お屋敷に想う、真田スピリット

真田氏館

さなだしやかた Sanadashi-Yakata

別名:「お屋敷」

長野県小県郡真田町本原

(お屋敷公園)

城の種別

平城(変形方形武士居館)

築城時期

不明(永禄〜天正期?)

築城者

真田幸隆(?)

主要城主

真田氏

遺構

曲輪、土塁、厩跡、虎口、石積み

土塁に囲まれたお屋敷公園<<2002年11月05日>>

歴史

真田幸隆の嫡男・信綱が天正年間(1573-92)に築いたといわれるが、それ以前に幸隆が居住していたとも言われる。天文十(1541)年、武田信虎、諏訪頼重、村上義清は連合して海野平に侵攻し、滋野一族の頭領であった海野棟綱と、その子(孫、娘婿とも)の真田幸隆らは小県の領土を棄て、上州吾妻の羽根尾城の羽尾幸全を頼った。棟綱、幸隆らはその身柄を長野業政に預けられ、箕輪城内の一角で居住したが、天文十年代に幸隆は箕輪城を出奔し、武田信虎を駿河に追って甲斐国主となった武田晴信(信玄)に仕官した。幸隆は「信州先方衆」として、佐久・小県・北信濃の血縁者をはじめとした在地土豪の懐柔に勤め、信玄の信濃侵攻を助けた。天文十七(1548)年の上田原合戦にも従軍し、天文十九(1550)年の戸石城攻撃に際しては、事前に信玄より諏訪および旧領の小県の所領を約束された。この時は武田軍は退き陣に際し村上義清軍の追撃を受けて大敗(戸石崩れ)したが、翌天文二十(1551)年、幸隆は独力で戸石城を乗っ取り、小県周辺の旧領を回復し、戸石城を預けられた。真田氏館はこの頃から、幸隆が没する天正二(1574)年までの間に、平素の居館として構築されたと推定される。

幸隆の死後は信綱が跡を嗣いだが、天正三(1575)年、長篠・設楽ヶ原の合戦で信綱・昌輝兄弟は織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲隊の前に討ち死にし、幸隆の三男で当時、武藤家を嗣いでいた武藤喜兵衛(真田昌幸)が真田家を相続した。天正十(1582)年三月に武田氏が滅亡し、昌幸は織田(滝川一益)、北条氏政、上杉景勝、徳川家康と四回主人を代えた。天正十一(1583)年に真田昌幸が上田城を築城開始し、天正十三(1585)年に移った。真田氏館は廃されたが、現在敷地に建つ皇大神宮は、昌幸が居を移すにあたり、旧館敷地の荒廃を防ぐために勧進したものだと伝えられる。

真田弾正忠幸隆という人物は、真田昌幸、真田幸村(信繁)という息子、孫の影に隠れて、一見地味な存在ですが、世に言う「真田三代」の礎を築いた人物であり、その子孫は遠く松代藩沼田藩の真田氏へと受け継がれてゆきます。幸隆は海野平を支配した滋野一族の棟梁、海野棟綱の子とも孫とも、娘婿とも言われ、その出自はいまひとつ不明ですが、この海野棟綱に繋がる人物であることには間違いないでしょう。天文十(1541)年、海野平を戦雲が襲います。甲斐の武田信虎、諏訪大社大祝家の諏訪頼重、北信の村上義清は連合して海野平に侵攻、海野一族を殲滅せんとばかり暴れまくります。棟綱、幸隆らは涙を呑んで海野平を後にし、鳥居峠を越えて上州吾妻の海野の支族を頼ります。この時に手を差し伸べてくれた羽根尾城主の羽尾幸全、箕輪城主の長野業政らと幸隆は、このはるか後に干戈を交えることになります。父・棟綱は長野業政を通じて関東管領・上杉憲政の援軍を得て旧領に復帰することを考えていましたが、小県への復帰を夢見る幸隆が選んだ道は、武田への仕官でした。折りしも武田は猛勇を誇った信虎が嫡男・晴信に追放され駿河に隠居、その晴信は父以上に深慮遠謀に長け、瞬く間にその版図を諏訪、伊那に拡げつつあり、小県を手にするのもそう遠くないと見て、幸隆は晴信に賭けました。こうして幸隆は、父祖伝来の地を取り戻すために、その父祖伝来の地を追った武田に仕官することになるのです。

幸隆は「信濃先方衆」として、佐久・小県・北信濃戦線で活躍しますが、幸隆の本領は「闘う」ことよりも、「情報」と「調略」を最大の武器に、「闘わずして勝つ」「勝つことがわかってから闘う」ことに持ち味を発揮しました。その最たる例が戸石城乗っ取りと、さらにその後の岩櫃城乗っ取りでしょう。信玄が力攻めで陥とせなかった戸石城を、幸隆はわずかの手勢でモノにします。この幸隆の「闘い方」は信玄の最も好むところでもあり、仕官に際しては重臣が反対したとも言われますが、結果的に外様ながらも信玄からの絶大な信頼を得ます。遠い祖先より小県に根付いて、血縁が多かったことも幸いしたのでしょう。何よりも、幸隆自身が「情報」と「調略」というものの戦術価値を正しく認めていたことが大きかったと思います。同時代では、信玄、北条氏康などと並んで、最も情報を使いこなした男、戦国のIT革命家のひとりだったと思います。真田の忍者伝説や真田十勇士の原型になった情報・諜報戦術は、イコール幸隆という人の闘い方そのものだったとも言えるでしょう。幸隆はその後、「上州先方衆」として西上州、吾妻の計略に携わり、恩義のある羽尾幸全や長野業政との辛い闘いを経て、信玄の後を追うように没しました。跡を嗣ぐべき信綱、昌輝兄弟は設楽ヶ原の露と消え、三男の源三郎昌幸が真田家を嗣ぎます。この昌幸こそが、小さいながらも独立大名として天下を振り回すことになるのですが、すべては幸隆が築いた基盤の上に成り立っているのです。

