千本城の考察 2004.03.25

千本城の構造から、その築城目的、機能を探ってみたい。

千本城久留里城から南に3.5kmの至近距離にあり、規模は長軸1100m、短軸300mという、小櫃川沿いの里見氏系城郭では久留里城に次ぐ規模を持つ大城郭である。これはもちろん、久留里城の周囲に点在する支城網の中でも群を抜いて圧倒的に大きい。何故、里見氏の本拠たる久留里城の至近距離にこれほどまでに大きな城郭が必要であったのだろうか。「天正の内乱」で登場する東平氏という里見氏の一被官の城としては分不相応であるのは明白であるし、単なる久留里城の「支城」として捉えるには、その規模は奇異に映る。しかも、これほど至近距離にありながら、中間の丘陵によって視界が遮られ、お互いが視野に入らない。つまり、単なる狼煙の中継点などではない、特別な意味を持つ立地なのである。

上空2500mから見た千本城周辺図(カシミール3D画像、注1)。

千本城と久留里城の間の可視判定(注1)。※クリックすると拡大します

千本城鳥瞰図

※クリックすると拡大します

千本城の構造を「A」から「D」の大きく4つのブロックに分割してみた。

恐らく「A」地区はもともと存在したオリジナルの千本城の姿であろう。基本的には幅が狭く崖に囲まれた峰を中心とした単純な構造である。ここだけを見れば、構造的には一般的な山城とそれほど変わらない。立地、縄張りとも、よくある里見氏系城郭の特徴を色濃く残している。

「A」区は最高所のT曲輪に北野神社が祀られている。もともとの千本城の主郭はここであろう。のちに「B」地区が拡張されてからは物見や狼煙台、あるいは詰の空間として用いられたかもしれない。一応ここでは千本城全体としての主郭をT曲輪とする。T曲輪周囲はぐるりと垂直削崖が取り巻いている。直接加工された形跡のある削崖は高さ2-3mほどながら、正面からの取り付きは全く不可能なほどである。T曲輪の北側には切岸状の段差を経て、U曲輪が附属する。この間に堀切等はないが、1mほどの土塁がある。しかし、この土塁は北野神社社殿建設に伴うものである可能性が高い。U曲輪の西側は断崖絶壁で近寄れない。北西に派生する細尾根があり、物見などの機能を持っていたであろう。この物見附近も上り下りが不可能な断崖絶壁である。

T曲輪南方は現在の参道である「男坂」が堀切4の中を通過する。参道の位置が堀切の中腹を通っているため小さな堀切に見えるが、実際には高さ10m、天幅12mにもおよぶ巨大な堀切である。T曲輪にはこの他、西側に向けて派生する支尾根があり、小規模な腰曲輪を経て堀切5がある。この堀切もT曲輪側では高さ10mほどもあるであろう。ほぼ垂直に切り下げられた堀切は圧巻である。この西側の尾根には垂直削崖が施されているが、この先には堀切等は見られない。途中、非常に急な崩落崖がある。

T曲輪の南側は途中堀切2、3、4などを経て主尾根が続いている。本来の登城路はこれらの堀切の間をジグザグに通るルートであったようだ。尾根は南に向かって痩せ尾根地形となり、途中削り残しの土塁状の尾根となる。その南端は驚異的は規模の大堀切1で断ち切られている。この大堀切は天幅20m以上、深さも15-6mはあるであろう。後世に掘り下げられた可能性も無くは無いが、あまりその必要性もなさそうだから、当時からこの規模であったと考えたい。堀切上部は切り立った垂直削崖になっており、その端はオーバーハングしている。見学時は足許の崩落や転落に十分気をつけなくてはならない。この堀切は電光形の折れを伴った堀底状通路となる。この通路は「女坂」と呼ばれるが、これが当時の登城路であったと考えられる。この通路は大堀切1を通過して山の東側を通り、再び堀切3をくぐって西側へ、そして三たび堀切4をくぐって主郭虎口へと達する。その間、絶えず頭上攻撃にさらされなくてはならない。

