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神社社殿は背後の鉤型の土塁。高さは1mもなく、単に神社の建立のためのものかもしれません。 |
主郭南端をS字に入る場所が虎口だったと思われます。ここからみる堀切4の高さはなかなかスゴイです。 |
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T曲輪南東下から見る周囲の垂直削崖。ただでさえ急斜面なのに、裾の岩盤をほぼ垂直に削り落としているため、この方面からよじ登るのはまず不可能。なお主郭の西側は削崖に向かって表土がオーバーハングしていますので、崖端には近寄らないのが賢明。 |
T曲輪から西へ伸びる支尾根を断ち切る堀切5の断面。岩盤をスッパリ断ち切ってほぼ垂直に切り立てる、里見氏系城郭の醍醐味を感じることができます。 |
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U曲輪北西端の物見らしい場所。この先端は非常に急斜面のため通行不可能。U曲輪西側は崩落崖がスゴイので注意が必要です。 |
U曲輪とV曲輪(「用替」)の間の谷戸。曲輪としても仕えそうな広さですが、とにかくジメジメの湿地。前日の雨のせいもあるでしょうが、いつ来てもこんな感じなので、やはり湧水が相当あるのでしょう。 |
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V曲輪周囲の垂直削崖。垂直で湧水の染み出た岩盤はなまじの土塁や石垣よりもはるかに堅固。 |
W曲輪西側の「八反崖」に面した土塁。このW曲輪から北側は広い削平地が連なる地区(図のB地区)で、痩せ尾根主体のA地区とは明らかに構造が異なります。 |
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W曲輪の土塁から八反崖を見下ろすオカレンジャー。土塁は2.5mほどの高さがあるのですが、崖に面した側になぜこれほどの重厚な土塁が必要だったか、ちょっと謎です。 |
こちらはY曲輪、「三ノ台」の土塁。高さは2m前後、長さは100m弱あり、途中で大きな横矢状のクランクを持っています。このY曲輪を主郭とみる考え方もあります。 |
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Y曲輪に面した大規模な横堀8。自然の谷戸を利用したものでしょうが、明瞭な折れを持っています。 |
堀8は空堀というより泥田堀だったようです。まるで底なし沼のようです。 |
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酷いヤブで形がよくわからなかった[曲輪、通称「新曲輪」。ざっと見た感じだと、未完成な印象を受けました。 |
しかし、[曲輪から派生する尾根には大規模な堀切9があり、[曲輪も城内であることが分かりました。この堀切はデカすぎてカメラに収まりきれません。 |
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[曲輪周囲の谷戸は田んぼとして使われた時期もあったらしく、まさに泥沼。「北斗の拳」終盤の、カイオウとの決戦の場がこんな景色だったような気が・・・って、その例えじゃわかんねぇよな。。。「余湖くんのHP」には、泥田堀にハマってしまったソレガシの姿も・・・。 |
ヤブも切岸もなんのその、な人たち。普通の人が見れば足を踏み込むのさえ躊躇われる山林でも、「城」の一文字で体を張ってしまう。 |
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「男坂」の参道が通過する堀切4。参道から見ると小規模な堀切にみえるのですが・・・。 |
ところが実は、高さ10m、天幅も12mほどはあろうかという巨大堀切なのです。主郭の南側は力技がスゴイ遺構が続きます。 |
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「女坂」からの道が通過する堀切3。ここは切通し通路も兼ねているようです。こちらの女坂経由の経路が歴史的な通路かと推測します。 |
堀切3の東側にある枡形状空間。「枡形」というほど明瞭ではないですが、堀切3とセットになった木戸が置かれていたと想像されます。 |
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南尾根に点々と連なる尾根の削り残し土塁。これも里見氏系城郭で多く見られる手法です |
これが衝撃の大堀切1。いったいどれくらいの高さがあるんだろう?20m?しかも、岩盤をほぼ垂直に削っているため、降りることもできない。上から見る限り、車道等で掘り下げたわけでもなさそうだし。ここも足許超危険地帯。まさに殺人的大堀切。ここは降りれないので、堀切3附近から女坂を降りましょう。 |
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女坂脇にあった井戸、というか貯水施設。同様なものは金山城、南条城などで見られます。 |
女坂を迂回して降りた堀切1。写真だと小さく見えますが、このさらに上まであるのです。いったい何を考えてここまで大きくしたか・・・。 |
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堀切1から女坂の堀底状通路を見る。この通路も非常に大規模です。 |
同じく女坂。途中で電光系の折れを持っており、やはり中世期の遺構と思います。 |
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さらに南の「萩の台」は広い空間がありますが、ソレガシには城郭遺構には感じられませんでした。 |
北野神社附近から小櫃谷に面した城下集落を見る。里見義頼が領国完全制圧を狙って押し寄せてきた山河が一望に。 |