この真田氏居館は通称「お屋敷」と呼ばれ、幸隆、信綱、昌幸らが居住していた平素の館であったと言われています。このあたりはイマイチ歴史が鮮明ではなく、幸隆が住んだのは戸石城であるとか、伊勢崎城であるとか言われるのですが、晩年に近いある時期にここに居住したのは間違いないと思います。天文十九年、武田信玄は戸石城攻略を前に、幸隆に対して「本意の上は」小県の旧領を宛行う「空手形」を発給しています。この空手形は「戸石崩れ」で一旦ふいになりかけますが、前述の通り、どんな手を使ったか戸石城奪取に成功します。このお屋敷は、その戸石城を預けられてから、本領中の本領である真田郷支配と平素の居住のために、真田郷のど真ん中に築いたもの、と考えることが出来るかと思います。しかし、当時の領主、真田氏の居館が今でも「お屋敷」と呼ばれている、素晴らしいことじゃないですか!

場所的には真田の狭い盆地のほぼ中央に位置し、前面に戸石城、背後には真田本城、松尾古城などを控える、まさに中枢の地でした。お屋敷のある台地は緩やかながらもかなりの傾斜地で、館の形もいびつな変形方形館といった趣です。土塁、門などがよく残り、曲輪の中には真田昌幸が上田城を築城した際に勧進したといわれる皇大神宮が建っています。それ以外の場所は公園、というかマレットゴルフ場になっているのですが、前述の土塁、門などはよく残り、珍しい厩跡や、鬼門除けと見られる土塁の切り欠きなども見られます。この土塁の切り欠きは上田城にも見られますが、なぜか通常「鬼門」とされる東北角ではなく、南東角に設けられています。公園全体を見ると、館は単郭ではなく、少なくとも二つの曲輪を備えていたように見えます。堀は明瞭なものはありませんが、北側を流れる小さな川や、現在周囲を取り巻いている道路、農地などが堀であったのでしょう。

僕が見学した日は午前中は晴れ、戸石城を見学し、さあ松尾古城に、という頃になって一転して天候が怪しくなり、小雪が舞い始めました。そこでお屋敷を先に見学しつつ、天候回復まで、真田氏資料館の見学と、そこで売ってる「名物真田庵おはぎ」でも食そうか、などと思っていました。が!資料館は定休日、なんと「おはぎ」も休みだそうな。そうか、ここは火曜定休なのか。せっかく人の少ない平日に来たのに。残念。

真田氏居館跡、通称「お屋敷公園」。素晴らしい名前じゃないですか!名前だけじゃなくて、館そのものも素晴らしいッス。ここが真田氏のおうちかと思うと寒いの忘れて嬉しくなる。 大手門正面。大手門は半円形の内枡形土塁。内枡形、というよりも、丸馬出しを前後さかさまにしたような感じ。
屋敷の中から大手門土塁を見る。こんな半円形の土塁枡形、初めて見ました。 「お屋敷公園」全域はマレットゴルフ場でもあるのです。はるか戦国の領主を偲びつつ、ゴルフですか。。。人間て、何でも利用するのね。ある意味スゴイ。
これが見所のひとつ、厩屋。中世居館で、こういったものがはっきりと確認できるのは結構貴重です。 真田昌幸が上田城移転に際し、父祖の土地の荒廃を恐れて勧進した皇大神宮。

搦手門です。あまり変哲のない、平虎口です。

搦手の先は親水公園になっている。ここは自然水路を利用した堀の名残かな?とするとこれはやはり土橋と捉えるのが正解なんだろうか?

堀遺構のあまりはっきりしない居館ですが、東側のこの部分はいかにも堀、という感じはします。このさらに東にも土塁があるので、二郭程度はあったんじゃないでしょうか。 南東の土塁の不思議な切り欠き。上田城にも似たようなのがありますが、「鬼門除け」であれば東北角だよな。とすると、これはそんなオマジナイじゃなくて、実用的なモノだったんでしょうか?
道路に面した土塁。高さは3m弱でしょうか。生活道路に面して真田氏の土塁。なんかスゴイ贅沢に感じるのは俺だけか? この石積みは道路建設のときのもの、と思ったら、立派な腰巻土居の遺構であるらしい。

真田氏歴史館へ、と思ったら、ガビーン(死語)!休館日ですか。。。歴史館はともかく、「くるみおはぎ」は食べたかったなあ。。。

戦闘指揮所、真田本城から見るお屋敷。

最後に、遠藤周作「埋もれた古城」の中から、長篠・設楽ヶ原に散った信綱、昌輝を想う一節。

「合戦屏風絵図をみると真田信綱と昌輝の兄弟はちょうど前田利家と佐々成政の柵の前で倒れている。信綱は落馬し、昌輝は落馬寸前にある。この時、この二人の頭の中にあの真田の里−ここよりももっと蒼く高い山に囲まれ、雲の白い信濃の高原が浮んだのだろうか。」

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「上田菅平」ICより車10分。

長野新幹線・しなの鉄道・上田交通「上田」駅よりバス(?)または徒歩60分。

周辺地情報

上田市内の上田城戸石城、真田町の真田本城松尾古城など。周囲の峰には山城だらけなので、ご興味と体力があれば全部廻ってみてください。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 
参考文献 「真田戦記」(学研「戦国群像シリーズ」)、別冊歴史読本「戦国・江戸 真田一族」(新人物往来社)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、真田町観光課提供資料

参考サイト

上田・小県の城

 

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