吾妻街道、国道353号の、中之条町に入ったあたりから、巨岩奇岩が天を突く嵩山はチラチラと姿をあらわします。遠くから見てもハッキリとその天嶮が伺える、岩櫃城に勝るとも劣らぬ姿です。
嵩山城の入り口は「嵩山館」といわれる公園になっていて、この付近から登山路があるのですが、下から見上げても相当な規模の岩山で、「ほんとにここに登るの?」と自問自答しながらも、ここまで来たからには登らぬわけにもいかん!足はすでに東登山ルートに向かっていました。
見た目に負けず厳しい登山道でなんと言っても足元が岩だらけ、その上急斜面。はっきり言って城というよりは修験道の山。肝心の遺構はあまりありません。というよりも、ここも地形が地形なだけに、大掛かりな普請は必要なかったに違いあいません。天狗岩、烏帽子岩などの突き出た岩と岩の間の鞍部にわずかな平地があり、「実城の平」と呼ばれている一帯が城域だっただろうと想像します。よって、堀切や土塁といった、分かりやすい遺構は全然ありません。まあ登山路の石垣(というか石組み)がもしかしたら遺構なのかな?という気がしないでもないですが。。。
この嵩山城の陥落は信玄にとっても幸隆にとっても非常に価値が高く、信玄は内通した敵将の池田佐渡守に感状を与えているほどです。これに先立つ岩櫃城の攻略とこの嵩山城の陥落で、一気に苦しくなったのは箕輪城の長野氏で、その翌年に落城しています。信玄、そして真田幸隆らにとって吾妻・西上州攻略のための重要拠点であったことがわかります。
城虎丸は名前からして元服前の少年であったのでしょう。この山間の天嶮の城を守りきれず、「大天狗岩」から飛び降りてその命を空に散らせたという。そんな風に考えると、夕暮れ前の美しいこの景色も、どこかもの哀しく見える気がしますね。