伝承、軍記物では、38歳で死去した里見義通の子、義豊が宮本城に在城し、幼い義豊に替わって叔父の実堯が稲村城に在城して家督を代行していた、といいます。しかし義豊が成人するに及んでも実堯は実権を譲らず、義豊は実堯を稲村城に攻め滅ぼし家督を相続、しかし実堯の子、義堯が犬掛合戦で義豊を討ち、敵討ちを果たしたとともに里見氏総領を嗣ぐことになった、と。しかし近年の研究によって、この話はかなり事実を歪曲したものであることが分かっています。義豊が家督を相続したのは通説よりはるかに早く、また死亡した年齢も通説の21歳ではなくかなりの熟年に達していたこと、義通も享年は38歳よりかなり高齢であったこと、義豊は宮本城ではなく稲村城に在城し、実堯は家督を嗣いでおらず金谷城に在城したらしいこと、などが分かっています。
滝田城とは峰続きで、犬掛方面から岡本城のある豊岡海岸、鏡ヶ浦方面へ抜ける街道沿いの立地です。それなりに交通を押さえる場所にはありますが、岡本城や滝田城の立地に比べ、戦略的にそれほど価値が高いとは思えません。上記の軍記物の記述には歴史的な改竄があり、事実関係において大きな誤りがあるのですが、この宮本城に関しても義豊が居城した、という事実はおそらくないでしょう。せいぜい城代が置かれて、鏡ヶ浦から平久里街道へ抜ける間道を押さえた、という程度の位置付けではなかったかと思います。ただし、宮本城にはこの内乱を勝ち残った義堯が一時在城していたらしく、城下の大津からの発給文書が残されています。おそらく、久留里城入城直前の一時期、居城となっていたものでしょう。
ところで、この宮本城には、戦国後期の特徴を持つ大規模かつ高度な遺構が残されている事が指摘されています。通説では義豊の死後、あるいは義堯の久留里城移城後は廃城された、となっていますが、残された遺構はそれを否定するような技巧と規模があるようです。ところがそれを見ようと今回二度目の訪問であったのですが、主郭以外はどこも物凄いガサ藪と倒木で、大規模な遺構が残る尾根に辿り着く事も出来ずに敢え無く撤退しました。主郭だってあづまやと城址碑くらいはあるものの、草は伸び放題、倒木だらけで昨年来たときより状況が悪化しているし。登山道は中腹までの農道も含めかなりの急坂なので、せっかく登ったのに勿体無い、いやそれよりも、それだけの遺構がありながら藪の中に放置されているのは勿体無い気がします。全面調査された千葉城郭研究会の方はスゴイと思いました。で、しょうがないのでこの調査結果をお借りしてお話しますと、遺構は主郭より西側の腰曲輪群(これも深い藪の中)と、東側尾根、そこから南北に派生する尾根に築かれた削崖と堀切を主体とする部分、に大きく分けられるようです。概念図によれば、西側部分は古風でシンプルな山城、東側部分は戦国後期の純軍事的要害、という印象です(見てから言いたいんですけどね)。場所的に内陸の平久里街道、滝田城方面と岡本城方面の海岸線を結ぶ裏街道に面していることから、街道監視や烽火中継の意味と同時に、永禄末期から天正年間にかけての北条氏の攻勢が大きく関係していると推測されます。義堯が久留里城に移った後、全盛期の里見氏にとっては宮本城の軍事的価値は一時下がったでしょうが、北条氏の攻勢で佐貫城・久留里城あたりの支配権が怪しくなり、勝浦城の正木時忠の離反、その後の大多喜城の正木憲時の乱などで里見氏の安定支配権は安房・上総国境付近まで押し戻されていたものと思われます。こうした情勢を踏まえて、宮本城の軍事的価値が上がり、岡本城から東西に結ぶライン、(岡本〜宮本〜滝田あるいは里見番所、江見根古屋城も加えていいかも知れない)が構築された、と考える事ができそうです。これは同時に里見氏にとっての最終防衛ライン「存亡ライン」ともいえそうです。
いろいろ書いてから言うのも何なのですが、とにかく草だらけの主郭付近しか見られない現状では、あまり訪問はオススメしません。優れた遺構を持つ城郭であるだけに、なんとか最低限の整備だけでもして欲しいものですが。。。