水の城、いまだ落城せず

忍城

おしじょう Oshi-Jo

別名:水城

埼玉県行田市本丸

石田堤はこちら

(行田市堤根〜吹上町袋周辺 新幹線高架橋下周辺)

 

城の種別

平城(沼城)

築城時期

延徳二(1490)年 

築城者

成田親泰

主要城主

成田氏、松平忠吉、酒井氏、松平氏、阿部氏ほか

遺構

土塁、堀、復興鐘櫓、模擬御三階櫓、石田堤

模擬御三階櫓<<2001年9月9日>>

歴史

延徳元(1489)年、山内上杉氏配下の豪族、成田親泰が突然、太田道灌の縁戚で、扇谷上杉氏に属する忍大丞の館を襲い一族を滅ぼし、延徳二(1490)年に築城を開始し翌年完成したと伝えられる。連歌師の宗長は永正六(1509)年、成田下総守顕泰(親泰)の忍城に立ち寄っている。

天文二十一(1552)年、関東管領・山内上杉憲政が北条氏康に上州平井城を追われ越後へ逃れた後、天文二十二(1553)年に北条氏康が忍城を攻めたが陥ちなかった。永禄二(1559)年(永禄三年の誤りか)、長尾景虎(上杉謙信)が関東に出陣した際には、成田長泰は抵抗の構えを見せたが、謙信の軍が城下に無差別に放火したのを見て降伏、謙信に帰順した。

永禄四(1561)年の上杉謙信の小田原城攻めでは謙信の軍に加わり先鋒として小田原城を攻めたが陥落せず、帰途、鶴岡八幡宮での関東管領就任式で謙信に無礼を咎められ、忍城に退陣する。その後はふたたび北条氏に帰順し、天正二(1574)年には謙信に攻められるが持ちこたえて堅城ぶりを示した。

天正十八(1590)年の小田原の役では城主成田氏長は小田原城に籠城し、残った士卒・兵・農民ら三千が立て籠った。攻城の総大将・石田三成は館林城を陥とした余勢で一気に力攻めを行ったが、意外なほどの堅城ぶりに水攻めを発案、延長28kmにも及ぶ「石田堤」を築堤したが、籠城兵が堤に細工し決壊、逆に三成の将兵二百七十名余が溺死した。結局、小田原城開城後も支城としてはただ一つ落城せず、城主氏長が秀吉軍に内通した功と、城兵の助命嘆願を受け入れる形で開城した。

家康の関東入封後は、松平家忠が入城し、文禄元(1592)年には家康の四男・松平忠吉が十万石で入城し、慶長五(1600)年に尾張清洲城に転封となった。その後は酒井讃岐守忠勝、松平伊豆守信綱、阿部豊後守忠秋らが入城、元禄十四(1701)年阿部正武の時、幕府は忍城の三重櫓・二重櫓および帯郭の新たな造営を許可した。文政六(1823)年、松平下総守忠堯が入城、四代の後に廃藩置県を迎え廃城となった。

天正十八年の小田原北条討伐で、石田三成の水攻めにも屈せず、小田原城開城後も最後まで持ちこたえた城。この忍城の開城をもって、このサイトでもたびたび登場する「小田原の役」は終わりを告げ、同時に関東の地における「中世」が終わりました。その後は猿面冠者さんが日の本の国を統一し、関東には狸おやじの家康さんが入封したのはご存知のとおりであります。

忍城は沼の中に浮かぶ水の城でしたが、現在では近くの水城公園が、当時の風景を忍ばせています。さきたま古墳群に近い方には、三成が築堤した石田堤が残ります。せっかく三成クンが太閤殿下の真似して水攻めを思いついたのに、忍城は陥落せず、逆に城方の忍びが堤に細工して決壊、三成クンの手勢に襲いかかり、数百名が溺死してしまいました。館林城を陥として上機嫌な上に、いっつも福島正則やら加藤清正やらに「頭でっかち」呼ばわりされて、ちょっと頑張りすぎちゃったのでしょうが、結局は小田原勢でただひとつ、小田原城開城後まで持ちこたえてしまいました。三成クンの心中、お察し申し上げます。やっぱり、ガラにもないことしちゃイカンということなのかな。なお、この水攻めは小説「水の城 いまだ落城せず」(祥伝社文庫/風野真知雄 著)で詳しく読むことが出来ます。城代を勤め上げた成田長親のキャラクターが最高です。オススメの一冊。