「B」地区はかなり人工の手を入れて居住に耐えるだけの空間を造りだしているように見える。土塁や堀の防御も「A」地区よりも新しい。もともと「A」地区に比べて尾根の幅も広かったのであろうが、かなり大規模に手を入れて削平地を作り出しているらしいことが窺える。しかも、周囲の崖は「A」区よりもむしろ険しく、標高こそ「A」区より低いものの、城内では最も枢要な場所として用いられていたことと思う。恐らく、もともとの単純な山城である「A」区に対して、それよりも下った時期に大規模に拡張されたものと思う。

「A」地区から「B」地区へは堀切はなく、切岸と細尾根によって区画されているだけである。このあたりの構造がいかにも不完全な印象を受ける。この接合部から東に派生する幅の広い尾根があり、「用替」の地名がある。むろん「要害」が転訛したものである。この尾根上には広い曲輪Vがある。周囲には若干の腰曲輪や垂直削崖があるが、堀切や土塁は見られない。周囲は沢が作り出す深い谷になっており、こちら側から攻められる恐れは少ないと思われるが、激戦の場であったという伝承がある「難闘場」などの地名もある。東側の深い山側から攻められたのであろうか。この曲輪と主尾根の間には谷戸状地形があり、その中は湿地となっている。この山にはこうした谷戸状の湿地が実に多い。このV曲輪は「B」区の中でも突出した独立陣地であり、本来「B」区とは成立時期も異なるかもしれない。

W曲輪は西側を「八反崖」に面しており、西側・北側には数段の削平地を伴っている。崖に面した西側には高さ2mほどの土塁があるが、崖は高く峻険で、この方面から攻められる危険性は少ない。この土塁は何を意図したのであろうか。よくわからない。

Xの曲輪群は数段の削平地の集まりで、下の段から「一の台」「二の台」「三の台」と呼ばれる。この「三の台」を主郭と看做すこともできる。主郭、という言葉の捉え方にもよるだろうが、長大な土塁と横堀に守られたこの曲輪には城主やその一族の居住区があったことだろう。ただし、この「B」区全体にいえることだが、各曲輪間は若干の段差で区画されているだけで堀切のような明瞭な区画はない。従って、これらの曲輪群のどれを主郭と看做すかは人によって差があることと思う。このX曲輪は城内・城外への見通しはよくない。むしろW曲輪の方が主郭らしく見えなくもない。一応前述の通り、千本城全体としての主郭はA地区の峰の頂にあるT曲輪と捉え、W、X曲輪についてはB地区の枢要な曲輪、として捉えておく。

「C」区に至っては明瞭な城郭遺構に乏しく、Z曲輪も曲輪と呼べるかどうかは遺構面からは疑問であるが、「新曲輪」という名称があることから、またここから派生する支尾根に大規模な堀切9があり、その内側に位置することから、一応城内と見ていい。しかし、曲輪そのものは実際には未完成であるように見える。とすると、この「新曲輪」造成の時点で、千本城の改修拡張が中止された、つまりその必要がなくなった、と解釈できる。この曲輪附近の谷戸は深い湿原である。どうやら以前は田んぼであったようだが、中世期においても泥田堀であった可能性は十分ある。

「D」地区(「萩の台」)については馬場であったという伝承があるとのことであるが、実際に歩いてみたところ特に城郭遺構らしいものはなかった。実際には城内最大の大堀切1が南限であろう。切通しの通路などは散見されるが、城郭遺構というよりも後世の森林資源開発などに伴うものであろうと思う。ただ、この「D」区は隣接する大戸城に繋がる尾根でもあり、大きく見れば外郭の一部であるとも考えられる。

こうした大規模な構造と、年代差の感じられる遺構、未完成な印象を総合的に考えて、ひとつの推論として、永禄七(1564)年以降の緊張状態下における里見方の前進拠点として拡張された可能性を指摘しておきたい。

