「不惜身命」六連銭はためく

真田の郷

さなだのさと

長野県小県郡真田町 周辺

(地図は「岩屋観音堂」附近)

真田忍者の本拠と伝えられる岩屋観音堂<<2002年11月05日>>

合戦の経緯

真田氏の出自は諸説あるが、一般には清和源氏滋野氏系の一族、海野氏の系統とされるが、小県地方の国牧を掌握していた古代豪族・大伴氏の系統であるとする説もある。真田氏の名が文献に始めて現れるのは応永七(1400)年、信濃国更級郡篠の井の大塔河原で信濃守護、・小笠原長秀と信濃東北部の在地土豪団との争いである大塔合戦を記述した「大塔物語」である。この中で、大塔城要害の寄せ手の中に実田(真田)、横尾、曲尾等の名があるという。

また永享十二(1440)年三月、結城氏朝が結城城で関東公方の遺児を庇護して立て籠もった結城合戦の際に、信濃から従軍した諸将の名が記されており、「真田源太・源五・源六」らの名が記載されているという。

天文十(1541)年、武田信虎、諏訪頼重、村上義清は連合して海野平に侵攻し、滋野一族の頭領であった海野棟綱と、その子(孫、娘婿等諸説あり)の真田幸隆らは小県の領土を棄て、上州吾妻の羽根尾城の羽尾幸全を頼った。棟綱、幸隆らはその身柄を長野業政に預けられ、箕輪城内の一角で居住したが、天文十年代に幸隆は箕輪城を出奔し、武田信虎を駿河に追って甲斐国主となった武田晴信(信玄)に仕官した。幸隆は「信州先方衆」として、佐久・小県・北信濃の血縁者をはじめとした在地土豪の懐柔に勤め、信玄の信濃侵攻を助けた。天文十七(1548)年の上田原合戦にも従軍し、天文十九(1550)年の戸石城攻撃に際しては、事前に信玄より諏訪および旧領の小県の所領を約束された。この時は武田軍は退き陣に際し村上義清軍の追撃を受けて大敗(戸石崩れ)したが、翌天文二十(1551)年、幸隆は独力で戸石城を乗っ取り、小県周辺の旧領を回復し、戸石城を預けられた。真田幸隆は川中島合戦にも従軍、また「上州先方衆」として、吾妻方面への侵攻を任され、岩櫃城攻略や白井城攻略など、武田氏の西上州侵攻を大いに助けた。幸隆は天正二(1574)年に死去し、信綱が家督を相続したが、天正三(1575)年の長篠・設楽ヶ原合戦で信綱と弟の昌輝は討ち死にし、幸隆の三男で当時甲斐の名族・武藤家を嗣いでいた武藤喜兵衛(真田昌幸)が家督を嗣いだ。

昌幸は天正八(1580)年、上州沼田城を攻略するなど、版図を拡げたが、天正十(1582)年三月、武田氏が滅亡すると、織田・北条・上杉・徳川らの諸勢力の間を渡り歩いて独立領主化した。沼田領をめぐる対立では、天正十三(1585)年に徳川の大軍が上田城を攻めたが、これを撃退して武名を馳せた。この頃昌幸は豊臣秀吉に臣従し、天正十七(1589)年には秀吉の裁定で沼田城を北条氏に明け渡した。しかしその後、北条方の沼田城代・猪俣邦憲(憲直)による名胡桃城奪取事件が勃発、秀吉は北条氏に宣戦布告し、翌天正十八(1590)年の小田原の役で北条氏は滅亡し、沼田城は昌幸に与えられた。

慶長五(1600)年の関ヶ原の役では、真田昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、長男の信之(信幸)は東軍に与した。昌幸は上田城に立て籠もって徳川秀忠の率いる徳川本隊を翻弄し、九月十五日の関ヶ原本戦に遅参させたが、関ヶ原の役では東軍が大敗し、昌幸・信繁は信之の助命嘆願で一命を助けられ紀州九度山へ配流となった。慶長十六(1611)年に昌幸は九度山で死去した。上田領・沼田領は信之に与えられた。

慶長十九(1614)年、大坂冬の陣が勃発、九度山を逃れた信繁は大坂城に入城し、真田丸を築いて奮戦した。大坂冬の陣では一時徳川方と豊臣方に和睦が成立したが、翌元和元(1615)年、大坂夏の陣が勃発、真田信繁は徳川家康の本陣を奇襲し、一時は家康に自刃を覚悟させるほどの活躍を見せたが、松平忠直隊の者に討ち取られた。

