千葉宗家を奪った男

馬加城

まくわりじょう Makuwari-Jo

別名:

千葉県千葉市花見川区幕張町三丁目付近

城の種別 平山城(丘城)

築城時期

不明

築城者

馬加氏

主要城主

馬加氏 

遺構

なし

馬加城の現状<<2002年01月19日>>

歴史

千葉氏の支族・馬加(まくわり)氏の居城。享徳三(1454)年にはじまった享徳の大乱で、宗家の亥鼻城主・千葉胤直は上杉方に付いたのに対し、一族で重臣の位置にいた馬加康胤、小弓城主・原胤房らは古河公方・足利成氏方に付き、千葉氏の内訌に発展した。康正元(1455)年二月、馬加康胤・原胤房は亥鼻城を夜襲し亥鼻城は炎上落城、千葉宗家の当主胤直とその子胤宣は千田荘の志摩城多古城にそれぞれ追い詰められ、自刃。千葉宗家は滅亡した。

馬加康胤は千葉宗家を継いで「千葉介」を名乗ったが、東常縁ら室町幕府の追討を受け、翌康正二(1456)年に陣没(討ち死にとも)した。千葉介は康胤の孫、輔胤に引き継がれ、輔胤はのちに佐倉に新城(本佐倉城)を築いて移った。馬加廃城の時期は定かではないが、康正二年の康胤死去の前後と推測される。

「ばか」じゃないです。「まくわり」、そう、今ではベイサイドエリアとして有名な「幕張」です。

遺構は・・・写真を見ての通り。ま、文句は言うまい。都心に一時間弱という絶好のベッドタウン、「史跡を残す」よりも「住宅を供給する」方が今の時代には必要とされているのでしょう。廃城の時期も古いため、もともと遺構らしい遺構は残っていなかったかもしれません。この馬加城があったという台地にしても、これほど大きなマンションを建設するからには恐らく丘を切り崩し、大幅に土取り・削平を行ったはずで、地形も大幅に変わっていることでしょう。この馬加城の台地と幕張本郷の台地に挟まれた低地は、かつては湿地か、入江だったのでしょう。現在は畑と、建設資材置き場のバラックと、ペンペン草の覆い茂る建設残土捨て場(一見土塁に見える・・・)になっています。まあ遠からぬ将来、ここも見事に宅地化されてしまうのでしょう。

まあ土地利用のあり方については時代の流れと諦めるにしても、史跡標柱も何もない、というのはいかがなモノでしょうか?馬加康胤による千葉宗家の滅亡という事件は、千葉県の歴史を語る上で小さくないインパクトを与えていると思うのですが、現地を訪れてみるとそのような事件を示すものは何もありません。子供たちに郷土史を語り継いでいく上でも、せめて城址の碑や解説版のひとつも立ててもいいのではないでしょうか?大して高くつくものでもなし、千葉市なり、花見川区なり、地元自治体でご検討頂けませんでいかがでしょうか?

西側の幕張本郷の台地から見た馬加城跡。京葉道路の幕張SA近くの台地上ですが、おそらくマンション造成時に地形も相当変わってる筈。このあたりの低地は浜田川が東京湾に流れ込む河口あたりだったろうか。今では宅地と畑と残土の山と・・・。 城址を分断する京葉道路。文句言っちゃいけない。僕だって普段この道路にお世話になってるんだから。

遺構に期待しちゃいけません。こんなところに城を見に来る人の方が奇特なんだから。千葉県の、そして戦国前夜の関東擾乱を語り継ぐものが何もない、というのは寂しいことですが・・・

 

 

交通アクセス

京葉道路「幕張IC」から車10分。

JR幕張駅、京成電鉄京成幕張駅徒歩15分。  

周辺地情報

関係が深いのは亥鼻城小弓城など。ただ、どちらも表面的な遺構はあまりありません。

関連サイト

 

 
参考文献 「房総の古城址めぐり(下)」( 府馬清/有峰書店新社)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)

参考サイト

千葉氏の一族余湖くんのホームページ

 

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