行く前から現状はある程度分かっていましたので、大きな衝撃はありませんでしたが、それにしても何ですなあ、多古町はあんまりこういう歴史的文化財の価値を認めていないのかな?名族・千葉介宗家が滅亡した悲劇の地であり、それは確実に千葉県史の一頁を飾るものであるはずなのですが、遺構はことごとく宅地造成によって破壊され、そこに城があったことも、千葉氏滅亡に至る悲話も、すべてが忘れ去られて、それを語るものはもう何もありませんでした。せめて城址碑か解説板でも建ってるかと思っていたのに。町の公式サイトにも多古城のことはなんにも載っていないですね。「房総の古城址めぐり(下総編)/府馬清」を見ると、空堀の写真が掲載されてて、割と近年までは明瞭な遺構があったらしいんですがね。今ではすっかり造成されてしまい、まるで頭と骨だけ残った焼き魚のような、哀れな姿を晒しています。一応せっかく来たので、台地上に上ってみましたが、一面赤茶けた土をさらけ出す荒野のような風景で、強風に煽られた土埃が砂漠のように舞い上がる様は、SF映画で見る火星のような雰囲気です。もちろん遺構らしい遺構などあるはずもなく、わずかに1km先の水田に浮かぶ志摩城(多古町島集落)の姿が当時を偲ばせるのみでした。
千葉氏はもともと鎌倉公方に仕えていましたが、自重を求める千葉胤直らの諫言に応じず暴走して上杉憲忠を惨殺してしまった足利成氏に愛想をつかしたか、自らが擁立した成氏と袂を分かちます。このときに千葉氏を悲劇が襲います。一族の分裂。あくまで成氏につこうとする一門の重臣、原胤房、馬加康胤は宗家の千葉胤直に叛旗を翻し、亥鼻城を襲撃します。これは表向きは幕府を後ろ楯にした上杉派と鎌倉公方派の対立でありましたが、その実は千葉氏の重臣どうし、円城寺氏と原・馬加氏の権力争いでもありました。亥鼻城を襲撃された千葉胤直、宣胤父子はこの多古城と、出城である志摩城に立て籠ります。さすがに旧主を殺すに忍びないと思ったか、原胤房らは胤直らに再三に渡って降伏開城を呼び掛けますが、胤直・胤宣は徹底抗戦の構えを解かず、息子の胤宣はこの多古城で奮戦の後、椎名与十郎胤家、円城寺又三郎、木内彦十郎らとともに城外の阿弥陀堂に入ることを許され、自刃します。
恨めしは かかる浮世に生れ来て君の情をもらすつらさよ
わずか十五年の生涯でした。父の胤直も城下の妙光寺で自刃、千葉氏嫡流はここに三百年に渡る歴史に幕を下ろします。一般に戦国時代といえば「応仁の乱」以降を指すことが多いのですが、関東ではそれより一足早く、こうした同族相食む悲劇が繰り返されていました。いまではその名残を残すものは何も無く、わずかに城下の旧土橋山東禅寺墓地に、胤直と胤宣、一族郎党の墓が祀られているのみです。