この日は台風16号の接近で、晴れたり土砂降りの雨が降ったりの不安定な天気。でも、水の城には雨がよく似合いました。

【再訪:2003.07.13】

この日、「お城めぐりメーリングリスト」でも大活躍の尾張ちえぞー殿♪が関東御下向とのことで、むく殿、minaka殿(「兵どもの夢の足跡」)とご一緒に御案内役を仰せつかりました。その最後に立ち寄った忍城と石田堤、二度目の訪問はまたしても雨でした。さすが、水のお城・・・。そこで同行していただいたminaka殿に教えていただいた遺構のいくつかを追加しました。忍城の模擬天守が建つ道路の向かい側に「忍東照宮」があり、その周辺に土塁や水堀痕がいくつか見られました。また、あちこちに「○○跡」の石碑が建っており、minaka殿によると、こうした石碑は市内各地に何十箇所もあるんだとか。これはなかなか面白い。土浦城で街中に残る面影を探す面白さに目覚めたソレガシ、今度は忍城周辺をもっと歩いてみたくなりました。

ミョ〜に立派な模擬御三階櫓。「なにもこんなデカイの作らなくとも。。。」と思うのは中世城郭馬鹿のひとり事。

御三階櫓わきの復元(?)門。なんかこれも妙に風格があって、「移築門」と言われたら多分信じちゃいそうです。

復原鐘櫓と時の鐘。当時の鐘は模擬御三階櫓内の展示室に展示してあります。もともとは別な場所に建っていたそうです。

伝・忍城の高麗門。

本丸付近にわずかに残る土塁。向こうに御三階櫓の鯱が見えています。 周囲には鉄砲狭間のある土塀が復元されています。でもこの狭間、向きが逆やんけ(爆)
忍城模擬天守の北側の道路向かいにある東照宮。なぜここに?と思ったら、家康の長女・亀姫の息子、松平忠明が造営したんだそうです。 その東照宮の裏手に残る土塁。ここから東西に、土塁と水堀の痕跡が断片的ではありますが続いています。
諏訪神社裏手の池として残る水堀跡。こうした遺構がそのまま残っているのは意外でした。 東照宮裏手に建つ「諏訪曲輪御門跡」の石碑。
東照宮の西、100mほどの場所にも水堀の痕跡が。水に浮かぶ名城を偲ぶには心許ないですが、かつての湿地の面影を残している一角。 住宅地の中に建つ「二重櫓跡」の碑。これが元禄十四(1701)年に許可されたという櫓なのかな?こういう碑がいっぱいあるそうです(minaka殿談)。
本丸より東に600mほどの場所にある水城公園。忍城の外構えの堀だった。かつてはこの写真のような沼が周囲を囲い、各曲輪は島のように点在していた。 石田堤。優等生・三成クンの一世一代の大技でしたが、城は陥ちず、逆に敵の間者に堤を破られて味方兵士数百人が溺死した。三成クンの額に浮かぶ青筋が眼に見えるようだ・・・。

土砂降りの中、せっかく撮って来たのでもう一枚。新幹線の高架下付近から延びる石田堤。江戸期には街道としても使われたそうです。 さきたま古墳の丸墓山に本陣を置き、敬愛する太閤殿下のマネをして水攻めを敢行し大満足の三成クン。しかし悲劇はすぐそこに。。。現地解説板より。

ダ〜ン!忍城の間者の手抜き工事で堤は決壊、三成クンの本陣は水浸しに。福島正則やら加藤清正がいたら、「治部少、うぬはそれでも武人か〜!」とかケチョンケチョンに言われそう。しかし、凄惨な絵。。。現地解説板より。 加須市の不動ヶ岡不動尊に移築現存している黒門(北谷門)。
【2003.08.03】近くまで行ったついでに「丸墓山」の三成本陣に立ち寄ってみました。

丸墓山へ

 

交通アクセス

関越自動車道「東松山」IC車20分。東北自動車道「羽生」IC車20分。

秩父鉄道「行田市」駅徒歩15分。

周辺地情報

やっぱり石田堤は見ておきたいところ。さきたま古墳群もすぐ近く。車なら鉢形城松山城もそれほど遠くありません。

関連サイト

 

 

参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「戦国関東名将列伝 」島遼伍/随想舎、「日本の城 ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「埼玉の古城址」(中田正光/有峰書店新社)、小説「水の城いまだ落城せず」(風野真知雄)、現地配布資料

参考サイト

行田市ホームページ加須市ホームページ

 

埋もれた古城 表紙 上へ 丸墓山陣