真田氏の出自は諸説あるが、一般には清和源氏滋野氏系の一族、海野氏の系統とされるが、小県地方の国牧を掌握していた古代豪族・大伴氏の系統であるとする説もある。真田氏の名が文献に始めて現れるのは応永七(1400)年、信濃国更級郡篠の井の大塔河原で信濃守護、・小笠原長秀と信濃東北部の在地土豪団との争いである大塔合戦を記述した「大塔物語」である。この中で、大塔城要害の寄せ手の中に実田(真田)、横尾、曲尾等の名があるという。
また永享十二(1440)年三月、結城氏朝が結城城で関東公方の遺児を庇護して立て籠もった結城合戦の際に、信濃から従軍した諸将の名が記されており、「真田源太・源五・源六」らの名が記載されているという。
天文十(1541)年、武田信虎、諏訪頼重、村上義清は連合して海野平に侵攻し、滋野一族の頭領であった海野棟綱と、その子(孫、娘婿等諸説あり)の真田幸隆らは小県の領土を棄て、上州吾妻の羽根尾城の羽尾幸全を頼った。棟綱、幸隆らはその身柄を長野業政に預けられ、箕輪城内の一角で居住したが、天文十年代に幸隆は箕輪城を出奔し、武田信虎を駿河に追って甲斐国主となった武田晴信(信玄)に仕官した。幸隆は「信州先方衆」として、佐久・小県・北信濃の血縁者をはじめとした在地土豪の懐柔に勤め、信玄の信濃侵攻を助けた。天文十七(1548)年の上田原合戦にも従軍し、天文十九(1550)年の戸石城攻撃に際しては、事前に信玄より諏訪および旧領の小県の所領を約束された。この時は武田軍は退き陣に際し村上義清軍の追撃を受けて大敗(戸石崩れ)したが、翌天文二十(1551)年、幸隆は独力で戸石城を乗っ取り、小県周辺の旧領を回復し、戸石城を預けられた。真田幸隆は川中島合戦にも従軍、また「上州先方衆」として、吾妻方面への侵攻を任され、岩櫃城攻略や白井城攻略など、武田氏の西上州侵攻を大いに助けた。幸隆は天正二(1574)年に死去し、信綱が家督を相続したが、天正三(1575)年の長篠・設楽ヶ原合戦で信綱と弟の昌輝は討ち死にし、幸隆の三男で当時甲斐の名族・武藤家を嗣いでいた武藤喜兵衛(真田昌幸)が家督を嗣いだ。
昌幸は天正八(1580)年、上州沼田城を攻略するなど、版図を拡げたが、天正十(1582)年三月、武田氏が滅亡すると、織田・北条・上杉・徳川らの諸勢力の間を渡り歩いて独立領主化した。沼田領をめぐる対立では、天正十三(1585)年に徳川の大軍が上田城を攻めたが、これを撃退して武名を馳せた。この頃昌幸は豊臣秀吉に臣従し、天正十七(1589)年には秀吉の裁定で沼田城を北条氏に明け渡した。しかしその後、北条方の沼田城代・猪俣邦憲(憲直)による名胡桃城奪取事件が勃発、秀吉は北条氏に宣戦布告し、翌天正十八(1590)年の小田原の役で北条氏は滅亡し、沼田城は昌幸に与えられた。
慶長五(1600)年の関ヶ原の役では、真田昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、長男の信之(信幸)は東軍に与した。昌幸は上田城に立て籠もって徳川秀忠の率いる徳川本隊を翻弄し、九月十五日の関ヶ原本戦に遅参させたが、関ヶ原の役では東軍が大敗し、昌幸・信繁は信之の助命嘆願で一命を助けられ紀州九度山へ配流となった。慶長十六(1611)年に昌幸は九度山で死去した。上田領・沼田領は信之に与えられた。
慶長十九(1614)年、大坂冬の陣が勃発、九度山を逃れた信繁は大坂城に入城し、真田丸を築いて奮戦した。大坂冬の陣では一時徳川方と豊臣方に和睦が成立したが、翌元和元(1615)年、大坂夏の陣が勃発、真田信繁は徳川家康の本陣を奇襲し、一時は家康に自刃を覚悟させるほどの活躍を見せたが、松平忠直隊の者に討ち取られた。
元和八(1622)年、真田信之は信州川中島で転封となり、上田領へは信州小諸より仙石氏が入封し、真田氏による真田郷支配は終わった。