勝浦城は勝浦湾の東南端に突き出た険しい崖、八幡岬の突端に築かれています。ここは東上総最大の水軍城ですが、その地形ゆえか、城内は大して広くは無く、遺構も鮮明ではない印象です。八幡岬は非常に幅の狭い半島状の岬で、広い平坦面が取れる場所もほとんどない痩せ尾根が続いています。この尾根を堀切で断ち切って城域を確保しているのですが、現在公園として開放されている場所はこの尾根筋ではなく、城内を通る道も新たに遊歩道を作って曲輪間を繋いでいる様子です。従って、遊歩道沿いには殆ど遺構らしい遺構は見られません。恐らく藪化している尾根に攀じ登れば、堀切や虎口等の遺構があるものと思われますが、藪が深い上、地形が地形なので無理は禁物、あまり積極的に遺構を探そうとはしませんでした。しかし、「八幡岬公園」の北側の集落はかつての勝浦の港町で、そのそばの浜が水軍基地であったといわれ、その集落と浜を取り囲む尾根筋や背後の入り組んだ谷津も勝浦城の城域の一部であるとの見方もあります。どちらかといえば、個々の遺構よりも切り立った崖に築かれた地形そのものや荒波押し寄せる太平洋、軍港であった勝浦湾などの全体の景色・地形が最大の見所と言えるでしょう。
もともとは真里谷武田氏系の一族の属城と思われ、真里谷武田氏の一族である真里谷朝信がいたらしいことが伝えられていますが、相次ぐ一族内訌での真里谷武田氏の衰退とともに安房から上総へ勢力を伸ばしつつあった里見氏の将、正木大膳亮時茂の弟、正木左近大夫時忠により攻略されます。これによって里見氏にとって、西から佐貫城−久留里城−大多喜城−勝浦城という「上総国防圏」が形成されます。第二次国府台合戦の敗戦と勝浦正木氏の離反によって、一時この「国防圏」は脅かされますが、概ねこのラインが機能していたと見ることができます。
その後の勝浦城には様々な疑問があります。そもそも「第二次国府台」の敗北後、里見氏を離反した勝浦正木氏がいつ頃再び里見氏に帰順したかについてもはっきりとはわかっていません。この離反行為の影には、内房の金谷城の支配権をめぐる内房正木氏との同族対立などもあったようです。少なくとも里見義頼の代、天正八(1580)年の「正木憲時の乱」の頃には小田原に人質に出ていた正木頼忠は勝浦城に戻っており、対正木憲時の先鋒として活躍したりしていますので、一応、三船台合戦後から相房和睦あたりまでの期間に里見氏に再び属するようになった、と考えるべきでしょうか。この当時は相房和睦がまだ機能しており、頼忠は平和的に勝浦城に帰ることができたのではないかと考えます。しかし、「小田原の役」には里見氏に与していた筈で、ここで「お万」伝説に矛盾が出てきます。
「お万」とは正木頼忠の女で、のちに徳川家康の側室となって紀伊徳川家の祖・頼宣、水戸徳川家の祖・頼房を生んだ女性です。このお万は、勝浦城の落城に際し、断崖絶壁を白布を伝って海上に逃れた、という「お万布晒し」伝説が有名です。多くの書ではこの「お万布晒し」を、小田原の役のときのこととし、地元ではこれを哀しんで旧暦八月十五日の月見を遠慮する風習がある云々、というのです。
「お万」伝説については、なぜ反北条であった里見氏の属城である勝浦城が攻撃対象になったのか、この時期再度頼忠は里見氏から離反したのか、お万伝説の「旧暦八月十五日」は小田原合戦はとうに終わっているのになぜ?などの矛盾がつきまといます。正木頼忠がこの時期に里見氏を離反したとは前後の状況から考えにくいことです。とすると、お万伝説は「別な事態」を想定すべきかもしれません。そのひとつは天正八(1580)年の「正木憲時の乱」、このときに正木憲時は勝浦城を攻め取った、とも云われており、数え年四歳のお万が誰かにおぶわれて崖を下って逃げた、と考えれば整合性が取れそうです。
また、「関八州古戦録」「房総治乱記」などによれば、天正末期に「正木左近大夫正春(正康)」なる人物が里見氏に叛旗を翻し、勝浦城で義頼の軍勢と戦い、敗れて清澄山で山岳ゲリラとなり、軍船を建造して鑓田美濃守の居城である小浜城を襲った云々、とありますが、時代的にこの時期の勝浦城主は頼忠のはず。「左近大夫」は勝浦正木氏代々の官途ですが、このような人物がいたかどうかは大いに疑問、仮に「左近大夫正春」が実在したとしたら何者なのか、また事実誤認であれば永禄七(1564)年の勝浦正木氏の反里見行動、あるいは大多喜城主・正木憲時の乱を表わしているのか?そもそもこの話、どこまで本当なのか?よくわかりません。
さらに一言、余計なことを言えば、「お万布晒し伝説」そのものが「・・・・どうなんだろうな・・・・・」という気がしないでもありません。長々論じておいてこんな結論で恐縮ですが。。。。