上総衆・東平安芸守、起つ

千本城

せんぼんじょう Senbon-Jo

別名:

千葉県君津市広岡

城の種別 山城

築城時期

不明

築城者

不明(里見義実?)

主要城主

里見氏、東平氏

遺構

曲輪、堀切、土塁、削崖

南側尾根の巨大堀切<<2003年03月23日>>

歴史

築城時期等は不明。千本城主郭に建つ北野神社は長享二(1488)年、里見義実の創建と伝えられるが、里見氏がこの時期にこの地域に勢力を持っていたかどうかは不明。天文年間に、一時里見義弘が付近の大戸城に在城していたといわれるが、実は千本城にいたのではないか、という説もある。
天正六(1578)年五月、里見義弘は佐貫城で死去した。義弘には晩年近くまで嗣子が無く、弟(庶子とも)の義頼を養子として後嗣にしていたが、晩年近くに正室(足利晴氏息女)に梅王丸が生まれ、義弘と義頼の関係は悪化、義弘の葬儀には義頼をはじめ安房譜代家臣団は参列しなかった。義頼は岡本城に在城して梅王丸と対立したが、千本城主の東平安芸守・右馬允(光徳)父子らを中心とした小櫃川流域の家臣団や大多喜城主・正木憲時、造海城主・正木淡路守時盛らは梅王丸を支持した。天正八(1580)年四月、里見義頼は東平安芸守らの立て籠もる千本城久留里城などの小櫃川流域の諸城を攻めて降伏させ、次いで造海城の正木淡路守も降伏、佐貫城で梅王丸の後見をしていた加藤伊賀守信景の内通を誘い、佐貫城を開城させた。梅王丸は岡本城で出家させられ淳泰と号した。梅王丸の母と妹は高滝右京に預けられ、琵琶首館に幽閉された。
天正十八(1590)年の小田原の役の後、里見氏は豊臣秀吉によって上総を召し上げられたため、千本城も廃城となった。

里見義弘の死後、その跡継をめぐって領国が二分した里見氏の「天正の内乱」に際して、東平安芸守父子が里見義頼に抵抗して立てこもったのがこの千本城です。この天正の内乱(梅王丸騒動)では、義弘の死より以前から義頼を中心とする「安房譜代」と梅王丸を中心とする「上総譜代」の対立があったようで、その意味では里見氏の家督相続争いであると同時に、家臣団同士の対立でもあったわけです。どれくらい深刻に対立していたかというと、佐貫城で世を去った里見義弘の葬儀に、義頼を含め安房からは誰も焼香に行かなかった、というくらいですから尋常ではありません。上総譜代衆の中心的な人物と目される東平安芸守、右馬允らが千本城久留里城で義頼に対して叛旗を掲げます。東平安芸守は、梅王丸の母の父、あるいは兄とも言われますが、梅王丸の母は古河公方・足利晴氏の息女なので、東平安芸守は父や兄ではないでしょう。東平氏の妹が梅王丸の乳母だった可能性も指摘されています(「新編房総戦国史」)。いずれにしても梅王丸支持派の上総衆の期待を担っての挙兵でした。しかし義頼はむしろこれ幸いとばかりに小櫃谷に進攻し、あっという間に千本城久留里城の反乱を鎮圧してしまいます。義頼という人物は、外敵との闘いこそ少ないものの、機を見るに敏なところがあり、のちに同じく自分に対して叛旗を掲げた大多喜城主・正木憲時を滅亡させて事実上大多喜領を直轄領化するなど、なかなかすぐれた策謀家であったようです。里見氏は、内乱のたびに焼け太りしますね。

また、小田原の役での落城説もあり、附近にはそれに因む地名「難闘場」「粟殿」「ねぎち」などがある、といいますが、場所はわかりませんでした。この時期には千本城附近は豊臣軍に従軍した里見氏領であったはずで、千本城が攻められる理由はないような気がします。もしあるとすれば、浅野長政隊がちょっと調子に乗って領土の境を超えてしまった可能性(これは実際にあったらしく、秀吉に叱られている)、あるいは里見氏の上総没収後に城の受け取りにきた接収軍との間になんらかの小競り合いがあったかもしれません。

