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東松山市街を抜けて市野川を渡ったところ、小高い丘が松山城。三方を川に囲まれ、切り立った斜面が敵を阻む要害の地でした。この写真の左手に有名な吉見百穴があります。 |
岩室観音堂の切り通し遺構は、竪堀も兼ねているようです。ここはとても滑りやすいので注意! |
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岩室観音堂を登りきったところ、何曲輪というのかわかりませんが、現状ではもっとも眺望が開けている場所です。 |
左写真の曲輪から市野川越しに東松山市街地方面を見る。幾度の攻防では、この川の向こうに敵が取り巻いていたことでしょう。 |
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主郭には解説板が建っています。しかしこの横には神社がまるで風に飛ばされたようにひっくり返っている・・・。 |
主郭東に突出した場所に建つ城址碑。物見櫓跡とのことですが、おそらくこの突出部は二郭からの木橋接合点を直接睨む重要地点だったのでしょう。 |
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主郭南の突角陣地であるササ曲輪との間の堀底道。ササ曲輪は南側斜面からの敵を迎え撃つ迎撃拠点のひとつでしょう。 |
ササ曲輪附近から見る太鼓櫓跡。その名の通り、太鼓櫓があったのでしょう(ってそのまんまじゃん)。 |
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主郭と二郭を隔てる大規模な空堀。堀底は緩やかに傾斜し、部分的に微妙な段差があります。 |
堀底から見上げる圧巻の風景。といってもこの小さな写真じゃ迫力は伝わらない。これは一念発起して行くべし。 |
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主郭物見櫓下の堀。これでもか、という直線的な折れは、戦国後期の北条氏による改修を物語っているかのようです。 |
二郭に建つなにやらの神社。この周囲にも大規模な堀が複雑に廻っています。 |
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二郭の斜面南側の堀を見下ろす。ここも塁壁が高く迫力があるのですが写真ではどうも伝えきれませんな。 |
二郭から春日丸方面。写真右手の狭い平場は馬出し状の形状です。 |
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二郭と春日丸を接続する部分、土橋としては妙に低い場所にあります。木橋の橋台にもみえますが、堀底に段差をつけることを目的とした、ある種の畝状防御施設にも見えます。 |
上写真の、春日丸の南西に連なる馬出し状施設。改修時期等を考えれば、こうした馬出し状構造物があるのも不思議ではありませんね。 |
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二郭と三郭の間に横たわる春日丸。「春日」の名前の由来は何なのだろう?春日(高坂)弾正とゆかりでも?? |
春日丸と三郭を隔てる堀切も見事のひとことです。 |
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これは春日丸と三郭の連絡路。ここも土橋としては中途半端、橋台なのか畝なのか、あるいはやっぱり土橋なのか。 |
左の堀の南側、非常に幅が広い堀、と思ったらどうやら「池跡」だったらしい。ただ池が本当にあるかどうかは未確認。 |
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三郭はすっかり藪化しておりました。。。まあ例によって、お構いなしに突入します。 |
三郭と広沢曲輪の間の堀切は規模が小さい。あるいは北条氏の息がかかる前の規模って、こんなものだったのかも。 |
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畑になっている広沢曲輪の片隅にある土壇。あるいはこれも橋台の一部なんでしょうか。 |
どこにあったか場所を忘れた竪堀(苦笑)。ここはもうちょいちゃんと見てくればよかったな・・・。 |
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はじめて行った吉見百穴。信玄はこの穴を見て坑道作戦を思いついたとか。一大観光地ですが、よくよく見ると結構不気味・・・といいながら、しっかり穴にも入りましたが(笑) |
吉見百穴から見る松山城。信玄の目からはこんな風に見えていたのだろうか。それにしても「坑道作戦」って、心理戦以外の実戦効果ってあるのかなぁ? |