元和八(1622)年、真田信之は信州川中島で転封となり、上田領へは信州小諸より仙石氏が入封し、真田氏による真田郷支配は終わった。

小なりとはいえ独立領主として名を馳せた真田氏。その智謀と武勇は幸隆に対して信玄が与えた全幅の信頼、豊臣秀吉が昌幸に与えた「表裏比興の者」という言葉や、徳川家康が二度にわたって上田城で苦杯を強いられ、大坂の陣でも「日本一の兵」と賞賛された幸村の活躍によって危地に立たされるなど、長く語り継がれることとなりました。また、「真田十勇士」の活躍など、忍法モノの人気によって、真田氏の名はさらに広く語り継がれ、親しまれることになりました。

真田氏の出自は謎に包まれており、幸隆以前の足跡はあまりわかっていません。しかし、この地方には古くから牧があり、良質の馬の産地として知られていました。真田氏はその牧の経営にかかわった一族ではないか、と見られているようです。やがて戦乱に巻き込まれ、真田幸隆は小県の父祖伝来の土地を追われて上州吾妻へと落ち延びます。海野一族再興を賭けて幸隆が採った戦略は、自らを追った武田信虎の子、晴信(のちの信玄)に仕官する、という、大博打でした。しかし幸隆は持ち前の智謀により信玄の片腕となり、「信濃先方衆」「上州先方衆」として八面六臂の活躍をします。戸石城の奪取や岩櫃城の攻略などはその最たるものでしょう。こうして真田一族は旧領である真田郷をはじめ小県一円、上州吾妻をその勢力下に収めていきます。真田氏の旗印である「六連銭」は、三途の川の渡し賃を表わすもの。つまり、死を覚悟し命を捨てて働く「不惜身命」の心を表わしたものなのです。

幸隆の嫡男、信綱とその弟、昌輝はともに武勇を認められ、大きな期待をかけられながらも、設楽ヶ原の露と消え、三男の昌幸が真田家を嗣ぐのですが、この「表裏比興」の男はオヤジ譲りの智謀にさらに磨きがかかり、小田原北条氏や上杉氏、徳川氏などの大勢力の間を巧みに泳いで独立領主化し、上田城では徳川の大軍をさんざんに打ち負かしてその名を馳せ、北条氏との沼田領争いではとうとう天下人・豊臣秀吉をも動かして、北条氏を滅亡に追い込んでしまいました。恐るべき男です。しかし、関ヶ原の役では、上田城でまたしても徳川の大軍を鼻先で軽くあしらったにもかかわらず、西軍の敗北により昌幸・信繁(幸村)は没落、東軍に与した昌幸の嫡男・信之の嘆願により死一等を減じられて紀州九度山に配流となります。昌幸はそこで失意のうちに生涯を終えました。

ところが戦乱の世の総決算となった「大坂の陣」で、またまた真田氏が大活躍し天下の耳目を集めます。九度山から抜け出した信繁(幸村)は大坂城に入城、「冬の陣」では出丸「真田丸」を築いてさんざんに徳川軍を翻弄、「夏の陣」では徳川家康の本陣に猛烈な突撃を敢行し、家康は「もはやこれまで」と自刃すら覚悟したといいます。結局徳川軍は本陣を数里も後退させて危うく危地を逃れ、信繁は奮戦むなしく討ち取られてしまうのですが、この大活躍によって真田の名は民衆にも広く知られ、「真田日本一の兵」として語り継がれることになります。この因縁深き真田氏は、最も堅実であった信之の系統がしっかりと守り、幕末まで生き残るのですから、真田一族の処世感覚、「しぶとさ」というのは並大抵ではないですね。

その真田氏の故郷、真田郷は、周囲を山々に囲まれた、決して広くは無い盆地で、戸石城真田本城からはその領地が一望のもとに見渡せます。いたるところに六連銭がはためき、真田氏ゆかりの山城や寺社仏閣に囲まれたこの町では、この小さな領地を守り、日本全国に名を馳せるまでになった真田氏の存在を今も町の誇りとして語り継いでいるのです。今に残る城館群も戸石城真田本城真田氏館(お屋敷)松尾古城などどれも素晴らしく、それぞれに一見の価値があります。真田忍者の伝説が残る角間渓谷も、「なるほど」と思わせる雰囲気に溢れており、こちらも必見です。