千本城鳥瞰図

※クリックすると拡大します

千本城の立地は里見氏の本拠である久留里城とも直線で2km程度と非常に近く、久留里城の背後を守ると同時に、小櫃谷の奥部支配のための重要な支城のひとつであったと思われます。お城のある山は標高150m、比高100mほどで、眼下に小櫃川流域の平地と久留里街道を望みます。主郭には里見義実が勧進したといわれる北野神社があり、神社までの参道は比較的よく整備されています。この主郭附近の周囲は非常に急な崖になっており、さらに斜面の裾は里見氏・正木氏系城郭の常套手段である垂直削崖によって取り付きを不可能にしています。西へ向かう峰、南へ向かう峰にはそれぞれ大規模な堀切が設けられ、尾根を垂直に削り残した尾根土塁なども見られます。圧巻は南の尾根先端にある大堀切で、高さは20m以上あるでしょうか、堀切の断面は岩盤を削り落としてほぼ垂直になっており、現在でも尾根筋の通過は全く不可能、堀底に降りたくても降りる場所すらない険しさです。多分に自然地形を生かしてのものではあるでしょうが、まさに殺人的なスゴさの堀切です。この近辺や、主郭の西側の崖は削崖の上の表土がオーバーハングしている場所が多いので、うっかり崖端に近寄ると、足元が実は地面ではなくて垂直な崖下にまっ逆さま、という危険が十分にあり得ます。非常に危険です。くれぐれも無理せず、危険防止に気を配って頂きたいお城です(第一回目の訪問:2003.03.23)。

さて、「常総戦隊ヤブレンジャー」は『上総激ヤバ城郭ツアー』と称して、以前見ていなかった北側の遺構群などなどを一通り観察してきました(第二回目の訪問:2003.11.15)。一回目の訪問で歩いた北野神社附近から殺人的大堀切までの範囲は、実は広大な千本城の一部に過ぎませんでした。落書きのようだった概念図も改めました。じゃあどんなお城なんだ、ということでちょっと考えてみましたので、「千本城の考察」をご覧下さい。

[2004.03.26]

同じような山ばかりでどれがお城なのか判断がつきにくい。上総松丘駅東北の山がめざす千本城です。遠目ではなだらかに見えるこの山が、恐るべき天険の要害でした。

上総松丘駅から久留里街道(R410)を挟んだ向かいあたり(踏切附近)に集落へと伸びる道があり、「千本城跡入口」の石碑が建っています。この先の神社裏手附近まで、まっすぐ進みましょう。

やがて舗装路が途切れ砂利道に。しかしこの巨大な素掘りトンネルまで行ってしまったら行き過ぎである。神社裏手の炭窯附近から左手に参道があるので、そこを登りましょう。途中二股に分かれる左が男坂、右が女坂です。

女坂沿いの谷戸奥の窪地には湧水があります。水の手のひとつでもあるでしょうが、このお城はとにかく湧水が非常に多いように思います。

とりあえず主郭と見立てたT曲輪に建つ北野神社。房総里見氏初代の義実勧進と伝わりますが、里見氏の上総央部への進出年代を考えると疑問ではあります。ここまでの道は整備されていて、ほとんど危険はありません。

神社社殿は背後の鉤型の土塁。高さは1mもなく、単に神社の建立のためのものかもしれません。 主郭南端をS字に入る場所が虎口だったと思われます。ここからみる堀切4の高さはなかなかスゴイです。

T曲輪南東下から見る周囲の垂直削崖。ただでさえ急斜面なのに、裾の岩盤をほぼ垂直に削り落としているため、この方面からよじ登るのはまず不可能。なお主郭の西側は削崖に向かって表土がオーバーハングしていますので、崖端には近寄らないのが賢明。 T曲輪から西へ伸びる支尾根を断ち切る堀切5の断面。岩盤をスッパリ断ち切ってほぼ垂直に切り立てる、里見氏系城郭の醍醐味を感じることができます。

U曲輪北西端の物見らしい場所。この先端は非常に急斜面のため通行不可能。U曲輪西側は崩落崖がスゴイので注意が必要です。 U曲輪とV曲輪(「用替」)の間の谷戸。曲輪としても仕えそうな広さですが、とにかくジメジメの湿地。前日の雨のせいもあるでしょうが、いつ来てもこんな感じなので、やはり湧水が相当あるのでしょう。

