「当方滅亡」名将道灌、非業の死

上杉氏

うえすぎしやかた Uesugi-Shi-Yakata

別名:糟屋館

神奈川県伊勢原市上粕屋

城の種別 平城(館)

築城時期

不明

築城者

上杉定正

主要城主

扇谷上杉氏

遺構

伝空堀

非業の死を遂げた道灌の墓「道灌塚」<<2002年04月18日>>

歴史

相模を領国としていた扇谷上杉氏の居館跡と伝えられる。

享徳三(1454)年、関東公方の足利成氏が管領職の上杉憲忠を殺害し古河に移り、関東の諸侯は古河公方勢力と上杉氏の勢力に分裂し激しく争った。この「享徳の大乱」や、のちの「長尾景春の乱」に際して、扇谷上杉定正の家宰職・太田資長(道灌)は関東一円を転戦し名声を上げたが、主家を上回る名声に危機感を抱いた定正により、文明十八(1486)年、道灌はこの相模糟屋の上杉邸で斬殺された。

ひとたび戦場に出れば巧みな進退で敵を翻弄し、ときに兵を叱咤し機を見ては力攻めに攻める。そして平時は学問を愛し、兵卒を愛し、主家に尽くしてつねに裏表なく伸びやかに生きた武将、太田道灌。文武両道とは彼のためにあるような言葉です。彼はまた、名築城家としても有名で、のちに徳川幕府十五代を支えた江戸城をはじめ、河越城岩槻城などの名城を世に送り出しています。江戸城には「静勝軒」という、後世の「シンボル」としての天守に相当する櫓を建て、「道灌がかり」と呼ばれる、これも後世には当たり前になる「子城」「中城」「外城」の独立した曲輪を備え、入り組んだ谷津や崖を巧みに利用した築城法を駆使しました。城内には梅や山吹などを植えて、ときに民衆を城内に招きいれて、風雅を愛でたといいます。

我が庵は松原続き海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る

道灌が自らの居城、江戸城からの風景を愛でた歌です。このほか、「山吹伝説」など、道灌の文人としての才能を伝える逸話は数多くあります。

そして武人としての道灌もまた一流でした。扇谷上杉氏の家宰として、享徳の大乱以来、古河公方足利成氏や、山内上杉氏の家宰職をめぐって叛乱を起こした長尾景春の乱の鎮撫(鉢形城の項参照)、長尾景春に呼応した豊嶋氏(石神井城の項参照)や小机氏(小机城の項参照)、千葉孝胤(臼井城の項参照)らの追討、そして駿河今川氏の後継者問題をめぐっての内紛への介入と、仲介者となった同時代の英傑・伊勢新九郎(北条早雲)との出会い(丸子城の項参照)。関東一円に出陣すること数え切れず、その都度軍功を挙げ、いつしか山内上杉氏配下の一族に過ぎなかった扇谷上杉氏は本家で関東管領の山内上杉氏の名声を凌ぐようになり、道灌自身が主君の扇谷上杉定正の名声をも凌ぐようになります。が、道灌にはあくまでも主家に尽くしておのれの領分を全うする以上の意図はなく、「下剋上」など思いもつかなかったことでしょう。しかし、山内上杉顕定、扇谷上杉定正はこの道灌の名声が面白くありません。道灌自身にも、やや倣岸な気質があり、次第に定正は道灌を疎んじるようになります。これに眼をつけた上杉顕定、言葉巧みに定正を篭絡し、道灌暗殺をそそのかします。

文明十八年七月二十六日、定正の居館である相模糟屋の館に招かれた道灌は、定正のすすめで入浴中、定正に命じられた臣、曾我兵庫に斬りつけられ、丸腰の道灌は桶で刀を受け止めますが万事休す、「当方滅亡!」この言葉を最期に、希代の名将、道灌はこの相模糟屋で五十五歳の生涯に幕を閉じてしまいます。あまりに突然で、暗澹たる最期でした。

ちなみに、これ以降、両上杉氏は反目し干戈を交え、両家とも著しく衰退します。その隙を突いて勢力を伸ばしたのは、あの駿河で道灌と会談した北条早雲その人でした。早雲の子氏綱、その子氏康と三代に渡って上杉氏を追い詰め、天文十五年、河越夜戦で扇谷上杉朝定は戦死し(川越城の項参照)、道灌の末期の叫びどおり、その死後60年にして扇谷上杉氏は滅亡します。一方の山内上杉氏は、河越夜戦で敗れ、上州平井城へ逃亡した上杉憲政もついに北条の攻勢に支えきれなくなり、越後守護代の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って落ち延び、このときに事実上、山内上杉氏も滅亡します。道灌の死は、関東における世代交代の第一歩、だったのかもしれません。

大山信仰で有名な伊勢原の丘陵上、現在産業能率大学が建つ付近が館跡と比定されていますが、選地の不自然さや発掘による遺構が乏しいことから、否定的見解もあります。 空堀跡と伝承される谷津ですが、堀というよりは完全に自然地形そのままでしょう。堀として見るにも、幅が広すぎて不自然な感じは否めません。

洞昌院に祀られた道灌塚(胴塚)。

七人塚。定正の追討を受けた道灌を守って討ち死にした七人の家臣の墓と伝えられる。

有名な場所の割には、居館の跡もあくまでも「比定」されているだけであって、明瞭な遺構もありません。それでも、道灌がこの地のどこかで非業の死を遂げたと思うと、感慨深いものがありました。

 

 

交通アクセス

東名高速道路「厚木」IC、小田原厚木有料道路「伊勢原」IC車20分。

小田急電鉄「伊勢原」駅よりバス

周辺地情報

台地を南方へ向かうと岡崎城。ちょっと足を伸ばして、道灌と同世代の英傑・早雲を偲ぶ小田原城

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、「小説・太田道灌」(童門冬ニ/PHP文庫)、現地解説板

参考サイト

 

 

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