小山田信茂に何があったのか?小説「武田勝頼」では、家臣に強要されたことになっていましたが、真相は闇の中です。ただ、小山田氏は武田に被官していたものの厳密には「家臣」ではなく、「織田・徳川」のような同盟関係にあったのではないか?と見られています。とすれば、当時の道徳観念から推察すれば、主に忠を尽くして家を絶つよりも、強者に組して家名を存続させる道を選んだのでしょうか。もちろん推測に過ぎません。ただ、この後に織田信長・信忠によって「不忠者」として成敗されたことは事実であり、そういう意味では信長の覇権拡大の下で犠牲となったひとり、なのかもしれません。そして当の信長はご存知のとおり、このわずか三ヵ月後にあっけなく果ててしまうことになるのです。
岩殿城はいやでも目立つ大岩盤の上にありました。上にあった、というよりも巨大な岩がそのまま城として利用された、と見るほうがいいでしょう。大月の街や中央高速からでも、この異様なほどの岩盤は目立ちすぎるほど目立っています。最後にこの岩殿城に落ち延びようとした勝頼にも、この堅固さが頼みに思えたのでしょうか。とにかく、まともに攻めても絶対に陥ちなそう、というより、まともに攻めることすら不可能に近い、これ以上ないくらいの天嶮の要害地形です。
地形が険しい分、人工的な遺構としてめだったものはあまりありません。まあ、岩の上に出てみれば意外に広い曲輪や、自然の地形を最大限利用した木戸跡など、それなりに見所はあります。驚いたのは、こんな岩山にもちゃんと井戸があって水が湧いていること。でも、何よりもここから見る富士山の美しさ、真下に見下ろす桂川(相模川)と中央高速、の景色が最高でしたね。単なるハイカーじゃねえかそれじゃ、って思われるかもしれないけど。まあ登りがきつい分、景色で満足させてくれることは間違いないです。でも登りは見た目のまんま、死ぬほどきついので覚悟。