僕が勤めている会社の施設が一宮町にあり、その縁があって訪れてみました。城跡、というより近世陣屋跡の台地上には土塀が復原されていますが、城址遺構としては目ぼしいものはなく、わずかに堀跡と思われる水溜りがあるのみでした。現在では一宮小学校と「振武館」が建っています。こんもりと茂る城山には、もしかして多少の遺構はあるかも知れませんが、藪に覆われている上、附近の宅地に近いので探索はちょっと難しいかもしれません。水堀?のようなものがあるのがちょっと気にかかるくらいです。
で、前々から実は気になっていたのですが、勝浦正木氏に一宮城を追われた「正木大炊助」って誰?というのがひとつ。もうひとつは「鶴見甲斐守」って誰?というのが二つ目。
前者の正木大炊介は、後に大多喜城主となり、里見義頼と争って滅亡する正木憲時のことである、という説も根強くあるようですが、「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」(川名 登/図書刊行会)など、里見氏・正木氏に関する研究書の多くは「別人」としています。僕もどっちが本当かはわかりません。
もうひとつの「鶴見甲斐守」ですが、多くの説明では「里見氏家臣」であるように取れますが、それであれば徳川家康勢と闘う必要は全然無いわけで、天正十八年当時の情勢を考えると、庁南城の武田氏、または万木城の土岐氏配下の将ではないか?そんな気がします。まったく確証はありません。
この一宮城が立地する丘陵はさして高い場所ではありませんが、平野に突出した丘陵の先端部に築かれていて、九十九里の海岸方面に眺望が利き、また当時は海岸線がもっと迫っていて、一宮川の河口に近かったことから、里見氏・正木氏の東上総における海上交通・軍事の拠点になっていたようです。里見義頼と正木憲時の争いでは、大多喜城とともに正木氏にとっての最後の拠点になりました。
僕が訪れた時期はまさに桜が満開の頃でした。ま、城址としては見所はないに等しいですが、この桜だけでも良しとしますか。