ぜひ、真田氏の活躍を想いながら、これらの城館や寺社仏閣を歩いてみて欲しいものです。

戸石城から眺める真田の郷。聳え立つ四阿山、菅平方面からは早くも冬の雲が押し寄せる。

真田幸隆が、昌幸が、その智謀の限りを尽くして手にした父祖伝来の真田の地と、上田市街地方面を真田本城から。右手には戸石城の雄々しい姿が。

真田氏の菩提寺、長谷寺には幸隆、昌幸が眠っています。開祖は晃運和尚。この石のアーチは創建当時のものと伝えられ、六連銭も誇らしく。

長谷寺の真田幸隆(中央)、その妻(左)、昌幸(右)のお墓に合掌。戦国真田氏の礎を築いた名将を偲ぶ。

信綱寺は幸隆の長男、信綱の建立。設楽ヶ原の露と消えた信綱の菩提を弔っています。信綱の首級を持ち帰った白川兄弟がこの地に弔ったといいます。黒門が格式の高さを感じさせます。

将来を嘱望されながらも、異郷に散った信綱のお墓(中央)、横には同じく設楽ヶ原に散った弟、昌輝のお墓が。不惜身命、この世で語りつくせなかった分を、遠い空の上で兄弟仲良く語っているのかもしれない。

信綱寺の前には六連銭のモニュメントが建つ古城緑地公園が。この一帯は「内小屋城」という旧いお城の一部でもあります。一族やゆかりの人物の花押が刻まれています。

真田の郷の入り口を守る矢沢城は、幸隆の弟、矢沢綱頼の本拠。綱頼はのちに昌幸をよく支え、沼田城の攻防などでも大活躍します。

真田の郷のどこからでも見える真田本城。真田の郷を一望に見渡せる、まさに中枢部です。

真田本城から、真田郷背後を睨む松尾古城の険しい山容を望む。松尾古城の遺構は素晴らしく、急な尾根筋と格闘する価値は十分にあります。

「御屋敷公園」として親しまれる真田氏館。土塁や虎口、厩などが当時を偲ばせます。はるかな歳月を経ても、「おやしき」と呼ばれるところに、真田氏への愛惜を感じます。

お屋敷」に隣接する「真田歴史館」は残念ながらお休みでした(T_T)見学もさることながら、「くるみおはぎ」をぜひ食しましょう。

角間渓谷の奥深くに佇む角間温泉は、まさに秘境の湯という趣き。いつか泊まってみたいものです。

大岩盤をくり抜いた岩屋観音堂は真田忍者修験の地、と伝承されます。神秘的な雰囲気は、なんとなく伝承を信じてしまいそうな雰囲気に溢れています。

巨岩奇岩が聳える角間渓谷。写真の「鬼ヶ城」は猿飛佐助が修行した場所である、とも。

真田幸村が狩の際に喉を潤し、あまりの美味さに茶立ての水に使われたという「一っぱい清水」。角間渓谷の道路沿いにあります。

日向畑遺跡は、幸隆以前の「前真田氏」の墳墓と考えられています。武田信虎・村上義清・諏訪頼重に追われた幸隆が敵の蹂躙を避けるため、再起を誓って埋めたものである、とも。松尾古城の麓、角間渓谷入り口にあります。

暮れなずむ真田の郷に、黒々と浮かび上がる戸石城の姿。美しい夕陽の向こうに、かつてこの地で名を馳せた真田氏の苦悩と栄華の日々を想いながら、この地を後にすることに。

 

交通アクセス

上信越自動車道「上田菅平」ICより車15分。

長野新幹線・しなの鉄道・上田交通「上田」駅よりバス(?)。

周辺地情報

真田郷周辺の城館群や、上田市内の上田城などのゆかりの史跡。お帰りの際は「真田ふれあい館」で疲れをほぐしていきましょう。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 
参考文献 「真田戦記」(学研「戦国群像シリーズ」)、別冊歴史読本「戦国・江戸 真田一族」(新人物往来社)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、真田町観光課提供資料

参考サイト

上田・小県の城

 

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