川中島東城砦群の指令塔
鞍骨城
(附・天城山城)
くらほねじょう Kurahone-Jo
別名:
長野県長野市松代町清野〜千曲市倉科
山城
築城時期
築城者
清野山城守勝照?
主要城主
清野氏
遺構
曲輪、堀切、竪堀、土塁、石塁
主郭の鉢巻状の石積み<<2004年11月21日>>
歴史
築城時期は明らかではないが、永正年間(1504-21)にこの地の在地土豪である清野山城守勝照が築き、清野氏の詰城とされたという。清野氏はもともと葛尾城主の村上氏に属していたが、天文十九(1550)年九月、武田氏による戸石城攻撃の際に清野清寿軒が武田氏に出仕し、天文二十二(1553)年には清野左近大夫が信玄より「信」の一字を偏諱されている。その後は海津城の築城によりその外郭線を形成する支城となったものと思われるが、具体的な城主や城歴は不明である。天正十(1582)年、織田信長の死後、上杉景勝は北条氏政と川中島の領有を争い、景勝は「清野鞍掛山」に登って旌旗を立てた、とあるが、これは鞍骨城を指すと思われる。清野氏は武田氏の滅亡後、上杉景勝に属し、慶長三(1598)年の会津への移封によりこの地を離れたというが、鞍骨城がいつ廃城になったかは不明。
信州川中島周辺には多くの城砦が盆地を取り囲むように林立していますが、特に濃密なのは川中島の北西、善光寺の裏手と、南東の海津城の裏手の山々です。このうち後者はここで紹介する鞍骨城や尼巌城などで、いずれも海津城を180度包囲するように並んでおり、あたかも山城が鶴翼の陣形で展開しているかのようです。これらの山城群はさらに尼巌城を中心として展開する右翼の城砦群(寺尾城、金井山城、霞城など)と、鞍骨城を中心に展開する左翼の城砦群(竹山城、唐崎城、鷲尾城など)に分かれ、その他に奇妙山や「のろし山」などの烽火台、天城山(てぎやま・てじょうさん)城のような尾根の分岐点上の小城砦などがあります。謙信が布陣したという妻女山はこの左翼の城砦群の尾根先端にあたります。こうしたことから、「妻女山に上杉軍が布陣しようとすれば、これらの山城群をクリアする必要がある。よって妻女山布陣はなかった」とする説が根強くあります。
正直なところ、謙信が妻女山に布陣したかどうか、自分でも結論が出せていません。善光寺と妻女山を結ぶラインで海津城を封じ込める、という机上の策はいかにも妥当に思えますが、その割に武田本隊の海津城入城をやすやすと許していたり、武田軍の渡河行動を妨害するわけでもなく、妻女山に布陣したメリットが見えてこないのです。
話を鞍骨城に戻すと、果たしてこの鞍骨城や周囲の城砦群が謙信の脅威になりえたか、ということを考えると、これまた疑問が湧いてきます。鞍骨城が妻女山の尾根続きに位置することは事実なのですが、その距離はあまりにも長く、また尾根も狭く、とても大軍が駆け引きできるような地形ではありません。直接的な脅威になりうるのはむしろその中間の天城山城ですが、こちらも規模が小さく、基本的には尾根の分岐点を守る砦程度の位置づけなので、妻女山に謙信が布陣したとしても、強襲攻撃をかけることは不可能だったでしょう。当然、謙信だって敵中に布陣するからには背後にもそれ相応の守備を布いたはずで、その守備陣を破れるほどの攻撃力がこれらの山城にあるかといえばかなり疑問です。現地で歩いてみた感じからいえば、妻女山布陣があったかどうかの結論は出ないにしても、鞍骨城や天城山城の存在はあまり問題にならなかったのではないか、と考えます。この点ではむしろ直接的な脅威になったのは、竹山城や寺尾城などの、ある程度進退の駆け引きが可能な城砦の方だったのではないか、とも思いました。