里見氏の上総経営の拠点は佐貫城であり、久留里城であった。東上総に於いては無二の同盟者たる正木時茂・時忠兄弟の大多喜城勝浦城がその役目を果たしていた。これら東西ほぼ一直線上に並ぶ主要城郭群はいわば里見氏にとっての「上総国防圏」に相当する。

しかるに、永禄七(1564)年の「第二次国府台合戦」の敗北によって、その防衛構想は完全に崩れた。佐貫城はすでに永禄の初めから北条氏の手に渡り、この当時は古河公方・足利義氏の御座所にもなっている。勝浦城の正木時忠や万木城の土岐氏も離反し、大多喜城の海の玄関である一宮城も勝浦正木氏の離反によって奪われてしまった。東上総は大多喜城一城によって辛うじて支える有様となった。上総中央部も池和田城秋元城などが落とされ、本拠の久留里城でさえも一時北条の手に渡り、常陸の小田小太郎が在番を命じられている。この小田小太郎が実際に久留里城に入城したかどうかはわからない。現遺構を見る限り、久留里城に後北条の手による拡張があったようには思われず、その占領はごく短期間のものであったと思われるが、一時的にせよ里見氏にとってのシンボリックな城郭である久留里城まで敵方に奪われたことは、相当な衝撃であっただろう。

これに対抗して、里見氏はその南側に新たな防衛圏を築いた筈である。そのラインは恐らく、岡本城宮本城里見番所江見根古屋城などのラインではなかっただろうか。このラインは平久里川や丸山川流域の平地を守る、いわば最終防衛圏である。

この最終ラインより北側にも当然、安房を防衛し上総を奪還するための前進拠点がある筈である。それが小櫃川沿いの千本城であり、養老川沿いの大羽根城ではないか、と推測する。この千本城は久留里に近いというだけでなく、上総山間の交通の要所である亀山郷の入り口にもあたる。亀山郷を突破されれば、大多喜や鴨川、長狭街道方面への道も開けてしまう。千本城直下の松丘は、北条に占領された 秋元城のある小糸からの街道も繋がっている。里見氏としては最終防衛ラインに敵が押し寄せる前に、何としてもこの亀山郷の手前で北条の侵攻を防衛したかったのではないだろうか。しかも、一時的にせよ前述のように久留里城さえ敵方に奪われたのである。その奪還や、敵の南下を抑える意味でも、里見氏がこの千本城に大きな期待を寄せていたであろうと推測するのである。

こうした推測をまとめると、

・もともとの千本城久留里城の一支城として、「A」地区のみの単純かつ小規模な山城であった。
・国府台の後、久留里城奪還および上総の防衛のために、北側の「B」地区が大拡張された。
・しかし、まもなく久留里城の奪還や永禄十年の三船台合戦での勝利により、拡張の必要が薄まり、「C」地区は工事半ばにして放棄された。
・「D」地区は、厳密には城域ではない。

というようになる。
これらはあくまでも表面観察と前後の政治的・軍事的背景からの推測に過ぎないが、他にこれほどの大城郭が必要な理由は見当たらない。残る可能性として、北条氏による改修の可能性も挙げられるが、北条氏が久留里を占領していた期間はごく短期間と考えられ、千本城に見られる大規模な改修工事を施す時間的余裕はあまり無かったはずである。さらに立地面でも北条氏の典型的な城郭とは掛け離れているし、遺構面でも北条氏の城郭群との共通性はあまり感じられない。結論として、里見氏の小櫃川流域の領土回復のための一大前進基地であった、と推測する。その役割は久留里奪還、西上総の勢力回復によって達成した。その後は久留里城すら一支城に格下げされてしまったように、再びもとの一支城として、東平氏らの城番に委託されたのではないだろうか。

[2004.03.25]

注1:このコーナーでは、DAN杉本さん作成のフリーの山岳景観シミュレーションソフト「カシミール3D」と国土地理院発行の数値地図(1/5万および1/20万)を使用した。また、地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図50000(地図画像)および数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平15総使、第342号)

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