謙信の八つ当たりに敢え無く落城

騎西城

きさいじょう Kisai-Jo

別名:私市城・根古屋城

埼玉県北埼玉郡騎西町根古屋

城の種別

平城(沼城)

築城時期

康正元(1455)年?

築城者

不明(上杉房顕、長尾景仲ら?)

主要城主

小田氏、成田氏 等

遺構

土塁、空堀(模擬天守状建築物は婦人会館)

わずかに残る天神曲輪の土塁<<2001年9月9日>>

歴史

築城時期は定かではないが、関東公方と執事上杉家・足利将軍家の対立で、鎌倉から下総古河に逃れた足利成氏が、康正元(1455)年に庁鼻和性順、長尾景仲が守る騎西城を攻略したと記録されるのが初見。その後は古河公方の前線基地となった。永禄六(1563)年、武蔵松山城の救援に間に合わなかった上杉輝虎は小田助三郎の守る騎西城を攻め、落城降伏した。天正二(1574)年の第三次関宿合戦では、簗田持助の関宿城が北条氏政の大軍に包囲され、それを助けるために布陣した上杉謙信がこの騎西城菖蒲城などの城下を焼討ちしている。天正十八(1590)年の小田原の役後、騎西城は徳川家康の実子ともいわれる松平康重に与えられ、康重は慶長元(1596)年の朝鮮の役(慶長の役)にも出兵している。その後は大久保氏が城主に任じられたが、寛永九(1632)年、大久保忠職が美濃加納城へ移封となり、廃城となった。

永禄六(1563)年に、松山城救出に間に合わなかった上杉輝虎(謙信)が、鬱憤晴らしに(?)小田助三郎が守る騎西城を攻め落としました。とんだとばっちりではありますが、おかげで戦史にしっかりと記憶されているわけです。当時は四方を沼に囲まれた要害で、攻めるに難い堅城でした。付近の道路拡張工事の際に畝堀なども見つかったらしいのですが、それも埋め戻され、本丸周囲も今では宅地化されて、遺構は上の写真の土塁(これも現存部は一部だけ)以外は殆どありません。

騎西城の築城の歴史は不明です。武蔵七党の私市党の館だったとの見方もあるようですが、ここでは古河公方・足利成氏と上杉氏の対立に際して、岩槻城などの上杉方勢力と対峙する城という位置付けで考えました。もちろんこれが築城時期とイコールとは限りませんが、一応の史料上の初見をもって推定築城時期をさせていただきました。廃城の時期は近世に入ってからで、意外に長く城として使われていたことに驚きました。

天神曲輪付近から本丸方面を望む。かつて沼に囲まれた要害であった本丸付近もいまや住宅地に・・・ 婦人会館になっている天神曲輪跡。
その婦人会館に建つ模擬天守風の面妖な資料館。騎西城には天守はなかった。 かつての騎西城。土塁が残るのは天神曲輪の片隅、赤丸の部分のみ。

 

交通アクセス

東北自動車道「加須」ICより車15分。

東武伊勢崎線「加須」駅、JR高崎線「鴻巣」駅よりバス。

周辺地情報

忍城菖蒲城など。

関連サイト

騎西町オフィシャルページを参考にさせてもらいました。

 

参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、「疾風 上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)、「中世の城館跡」(埼玉県立歴史資料館)、騎西町教育委員会パンフレット

参考サイト

騎西町オフィシャルページ

 

埋もれた古城 表紙 上へ