もうひとつ、この山一帯をを歩いてわかったのは、「きつつき戦法による一万二千の奇襲部隊の編成による攻撃はありえない」ということです。鞍骨城周辺の尾根は、尾根筋こそなだらかなものの、山の両側は急斜面で、唯一通り抜けが可能なのは妻女山から鞍骨城と天城山城の間の二本松峠を越えるルートくらいなものですが、険阻なルートを一万二千人の大軍が夜間行動をするなど、現地地形を見る限り考えられません。そもそも本隊よりも別働隊の方が多い人数編成を組むかどうか、直前まで敵に気づかれない必要がある隠密作戦に一万二千の兵をつけるかどうか、それらの兵を本当に気づかれずに強襲ポイントまで移動できるかどうかなど、疑問だらけの戦法ではあります。仮に奇襲部隊を編成するとしたらせいぜい数百から一千程度を唐崎城、鷲尾城から屋代城にかけて送り込むのが精一杯というところでしょう。
で、そうなるとこの鞍骨城の位置づけをどう見るかなのですが、基本的には直下の竹山城、唐崎城、鷲尾城などの「司令塔」としての位置づけではないか、と思っています。これらの山の端に築かれた城砦群は見通せる範囲が狭いため、どこか高いところから全体をコントロールする必要から鞍骨城を設けたのではないか、と思っています。逆に言えば、籠城や出撃を念頭に置いたお城ではなく、「艦隊旗艦」とでもいうか、戦闘指揮所としての機能を集約させたものではないかと思います。
鞍骨城の周辺の尾根には本城とかなり離れた場所に堀切があったりして、どこまでが城域、と一概に決めきれないものがありますが、一応本来の城域としては三方の尾根が集まる主郭を中心に、半径100mくらいの範囲を想定していいのではないかと思います。それ以外にも尾根の途中途中に堀切があったり、唐崎方面の明聖神社あたりにも小規模な砦があり、大きく見ればこれらの尾根続きの山全体を使った山城、とも見ることができそうです。ちなみに鞍骨城に関しては川中島合戦の時代より下って天正十(1582)年七月七日、本能寺の変の後に上杉景勝と北条氏政が川中島の領有を争った際に景勝が「清野鞍掛山」に陣取って旌旗を立て、山上山下に雲霞の如く兵を並べた、とありますが、この「清野鞍掛山」はこの鞍骨城から妻女山一帯を指すのでしょう。このときは何も知らずに川中島へ侵攻した北条氏政がこの光景を見て仰天し、一戦も交えずに撤退しています。ただこの布陣は短期間であったようなので、改修というほどの工事はしていないかもしれません。
鞍骨城へのルートは、妻女山の奥の林道からのルート、唐崎城や鷲尾城からのルートがあり、「あんずの里ハイキングコース」として整備されていますが、鞍骨城はかなり山の中であり、相当に歩きます。道も途中まではしっかりしているのですが、鞍骨城の主要部が近づくと鋭い堀切や険しい切岸などで、足場が悪くなります。行く際には、事前にルートをしっかり確認すること、それなりの覚悟と装備を持って登ることが必要でしょう。天城山城はこれらのルートの合流点の小高い峰の上にあり、直接通路は通っていませんが、雑木林の中をちょっと登ればたどり着きます。 なお、ソレガシはこの天城山城でクマに遭遇しました。同行のA殿が「クマだ!」と叫んだときには「ウソだろ?」と思いましたが、次の瞬間、30mほど離れた場所にまぎれもない体長1.5mほどのツキノワグマがいることを確認、体が凍りました。幸い、クマは我々には何の関心も無かったようで、「物好きな奴らがいるなあ」程度に一瞥した後、山林の中に消えていきました。深い山の中でもあり、昨今の餌不足とは別に、普段から棲息しているクマだったようです。とにかくそういう山なので、一人歩きはなるべく避けましょう。
[2005.06.12]
天城山城
交通アクセス
上信越自動車道・長野自動車道「更埴」ICより車5分、しなの鉄道「東屋代」駅より徒歩20分で鷲尾城登り口(大日堂附近)。そこから徒歩1.5〜2時間。雨宮、妻女山からも登山路があるが事前のルート確認が必要。
周辺地情報
関連サイト
参考文献
「日本城郭大系」(新人物往来社)
「戦国武田の城」(中田正光/有峰書店新社)
「上杉家御書集成U」(上越市史中世史部会)
「上杉家御年譜 第二巻」(米沢温故会」)
参考サイト
越後の虎 越後勢の軌跡と史跡