内乱前夜の義豊居城と伝わる

宮本城

みやもとじょう Miyamoto-Jo

別名:大津城

千葉県安房郡富浦町大津

城の種別 山城

築城時期

文明年間天ごろ?

築城者

里見成義?

主要城主

里見氏

遺構

曲輪、堀切、切岸 等

宮本城のある城山<<2002年12月22日>>

歴史

安房統一を果たして稲村城を築城した里見義実の子、成義(義成)が築城したとされるが成義の実在を含めて確証は無い。

軍記物においては、里見義通の死後、幼少の嫡子義豊が宮本城に在城し、義通の弟にあたる実堯が稲村城に在城して政務を代行したと伝わる。しかし実堯は義豊が長じて後も家督を返さず、実堯の子、義堯に相続する動きがあったため、天文二(1533)年、義豊は宮本城を進発し、稲村城を急襲、実堯と正木通綱を討った、とされる。しかし近年の研究により、この里見氏の内紛の実態が見直され、義豊は幼少ではなく成人として家督を相続し稲村城に在城していたこと、よって宮本城には在城していないらしいことや、内紛そのものの経緯、アウトラインが大幅に改竄されていることなどが分かっているという。天文年間には里見義堯が一時在城していたらしく、城下の大津からの発給文書が残されている。その後の宮本城については不明だが、現存遺構からは戦国後期に大修築を行ったことが想定されている。

伝承、軍記物では、38歳で死去した里見義通の子、義豊が宮本城に在城し、幼い義豊に替わって叔父の実堯が稲村城に在城して家督を代行していた、といいます。しかし義豊が成人するに及んでも実堯は実権を譲らず、義豊は実堯を稲村城に攻め滅ぼし家督を相続、しかし実堯の子、義堯が犬掛合戦で義豊を討ち、敵討ちを果たしたとともに里見氏総領を嗣ぐことになった、と。しかし近年の研究によって、この話はかなり事実を歪曲したものであることが分かっています。義豊が家督を相続したのは通説よりはるかに早く、また死亡した年齢も通説の21歳ではなくかなりの熟年に達していたこと、義通も享年は38歳よりかなり高齢であったこと、義豊は宮本城ではなく稲村城に在城し、実堯は家督を嗣いでおらず金谷城に在城したらしいこと、などが分かっています。

滝田城とは峰続きで、犬掛方面から岡本城のある豊岡海岸、鏡ヶ浦方面へ抜ける街道沿いの立地です。それなりに交通を押さえる場所にはありますが、岡本城滝田城の立地に比べ、戦略的にそれほど価値が高いとは思えません。上記の軍記物の記述には歴史的な改竄があり、事実関係において大きな誤りがあるのですが、この宮本城に関しても義豊が居城した、という事実はおそらくないでしょう。せいぜい城代が置かれて、鏡ヶ浦から平久里街道へ抜ける間道を押さえた、という程度の位置付けではなかったかと思います。ただし、宮本城にはこの内乱を勝ち残った義堯が一時在城していたらしく、城下の大津からの発給文書が残されています。おそらく、久留里城入城直前の一時期、居城となっていたものでしょう。

ところで、この宮本城には、戦国後期の特徴を持つ大規模かつ高度な遺構が残されている事が指摘されています。通説では義豊の死後、あるいは義堯の久留里城移城後は廃城された、となっていますが、残された遺構はそれを否定するような技巧と規模があるようです。ところがそれを見ようと今回二度目の訪問であったのですが、主郭以外はどこも物凄いガサ藪と倒木で、大規模な遺構が残る尾根に辿り着く事も出来ずに敢え無く撤退しました。主郭だってあづまやと城址碑くらいはあるものの、草は伸び放題、倒木だらけで昨年来たときより状況が悪化しているし。登山道は中腹までの農道も含めかなりの急坂なので、せっかく登ったのに勿体無い、いやそれよりも、それだけの遺構がありながら藪の中に放置されているのは勿体無い気がします。全面調査された千葉城郭研究会の方はスゴイと思いました。で、しょうがないのでこの調査結果をお借りしてお話しますと、遺構は主郭より西側の腰曲輪群(これも深い藪の中)と、東側尾根、そこから南北に派生する尾根に築かれた削崖と堀切を主体とする部分、に大きく分けられるようです。概念図によれば、西側部分は古風でシンプルな山城、東側部分は戦国後期の純軍事的要害、という印象です(見てから言いたいんですけどね)。場所的に内陸の平久里街道、滝田城方面と岡本城方面の海岸線を結ぶ裏街道に面していることから、街道監視や烽火中継の意味と同時に、永禄末期から天正年間にかけての北条氏の攻勢が大きく関係していると推測されます。義堯が久留里城に移った後、全盛期の里見氏にとっては宮本城の軍事的価値は一時下がったでしょうが、北条氏の攻勢で佐貫城久留里城あたりの支配権が怪しくなり、勝浦城の正木時忠の離反、その後の大多喜城の正木憲時の乱などで里見氏の安定支配権は安房・上総国境付近まで押し戻されていたものと思われます。こうした情勢を踏まえて、宮本城の軍事的価値が上がり、岡本城から東西に結ぶライン、(岡本宮本滝田あるいは里見番所江見根古屋城も加えていいかも知れない)が構築された、と考える事ができそうです。これは同時に里見氏にとっての最終防衛ライン「存亡ライン」ともいえそうです。

いろいろ書いてから言うのも何なのですが、とにかく草だらけの主郭付近しか見られない現状では、あまり訪問はオススメしません。優れた遺構を持つ城郭であるだけに、なんとか最低限の整備だけでもして欲しいものですが。。。

草生す主郭。登山道は整備されていて、主郭にはあづまやが建ってはいるものの、城郭としての遺構を見るにはちと厳しいくらいの藪でした。 なんとなく寂しげな城址の碑。「石積」があったような標記のある資料もありますがそれらしきものは見当たりません。この「石碑」を指したものでしょうか?近くにはこんな歌碑もありました。
草を掻き分け眺望を見る。午後の光に照らし出された鏡ヶ浦(館山湾)が文字通り鏡のようでした。岡本城などもほんの少しですが見ることが出来ます。 登山道の横にあった堀?な地形。
城下の集落および農耕用の道路は非常に狭く急坂、車を停める場所もないので、車の方は県道沿いの「花倶楽部」附近で車を置いて歩くことをオススメします。

この頁の作成には千葉城郭研究会発行「図説房総の城郭」および、城郭会の遠山成一様より頂いた資料等を参考にさせて頂いております。貴重な資料と情報をご提供下さった遠山様にこの場を借りて御礼申し上げます。

 

 

交通アクセス

JR内房線「富浦」駅から徒歩60分、または「館山」駅よりバス。

館山自動車道「鋸南富山」ICより車30分。

周辺地情報

海岸線沿いの岡本城や館山市の稲村城館山城など。大津集落から犬掛に抜ける峠道は地図によっては分断されていますが普通乗用車であれば犬掛に抜けられます。犬掛古戦場や滝田城をオススメしておきます。

関連サイト

 

 
参考文献 「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」(川名 登/図書刊行会)、「房総の古城址めぐり(上)」(府馬清/有峰書店新社)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「さとみ物語」(館山市立博物館)、「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会)、「中世城館調査報告書」(天津小湊町)ほか

参考サイト

余湖くんのホームページ

 

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