吾妻渓谷を睨む天嶮の岩峰

丸岩城

まるいわじょう Maruiwa-Jo

別名:

群馬県吾妻郡長野原町横壁

城の種別

山城

築城時期

永禄年間(1558-70)頃

築城者

羽尾幸全(?)

主要城主

羽尾氏、真田氏

遺構

曲輪、土塁

吾妻街道より見上げる丸岩城<<2003年08月10日>>

歴史

永禄年間に羽根尾城主・羽尾幸全が築いたというが詳細不詳。天正十(1582)年、武田勝頼の滅亡により大戸城を攻略し須賀尾峠を越えて長野原進出を目論む北条勢に対抗して、真田昌幸が湯本・西窪・横谷・鎌原などの西吾妻の諸将を交代で駐屯させた。上杉景勝が岩井備前守に宛てた書状に、天正十二(1584)年三月二十六日、信州高井郡の地侍・須田信正、市川信房が羽尾源太郎を援けて三原(長野原城)、丸岩城を奪取したと報じたものがある。

地図によっては繋がっていない道、須賀尾峠。この標高千メートル強の峠をさらに見下ろす天嶮の岩山、丸岩城の姿は吾妻街道からもひときわ目立っています。「丸岩」という名前のとおり、半円形のほぼ垂直な岩が山を半周しており、その下には吾妻渓谷の激流が流れる、まさに天然の要害。実際、地形図を見ると、吾妻街道付近の標高はおよそ570メートル、対して丸岩城は1130メートル、その比高差なんと560メートル!「日本城郭大系」では350メートルとなっていて、どこを基準に見るかにもよると思いますが、とにかくとんでもない山です。唯一人間が歩ける南側の細尾根、須賀尾峠からの道だけが通じています。実際、「城郭大系」にも「冬季の籠城は不可能」と書かれているし、そもそもこんな険しい山にお城を作っても、あまりに険阻すぎて街道を通る敵を迎撃することもできないのではないか、そんな感じさえします。

今回、新結成(?)の「常総戦隊ヤブレンジャー」のメンバーは、世間は夏真っ盛り、前日は台風で大騒ぎにもかかわらず、朝のラジオ体操代わりにこのお城に攻め寄せ、見事攻略しました。恐るべし、ヤブレンジャー!この謎の団体については「余湖くんのホームページ」(丸岩城の頁)を見ていただくとして、実際歩いた感じだと、須賀尾峠からの登りは最後に直登の急坂があるものの、それほどきつくはありませんでした。須賀尾峠までは車でいけますし、最初は山腹の緩やかな登り、それほど危険な場所もなく、見た目よりは攻略しやすいお城ではあります。しかし遺構はというと特筆するものはあまりなく、「尾根に続く風除け土塁」も期待して行った割には「?」な感じでした。なにより、外見と違って山上は非常に狭く痩せ尾根地形で、とても居住性があるお城には見えません。東から北、西の三方は断崖絶壁なので攻められる心配もないため、堀切や土塁などの目立つ防御もほとんどありません。なぜか北側に数段の腰曲輪があるのが気になるところですが、これはレンジャー隊内では「旗や幟を並べて街道を通る敵を威圧するため」という意見が出ており、意外と当たってるんじゃないか?そんな気がします。もっとも、真田忍者なら岩の上から跳ぶ、絶壁を昇り降りする、そんなこともあながち無いとも言い切れないかも。

実はこの丸岩城、昨年(2002年)秋に単独で一度攻めているのですが、登り口がわからず、峠の頂上から適当にアタリをつけて登り始め、およそ50分近くも歩いたころ、ふと景色を見ると自分が登るはずだった丸岩城がなんと眼下に見えている!(笑)そう、ぜんぜん違う山に登っちゃったんですワ。しかも急に霧が濃くなってくるし、その後登山口を見つけても、再び登り始めようという気力はなかったですね。今回、リベンジが成就した記念に、貴重な「上から見た丸岩城」の写真も公開いたしましょう!

吾妻渓谷、ダムに沈む川原湯温泉附近から見上げる丸岩城。どうやっても目が行ってしまう、非常に目立つ山です。どことなく「亀○静■」氏のヘアスタイルに似ている(笑) 須賀尾峠中腹の道路から見上げる丸岩城。この道路付近でも吾妻街道からは200m以上高いところにありますが、そこからでもこの威圧感。見て分かるように、実は山の上は平らではなく痩せ尾根地形です。
この小さな登山口の看板を目印に登り始める「常総戦隊ヤブレンジャー」たち。須賀尾峠頂上から、やや北に降りた道路沿いにあります。 山腹の緩やかな登り道脇には、夥しい岩石が転がっていて、石塁のようにも見えますが、完全に自然の崩落によるものです。
須賀尾峠方面と丸岩城の接点となる天然の大堀切。ここから暫く、直登の急斜面になります。 これが須賀尾峠方面と繋がる細尾根の風除け土塁、とはいうものの、これじゃ低すぎて風除けにはならない。これがないと通れない、というほど狭くもないし・・・。
やってきました、標高1130mの山頂。このあたりまで来ると真夏でも案外涼しいもんです。眺望が無いのが残念ですな。 一応「主郭」と見られる曲輪と、低い土塁状の盛り土。ここに土塁設ける意味ってあんまり無いし、曲輪も掘っ立て小屋一棟で精一杯の狭さ。せいぜい烽火台程度の役割しか果たせないでしょう。
主郭の東側、一段低い曲輪から見る主郭。むろん堀切などありません。この一段低い曲輪が強いていえば十数人程度がザコ寝で居住できる小屋を設ける居住区、といったところか。 丸岩上に連なる細尾根。こうやって見ると、「○○探検隊」が突入するジャングルみたいに見えてくる。。。。
尾根の下、北側を中心に数段の腰曲輪がありますが、この方面は攻められる危険度がゼロ。そこで出た「こけおどし旗ならべ説」。あるいは、荒天時の緊急避難用かも知れませんね。 山頂は見晴らしがゼロなので、須賀尾峠の中腹から見る吾妻街道の景色。ここも八ッ場ダム建設で、あと数年で景色が変わってしまうのである。。。
ここが今回の本陣となった川原湯温泉。「チバラギ藪の会」はこのあと「ヤブレンジャー」に進化を遂げた(?)。ちなみにこの川原湯温泉は全部八ッ場ダムで水没してしまうのである。。。 これが「上から見た丸岩城」。まったく違う山に登っていたとはなんとも気合が抜けてしまう。しかもこの霧。こんな写真、そうそう見れませんぜ!

 

交通アクセス

JR吾妻線「長野原草津口」駅徒歩70分。

関越自動車道「沼田」ICより車40分。須賀尾峠は大型車は通り抜けできません。

周辺地情報

岩櫃城が素晴らしい。興味があれば長野原城も近い。

関連サイト

余湖くんのホームページ」に鳥瞰図ならびに「ヤブレンジャー」紹介があります。「八ッ場ダム」事業についてはソレガシのサイトの「攻城雑記その14 吾妻渓谷が死ぬ日」もご覧くださりませ。

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

 

埋もれた古城 表紙 上へ