V曲輪周囲の垂直削崖。垂直で湧水の染み出た岩盤はなまじの土塁や石垣よりもはるかに堅固。 W曲輪西側の「八反崖」に面した土塁。このW曲輪から北側は広い削平地が連なる地区(図のB地区)で、痩せ尾根主体のA地区とは明らかに構造が異なります。
W曲輪の土塁から八反崖を見下ろすオカレンジャー。土塁は2.5mほどの高さがあるのですが、崖に面した側になぜこれほどの重厚な土塁が必要だったか、ちょっと謎です。 こちらはY曲輪、「三ノ台」の土塁。高さは2m前後、長さは100m弱あり、途中で大きな横矢状のクランクを持っています。このY曲輪を主郭とみる考え方もあります。
Y曲輪に面した大規模な横堀8。自然の谷戸を利用したものでしょうが、明瞭な折れを持っています。 堀8は空堀というより泥田堀だったようです。まるで底なし沼のようです。
酷いヤブで形がよくわからなかった[曲輪、通称「新曲輪」。ざっと見た感じだと、未完成な印象を受けました。 しかし、[曲輪から派生する尾根には大規模な堀切9があり、[曲輪も城内であることが分かりました。この堀切はデカすぎてカメラに収まりきれません。
[曲輪周囲の谷戸は田んぼとして使われた時期もあったらしく、まさに泥沼。「北斗の拳」終盤の、カイオウとの決戦の場がこんな景色だったような気が・・・って、その例えじゃわかんねぇよな。。。「余湖くんのHP」には、泥田堀にハマってしまったソレガシの姿も・・・。 ヤブも切岸もなんのその、な人たち。普通の人が見れば足を踏み込むのさえ躊躇われる山林でも、「城」の一文字で体を張ってしまう。
「男坂」の参道が通過する堀切4。参道から見ると小規模な堀切にみえるのですが・・・。 ところが実は、高さ10m、天幅も12mほどはあろうかという巨大堀切なのです。主郭の南側は力技がスゴイ遺構が続きます。
「女坂」からの道が通過する堀切3。ここは切通し通路も兼ねているようです。こちらの女坂経由の経路が歴史的な通路かと推測します。 堀切3の東側にある枡形状空間。「枡形」というほど明瞭ではないですが、堀切3とセットになった木戸が置かれていたと想像されます。
南尾根に点々と連なる尾根の削り残し土塁。これも里見氏系城郭で多く見られる手法です これが衝撃の大堀切1。いったいどれくらいの高さがあるんだろう?20m?しかも、岩盤をほぼ垂直に削っているため、降りることもできない。上から見る限り、車道等で掘り下げたわけでもなさそうだし。ここも足許超危険地帯。まさに殺人的大堀切。ここは降りれないので、堀切3附近から女坂を降りましょう。
女坂脇にあった井戸、というか貯水施設。同様なものは金山城南条城などで見られます。 女坂を迂回して降りた堀切1。写真だと小さく見えますが、このさらに上まであるのです。いったい何を考えてここまで大きくしたか・・・。
堀切1から女坂の堀底状通路を見る。この通路も非常に大規模です。 同じく女坂。途中で電光系の折れを持っており、やはり中世期の遺構と思います。
さらに南の「萩の台」は広い空間がありますが、ソレガシには城郭遺構には感じられませんでした。 北野神社附近から小櫃谷に面した城下集落を見る。里見義頼が領国完全制圧を狙って押し寄せてきた山河が一望に。

遺構も雰囲気も素晴らしいですが、危険個所が多いです。しつこいようですが、崖端は近づかないほうがいいです。くれぐれも転落防止に気をつけましょう。できれば山歩き初心者の見学や、一人の見学は避けるべきかも。

 

 

交通アクセス

館山自動車道「姉崎袖ヶ浦」ICより車40分。

JR久留里線「上総松丘」駅徒歩10分で登り口。

周辺地情報

里見義弘が一時居住したといわれる大戸城がすぐ近く。見ごたえがあるのは久留里城

関連サイト

 

 

参考文献

「君津市史」

「畔蒜庄亀山郷における戦国末期の動向」(小高春雄・『千葉城郭研究第七号』/千葉城郭研究会 所収)

「久留里城誌」(久留里城再建協力会)

「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」 ( 川名登 編/図書刊行会)

「房総の古城址めぐり(上)」( 府馬清/有峰書店新社)

新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭

 

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