥の病院敷地内です。寛文八(1668)年の大火で焼失しましたが、その後再建されました。 二ノ丸南東角の「西櫓」跡。「正保城絵図」にも描かれた二層の櫓で、寛文八(1668)年の大火で焼失しましたが、その後再建されました。

変則的な交差点になっている「大手中の門」、二ノ丸南側の大手口にあたります。高麗門と櫓門による枡形であったということです。 「大手中の門脇櫓」の案内板。もともとは番所と長屋があるだけでしたが、江戸中期の寛保三(1743)年に設置されました。
新発田市の文化会館脇に建つ三ノ丸の標柱。三ノ丸もほぼ全域が市街地化してしまい、名残はほとんど留めていません。 三ノ丸南側の「大手櫓」、二度の大火で焼失しています。大手口は現在の新発田警察署附近です。
三ノ丸北西に位置する「菅原門」跡。別名は「鍜治口門」。ここも正保城絵図に描かれた門でしたが、寛文の大火で焼失、再建されました。 三ノ丸北東角にあった榎門跡。こちらは高麗門が単独で建っていたということです。別名「馬場口門」。
新発田の街中には至るところにこのような水路があり、かつての城下町の町割を偲ばせます。 外郭の家臣団屋敷地である「外ヶ輪(とがわ)」、外ヶ輪公園、外ヶ輪中学校などに名を残しています。いい地名ですね〜。
景観復元された旧寺町は掘割もあって、城下町の風情が溢れております。溝口家の菩提寺、宝光寺や、新発田重家の墓所のある福勝寺などもあります。 溝口氏の菩提寺、宝光寺は文政年間の大火で消失、この山門は弘化二(1845)年、十一代溝口直溥公により復興されたものです。
福勝寺の山門の前に鎮座する重家公。いや、よくやったよアンタは。逆賊よばわりされても、わしゃぁアンタが好きだかんね! 重家の霊を慰める「因幡様」。重家の死後、幽霊が出る云々という言い伝えもあるらしいですが、全力で戦った重家公は現世に未練なく、安らかに眠っていると想っとります。

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